終わりなき帰還   作:赤銀

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教主様。聞こえていますか?

 

地面が、消えた。

 

崩れたわけではない。

 

音もなく。

 

さっきまでそこにあった高台が、最初から存在しなかったみたいに平らな草原へ変わる。

 

「え――」

 

教主様の身体だけが、その変化についていかなかった。

 

空中へ投げ出される。

 

篝火も。

 

白い塊も。

 

「っ!」

 

私は反射的に時間を止めた。

 

風が止まる。

 

草が止まる。

 

落ちかけた教主様の身体も。

 

白い塊も。

 

世界から音が消える。

 

私は空中へ駆ける。

 

まず白い塊を抱き寄せた。

 

そのまま教主様へ手を伸ばす。

 

重い。

 

力の抜けた身体を、なんとか抱える。

 

「……教主様」

 

返事はない。

 

さっきまで石だった。

 

その前は、血だまりの中にいた。

 

今は。

 

ただ眠っているように見える。

 

私はその顔を見ないようにした。

 

白い塊を肩へ乗せる。

 

教主様を抱えたまま、地面へ降りる。

 

時間を戻した。

 

風。

 

音。

 

草のざわめき。

 

教主様の身体が、私の腕の中で一瞬だけ揺れる。

 

次の瞬間。

 

黒く焼け焦げた姿へ変わった。

 

「……っ」

 

すぐに戻る。

 

今度は傷ひとつない。

 

また明滅。

 

私は歯を食いしばる。

 

「もう……やめてください」

 

誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。

 

手元の表示。

 

99.0%。

 

数字だけは動かない。

 

私は周囲を見る。

 

どこへ行けばいい。

 

何をすればいい。

 

草原。

 

次の瞬間には花畑。

 

また明滅。

 

焼け野原。

 

水面。

 

石造りの街。

 

知らない森。

 

世界が瞬きのたびに入れ替わる。

 

足元さえ、信用できない。

 

その中で。

 

ひとつだけ。

 

変わらないものがあった。

 

遠く。

 

空を貫く、大きな影。

 

世界樹。

 

花畑になっても。

 

水に沈んでも。

 

街が現れても。

 

焼け野原になっても。

 

同じ場所に立っている。

 

「……世界樹」

 

白い塊が肩の上で動いた。

 

私より先に、そちらを見ている。

 

私はCOCOを握り直した。

 

「あそこしか……ないですよね」

 

白い塊は何も答えない。

 

ただ、私の肩から飛び降りた。

 

地面へ着地する。

 

そして。

 

世界樹へ向かって歩き始めた。

 

「待って」

 

私は教主様を抱え直し、その後を追う。

 

一歩。

 

景色が変わる。

 

草原。

 

もう一歩。

 

足元が水になる。

 

「っ……」

 

水が膝まで来る。

 

次の瞬間には消えた。

 

今度は雪。

 

冷たい風。

 

白い塊は止まらない。

 

まっすぐ。

 

世界樹へ。

 

私も追う。

 

教主様の身体が腕の中でまた明滅する。

 

重さまで変わる。

 

ある瞬間には、ひどく軽い。

 

次の瞬間には、腕が抜けそうなほど重い。

 

「教主様……」

 

呼んでも。

 

返事はない。

 

世界樹は近づいたと思えば。

 

また遠くなる。

 

十歩先に見えたはずなのに。

 

瞬きをすると、地平線の向こう。

 

「どうなってるの……」

 

白い塊が一度だけ振り返る。

 

それから、また走り出す。

 

私はその背中だけを見る。

 

見失わないように。

 

世界が変わる。

 

妖精王国。

 

誰もいない大通り。

 

次。

 

花畑。

 

次。

 

燃える森。

 

次。

 

凍った建物。

 

次。

 

水の中。

 

息を止める。

 

また草原。

 

でも。

 

白い塊だけは、同じ方向へ進んでいる。

 

世界樹も。

 

変わらない。

 

私はようやく気づく。

 

景色に道を探してはいけない。

 

道そのものが、もう存在していない。

 

残っているものを追うしかない。

 

「……行きましょう」

 

白い塊の後を追う。

 

何度世界が変わっても。

 

何度足元が消えても。

 

世界樹だけを見て。

 

やがて。

 

明滅の間隔が、少しだけ長くなる。

 

巨大な根。

 

黒い幹。

 

空を覆う枝。

 

世界樹が、目の前にあった。

 

私は足を止める。

 

白い塊も止まった。

 

教主様をゆっくりと地面へ下ろす。

 

「……着きましたよ」

 

返事はない。

 

教主様の胸が上下しているのかさえ、もう分からない。

 

私はCOCOを握る。

 

目の前には。

 

何度世界が変わっても消えなかった、世界樹。

 

「……ここ、なんですね」

 

風だけが、巨大な枝の間を通り抜けていった。

 

私はCOCOを持ち上げる。

 

重い。

 

照準の先に、世界樹の幹。

 

これまでずっと。

 

世界がおかしくなれば、その中心には世界樹があった。

 

記憶も。

 

時間も。

 

世界そのものも。

 

だったら。

 

「これで……」

 

指を引き金へかける。

 

白い塊が、私を見上げている。

 

私は息を止めた。

 

撃った。

 

乾いた音。

 

衝撃が腕を抜ける。

 

世界樹の幹に、光が走った。

 

私は目を見開く。

 

「……」

 

何も起きない。

 

風。

 

枝の擦れる音。

 

それだけ。

 

99.0%。

 

数字も動かない。

 

「どうして……」

 

もう一度、世界樹を見る。

 

撃った場所に、小さな痕が残っている。

 

それだけだった。

 

「なんで……!」

 

COCOを握り直す。

 

そのとき。

 

世界が、また明滅した。

 

足元の草原が一瞬だけ石畳へ変わる。

 

身体がわずかに傾いた。

 

「あっ」

 

手にしていた次元移動装置が滑り落ちる。

 

地面へ落ちた。

 

硬い音。

 

ころ。

 

ころころ。

 

世界が草原へ戻っても、装置だけは勢いを失わずに転がっていく。

 

そして。

 

教主様のすぐ隣で止まった。

 

私は一瞬だけ、それを見る。

 

けれど。

 

「……リニュア」

 

かすかな声。

 

「!」

 

教主様。

 

目が、開いている。

 

「教主様!」

 

私は駆け寄る。

 

教主様は横たわったまま、世界樹を見上げていた。

 

「無駄だよ」

 

「え……?」

 

「それを撃っても」

 

息をするたびに、声が途切れる。

 

「もう……何も起きない」

 

「どうしてですか」

 

教主様は少しだけ目を細めた。

 

「見れば分かるだろう」

 

世界樹を見る。

 

黒い幹。

 

枝。

 

葉はない。

 

光もない。

 

風に揺れることさえない。

 

ただ。

 

そこに形だけを残している。

 

「もう、死んでいるんだ」

 

胸の奥が冷たくなる。

 

「……死んでる?」

 

「ずっと前からね」

 

教主様は、自分の胸元へ手を置いた。

 

「私がここにいるのは」

 

小さく息を吸う。

 

「世界樹の力を借りたからだ」

 

私は教主様を見る。

 

「私は本来、この世界にはいない存在なんだ。」

 

「……」

 

「それでも、ここに来た」

 

教主様の輪郭が一瞬揺れる。

 

「だから」

 

ほんの少しだけ笑った。

 

「いわば、残った欠片みたいなものだ」

 

私は言葉を失う。

 

教主様の隣。

 

転がったままの次元移動装置。

 

「リニュア」

 

教主様が私を見る。

 

「撃つなら」

 

一呼吸。

 

「私を撃て」

 

「……」

 

COCOが、急に重くなる。

 

「私が残っているから、終わらない」

 

「そんな……」

 

「いいんだ」

 

教主様は目を閉じかける。

 

「何度も死ぬのには、もう慣れた」

 

「慣れてなんか……!」

 

「リニュア」

 

静かな声だった。

 

「これで最後にしてくれ」

 

私はCOCOを持ち上げる。

 

銃口が。

 

ゆっくりと。

 

教主様へ向く。

 

逃げない。

 

目を逸らさない。

 

教主様は、ただ私を見ている。

 

「それでいい」

 

指を引き金へかける。

 

できる。

 

撃てばいい。

 

教主様自身がそう言っている。

 

世界樹の欠片。

 

残っているもの。

 

それを消せば。

 

きっと。

 

終わる。

 

「……」

 

視界の端で。

 

白い光が瞬いた。

 

教主様のすぐ隣。

 

次元移動装置。

 

私は、それを見る。

 

この装置で。

 

何度、世界を渡っただろう。

 

救えなかったら、次へ。

 

また次へ。

 

違う世界へ。

 

違う教主様へ。

 

違う結末へ。

 

私は教主様へ向けていた銃口を、ゆっくりと下げた。

 

「……リニュア?」

 

教主様の声。

 

銃口を横へ向ける。

 

その先。

 

次元移動装置。

 

教主様の表情が、初めて崩れた。

 

「何を……」

 

私は装置を見る。

 

これを壊せば。

 

もう戻れない。

 

次の世界もない。

 

失敗したときに逃げ込む場所もない。

 

教主様を探しに、別の世界へ行くこともできない。

 

ここで。

 

この世界で。

 

最後まで。

 

私は息を吸った。

 

「……もう」

 

指に力を込める。

 

「飛びません」

 

「待て、リニュア――」

 

撃った。

 

光。

 

次元移動装置の中央を、COCOの光が貫いた。

 

一瞬。

 

何も聞こえなくなる。

 

そして。

 

装置が砕けた。

 

細かな破片が宙を舞う。

 

白い光を反射しながら。

 

私と教主様の間を。

 

ひとつ。

 

またひとつ。

 

ホログラムを映していたはずの破片が、足元へ転がる。

 

もう、読めない。

 

「……リニュア」

 

教主様の声。

 

私は顔を上げる。

 

白い。

 

空も。

 

草原も。

 

世界樹も。

 

少しずつ、輪郭を失っていく。

 

風景が消えているのか。

 

光に覆われているのか。

 

分からない。

 

教主様の姿も。

 

白い光の向こうへ、ゆっくりと溶けていく。

 

私は手を伸ばした。

 

「教主様――」

 

指先の向こう。

 

白。

 

ただ。

 

白だけが残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空が遠い。

 

風は、穏やかに流れている。

 

あれから、幾日が過ぎただろうか。

 

数えるのは、途中でやめた。

 

私はまだ。

 

教主様を見つけられないでいる。

 

最初のうちは、手当たり次第だった。

 

妖精王国。

 

世界樹の根元。

 

宴会場。

 

川沿い。

 

教主様が立っていた場所。

 

歩いていた道。

 

何度も。

 

同じところを行ったり来たりした。

 

もしかしたら。

 

次に来たときには、そこにいるかもしれない。

 

そんな気がして。

 

けれど。

 

何度行っても。

 

いない。

 

「……教主様」

 

呼んでも。

 

返事はない。

 

世界は、もう揺れなかった。

 

空が赤く裂けることも。

 

突然、街が水に沈むことも。

 

花畑が焼け野原へ変わることもない。

 

朝が来て。

 

昼になって。

 

夜になる。

 

それだけ。

 

あれほど望んでいたはずの安定した世界が。

 

今は、少しだけ怖かった。

 

私は使徒たちにも聞いた。

 

最初は。

 

何か知っていると思っていた。

 

「教主様を見ませんでしたか?」

 

返ってきたのは、困ったような顔。

 

「教主?」

 

別の使徒にも。

 

「白い法衣を着ていて」

 

「背が高くて」

 

「ちょっと面倒くさがりで」

 

「エルフィン女王によく振り回されていて……」

 

説明すればするほど。

 

相手の顔には、知らない人の話を聞くような色が浮かんだ。

 

誰も。

 

教主様を知らなかった。

 

名前を聞いても。

 

顔の特徴を話しても。

 

宴会場のことを話しても。

 

誰一人。

 

「ああ、その人なら」

 

とは言わなかった。

 

まるで。

 

最初から、この世界にはいなかったみたいに。

 

「……そんな」

 

何度目か分からない言葉が、口から落ちた。

 

それでも。

 

次の日には、また別の誰かに聞いた。

 

知らない。

 

その次も。

 

知らない。

 

この世界にもエレナ様はいた。

 

だから少しだけ、期待した。

 

何か知っているかもしれない。

 

私は市長室に忍び込んで扉を叩いた。

 

少しして。

 

モニターにエレナ様の顔が映し出される。

 

「……誰だ」

 

「リニュアと言います。少しお尋ねしたいことが。」

 

「知らないな」

 

エレナ様はボタンに手をかける。

 

「待ってください」

 

私は慌てて手を伸ばした。

 

「少しだけ、聞きたいことが――」

 

「ない」

 

「まだ何も言ってません」

 

「聞くつもりもない」

 

「そんな……」

 

モニター越しに、エレナ様がこちらを睨んでいる。

 

私の知っている声。私の知っている顔。

 

でも。

 

私を知らない目だった。

 

「帰れ」

 

「教主様を探しているんです」

 

ほんの一瞬。

 

「……教主?」

 

「はい。人間の――」

 

ぷつん。

 

もうなにも映さない。

 

「……エレナ様?」

 

返事はない。

 

「ちょっと待ってください」

 

「……」

 

私はしばらく扉の前に立っていた。

 

この世界にもエレナ様はいる。

 

でも。

 

私のことは知らない。

 

教主様のことも。

 

頭の中へ呼びかける。

 

「……エレナ様」

 

返事はない。

 

「アメリア様」

 

やっぱり。

 

何も返ってこなかった。

 

頭の中は。

 

驚くほど広かった。

 

あれほど突然割り込んできた声も。

 

呆れた声も。

 

皮肉も。

 

何もない。

 

「……アメリア様」

 

当然。

 

『市長様なら――』

 

なんて返事もない。

 

私は何度か、壊れた次元移動装置の破片を拾い集めようとした。

 

でも。

 

どれを組み合わせても。

 

何も起きなかった。

 

座標も。

 

光も。

 

もう戻ってこない。

 

私は。

 

ここから出られない。

 

そのことを実感したのは。

 

少し経ってからだった。

 

不思議と。

 

怖くはなかった。

 

ただ。

 

もう探す場所を増やすことができないんだと。

 

そう思った。

 

それから。

 

もうひとつ。

 

気づいたことがある。

 

白い塊。

 

ずっと雪の塊だと思っていた、あれ。

 

気づけば。

 

あの日から、一度も見ていない。

 

「……白いの?」

 

何度か呼んだ。

 

いつもなら。

 

少し離れたところから、のそのそ歩いてきたり。

 

突然、頭の上に乗ってきたり。

 

勝手に先へ行ったり。

 

そんな姿が。

 

もうない。

 

ふと思う。

 

あれは。

 

本当に雪の塊だったのだろうか。

 

あの耳。

 

あの歩き方。

 

あの吠え声。

 

思い返せば。

 

最初から。

 

ずっと。

 

犬だったような気もする。

 

「……犬」

 

口にしてみる。

 

変な感じがした。

 

あの犬は。

 

教主様が消えたのと同じ日に。

 

いなくなった。

 

エレナ様も。

 

アメリア様も。

 

次元移動装置も。

 

そして。

 

教主様も。

 

気づけば。

 

私の周りから。

 

旅を始めた頃にあったものが。

 

ひとつずつ。

 

全部なくなっていた。

 

それでも。

 

私は歩いた。

 

理由なんて。

 

もう、ほとんどなかった。

 

この道を曲がった先に。

 

いるかもしれない。

 

丘を越えた先に。

 

いるかもしれない。

 

知らない街に。

 

森の奥に。

 

川辺に。

 

世界樹の向こうに。

 

そんなはずがないと分かっていても。

 

足だけは止まらなかった。

 

夕方になる。

 

長く伸びた影が、草の上を滑っていく。

 

私はまた。

 

知らない道を歩いていた。

 

どこへ向かっているのか。

 

自分でも分からない。

 

ただ。

 

少し先に。

 

ベンチが見えた。

 

私はそこで。

 

ようやく足を止めた。

 

古い木のベンチ。

 

誰かが使っていたような跡もない。

 

ただ。

 

そこにあるだけ。

 

私は座った。

 

何をするでもなく。

 

空を見る。

 

雲がゆっくり流れている。

 

風が吹く。

 

草が揺れる。

 

それだけだった。

 

もう。

 

探しに行く場所も思いつかなかった。

 

誰かに聞こうとも思わなかった。

 

エレナ様にも。

 

アメリア様にも。

 

呼びかけなかった。

 

私はただ。

 

そこにいた。

 

昼が過ぎた。

 

空の色が少しずつ変わる。

 

遠くで鳥が鳴いた。

 

夕方。

 

影が長くなる。

 

夜。

 

星が出る。

 

教主様はいない。

 

白い犬もいない。

 

誰も来ない。

 

私はベンチに座ったまま。

 

星を見ていた。

 

眠ったのか。

 

眠っていなかったのか。

 

自分でも分からない。

 

気づけば。

 

また空が明るくなっていた。

 

朝。

 

少し寒い。

 

私は膝を抱える。

 

それから。

 

また何もしなかった。

 

太陽が昇る。

 

風が吹く。

 

誰かが遠くの道を歩いていく。

 

私のことなど知らないまま。

 

世界は。

 

普通に一日を始めていた。

 

昼を過ぎた頃。

 

私はようやく。

 

ポケットへ手を入れた。

 

指先に、金属製の硬いものが触れる。

 

レコーダー。

 

取り出す。

 

手のひらに乗せる。

 

何度か。

 

親指で表面を撫でた。

 

再生ボタン。

 

押す。

 

カチ。

 

ノイズ。

 

ざあ。

 

ざざ。

 

長い。

 

何も聞こえない。

 

私はレコーダーを見つめる。

 

ざあ。

 

遠くで。

 

誰かの笑い声。

 

『あはは――』

 

何人かの声が重なる。

 

食器の触れ合う音。

 

誰かが駆けていく足音。

 

少し離れたところから、何かを呼ぶ声。

 

もっと遠く。

 

妖精たちの喧騒。

 

賑やかな。

 

何でもない一日の音。

 

私は動かなかった。

 

ノイズ。

 

ざざ。

 

その向こうから。

 

自分の声がした。

 

『……教主様。聞こえていますか?』

 

少し間。

 

遠くで、また笑い声。

 

風の音。

 

誰かが何かを言っている。

 

でも。

 

言葉までは聞き取れない。

 

『……』

 

返事はない。

 

当然だった。

 

録音だから。

 

分かっている。

 

それでも。

 

少しだけ。

 

待った。

 

ざあ。

 

ざざ。

 

あの日の音だけが。

 

そこから流れ続けている。

 

もういない誰かの笑い声。

 

もう聞こえない街の喧騒。

 

風。

 

足音。

 

そして。

 

私の声。

 

『……教主様。聞こえていますか?』

 

私はレコーダーをベンチの上へ置いた。

 

赤いランプが点いている。

 

それを見て。

 

立ち上がる。

 

「……」

 

何も言わなかった。

 

言ったら。

 

また待ってしまいそうだった。

 

私はベンチに背を向ける。

 

一歩。

 

歩く。

 

もう一歩。

 

振り返らない。

 

ざあ。

 

誰かの笑い声。

 

遠くの喧騒。

 

風。

 

その中に。

 

もう一度。

 

小さく。

 

『……教主様。聞こえていますか?』

 

私は歩き続けた。

 

後ろでは。

 

まだ。

 

あの日が流れている。

 

 

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