この次にエピローグが入りますので、もう少しお付き合いください。
夜。
ベンチの上に、小さなレコーダーが置かれていた。
まだ。
かすかに鳴り続けている。
ざあ。
ざざ。
風が吹くたび。
録音されたノイズと、本物の風の音が重なる。
『――あはは』
遠くで、誰かが笑っている。
少し遅れて。
食器の触れ合う音。
走っていく足音。
何人かの話し声。
もうここにはないはずの。
賑やかな一日の音。
そして。
『……教主様。聞こえていますか?』
返事はない。
レコーダーは。
それでも鳴り続けている。
星明かりの下。
誰も座っていないベンチ。
その前で。
小さな影が足を止めた。
黒い服。
夜に溶け込むような髪。
ギデオンは、しばらくベンチを見ていた。
というより。
そこに置かれたものを見ていた。
ざあ。
『――そっちじゃないって』
『ふふっ』
また。
楽しそうな声。
ギデオンは少しだけ首を傾げた。
誰もいない。
辺りを見回す。
草原。
遠くの灯り。
星。
人の姿はない。
もう一度。
ベンチを見る。
「……これかな」
誰に言うでもなく呟く。
そっと近づいた。
レコーダーには触れない。
まず。
少し離れたところから覗き込む。
赤いランプ。
まだ点いている。
ざざ。
『……教主様』
ギデオンの耳がわずかに動いた。
少しして。
ベンチの端に腰を下ろす。
レコーダーとの間を。
ひとり分くらい空けて。
録音を聞く。
特別なことはしなかった。
止めることも。
巻き戻すことも。
ただ。
流れてくる音を聞いていた。
誰かの笑い声。
遠い喧騒。
風。
時々。
同じ声。
『……教主様。聞こえていますか?』
ギデオンは膝の上で手を組んだ。
「……聞こえてないのかな」
小さな声だった。
当然。
返事はない。
星がひとつ。
雲の向こうへ隠れる。
それから、しばらくして。
ギデオンはレコーダーへ手を伸ばした。
途中で。
一度止まる。
「……持っていっていいのかな」
誰も答えない。
また。
ざあ。
ざざ。
『……教主様。聞こえていますか?』
ギデオンは少し考えて。
レコーダーを両手で持ち上げた。
「……探してるのかな」
今度は。
レコーダーに向かって言った。
夜の風が。
静かに草を揺らした。
翌日。
洞窟の奥。
ギデオンは、昨夜拾ったレコーダーを石の机の上に置いた。
薄暗い洞窟の中で。
それだけが、少し場違いに見える。
「……ここなら、大丈夫かな」
誰も触らない。
雨にも濡れない。
なくなることもない。
持ち主が探しに来たら、そのとき返せばいい。
ギデオンはレコーダーを少し奥へ寄せようとした。
そのとき。
指が。
小さなボタンに触れた。
カチ。
音が止まった。
「……え」
静か。
さっきまで流れていたノイズも。
笑い声も。
あの声も。
何も聞こえない。
ギデオンは固まった。
「……え?」
もう一度。
恐る恐る触る。
反応しない。
「……」
顔が青くなる。
「こ、壊した……?」
もちろん。
壊れてはいない。
ただ電源が切れただけだった。
けれど。
ギデオンは、それを知らない。
しばらく。
レコーダーを両手で持ったまま動かなかった。
「……どうしよう」
昨日。
何度も流れていた声を思い出す。
『……教主様。聞こえていますか?』
きっと。
大切なものだ。
少なくとも。
ベンチに置いていくくらいには。
何か理由があったはずだ。
「……怒るかな」
少し考える。
「……怒るよね」
さらに考える。
「…………帰ってこなかったら、どうしよう」
洞窟の中には。
答えてくれる人はいない。
結局。
ギデオンはレコーダーを抱えたまま、洞窟を出た。
昼。
昨日のベンチ。
ギデオンは座っていた。
膝の上には、鳴らなくなったレコーダー。
空はよく晴れている。
よく晴れすぎていた。
「……あつい」
ギデオンは小さく呟く。
日差しがじりじりと降りてくる。
昼そのものが、あまり得意ではない。
眩しい。
暑い。
洞窟の中なら。
もっと暗くて。
もっと涼しい。
「……帰りたいな」
膝の上を見る。
レコーダー。
でも。
昨日、ここに置いてあった。
持ち主が戻ってきたら。
ちゃんと謝らないといけない。
「……ごめんなさいって」
小さく練習する。
「触ったら、鳴らなくなって……」
少し考える。
「……言い訳みたいかな」
ギデオンは肩を落とした。
そのとき。
ぴょん。
小さな音。
草の間から、カエルが一匹やってくる。
ベンチの前で止まった。
ギデオンも見る。
「……」
カエルも、たぶん見ている。
ギデオンは急いでレコーダーを両手で持った。
「……あの」
少し俯く。
「ごめんなさい」
カエルは動かない。
「これ……ボクが壊しちゃったかもしれなくて」
レコーダーを見せる。
「昨日は、ちゃんと鳴ってたんだけど」
ぴょん。
カエルが一度跳ねる。
「これ……君の?」
また一度。
ぴょん。
そのまま草むらへ入っていった。
ギデオンはしばらく見送る。
「……違ったのかな」
レコーダーを膝へ戻す。
しばらくして。
今度は鳥が飛んできた。
ぱたぱた。
ベンチの背もたれへ着地する。
ギデオンが振り返る。
鳥を見る。
レコーダーを見る。
また鳥を見る。
「……君?」
鳥が首を傾げる。
「これ、落とした?」
反対側へ首を傾げる。
「……違うのかな」
鳥はレコーダーを一度つつこうとする。
「あっ」
ギデオンは慌てて抱える。
「これは……今、壊れてるから」
少し間。
「……ボクが壊したんだけど」
鳥は興味を失ったように羽を広げる。
ぱたぱた。
飛んでいった。
「……違った」
ギデオンはまた待つ。
太陽はまだ高い。
暑い。
眩しい。
少しずつ。
ギデオンの姿勢が低くなっていく。
やがて。
ベンチの端にできた小さな木陰へ身体を寄せた。
「……ここなら」
少しだけ涼しい。
ほんの少し。
そのまま目を閉じる。
少し眠る。
目を開ける。
空を見る。
「……まだ昼」
もう一度。
目を閉じる。
そのとき。
草の向こうで音がした。
ギデオンが顔を上げる。
狐。
一匹。
こちらを見ている。
ギデオンの目が少しだけ開く。
「……もしかして」
狐もこちらを見る。
ギデオンはレコーダーを掲げた。
「これ、君の?」
狐は動かない。
「昨日ここにあったんだけど」
耳がぴくりと動く。
「鳴ってたんだ」
ギデオンは続ける。
「人の声とか」
少し考えて。
「笑ってる声とか」
狐はまだ見ている。
「……君、喋れる?」
狐は踵を返した。
そのまま歩いていく。
「……違ったのかな」
ギデオンは小さく手を振る。
「じゃあね」
狐は振り返らなかった。
それからも。
何かが来るたび。
ギデオンは一応聞いた。
蝶。
「……君の?」
違う。
小さな鳥。
「これ、知ってる?」
たぶん違う。
またカエル。
「さっきの子とは別だよね」
答えはない。
誰にも伝わっていない気がした。
けれど。
ギデオンには、持ち主がどんな姿なのか分からない。
だから。
聞いてみるしかなかった。
夕方。
ようやく。
日差しが弱くなる。
風が少し涼しくなる。
ギデオンの背中が。
ゆっくり起きる。
「……あ」
空が染まっていく。
橙。
紫。
それから。
深い青。
星がひとつ。
空に浮かぶ。
ギデオンの顔が少しだけ緩んだ。
またひとつ。
「……出てきた」
昼間とは違う。
眩しくない。
暑くない。
静か。
ギデオンはベンチへ深く座り直す。
空を見る。
「……夜なら」
膝の上のレコーダーに手を置く。
「ずっと待てそう」
持ち主が何なのか。
どんな姿なのか。
いつ来るのか。
何も分からない。
でも。
星を見ながらなら。
もう少しくらい。
ギデオンは空を見上げた。
そして。
やがて。
遠くから。
足音がした。
ギデオンが顔を上げる。
夜道を。
ひとりの少女が歩いてくる。
足取りは遅い。
どこへ向かっているのかも分からないような歩き方。
少女はベンチの近くまで来て。
そこで足を止めた。
ギデオンも。
動けなくなる。
互いに。
少しだけ見つめる。
やがて。
少女の視線が。
ギデオンの膝の上へ落ちた。
レコーダー。
その瞬間。
少女の表情が変わった。
ギデオンは慌てて立ち上がる。
「あ、あの」
レコーダーを両手で持つ。
「これ……」
言葉が詰まる。
少し俯いて。
「……ごめんなさい」
少女が瞬きをする。
「え?」
ギデオンはレコーダーを差し出した。
「ボク……壊しちゃったみたいで」
「……壊した?」
「昨日は鳴ってたんだけど」
ギデオンの声がどんどん小さくなる。
「今日、しまおうと思って触ったら……鳴らなくなって」
少女はしばらくレコーダーを見る。
そして。
受け取る。
指で側面を探り。
カチ。
ざあ。
ざざ。
『――あはは』
昨日と同じ笑い声が流れた。
ギデオンの目が大きくなる。
「……」
少女も。
少しだけ目を見開く。
ギデオンはレコーダーと少女を交互に見る。
「……壊れてない?」
「電源が切れただけですよ」
「…………」
長い沈黙。
ギデオンの肩から。
目に見えて力が抜けた。
「……よかったぁ」
本当に小さな声だった。
少女は。
初めて。
目の前の小さな黒い子を、ちゃんと見た。
「……この声、君だよね」
少女の指が止まる。
レコーダーからは。
まだ。
遠い笑い声が流れている。
ざあ。
誰かの足音。
ざざ。
『……教主様。聞こえていますか?』
少女は答えなかった。
ギデオンは少しだけ迷って。
続ける。
「教主って人を、探してるの?」
少女の視線が、レコーダーへ落ちる。
しばらく。
何も言わない。
風だけが。
二人の間を通り抜ける。
やがて。
「……探していました」
小さな声だった。
ギデオンが瞬きをする。
「いました?」
「はい」
少女はレコーダーの電源を切る。
カチ。
あの日の喧騒が消える。
急に。
夜が静かになった。
「もう」
少し間。
「見つからないので」
ギデオンは、何も言わなかった。
少女はベンチを見る。
「座ってもいいですか」
「あっ」
ギデオンは慌てて横へずれる。
「うん」
少女が隣に座る。
少し離れて。
ちょうど。
ひとり分くらい。
ギデオンが昨夜、レコーダーとの間に空けていたのと。
同じくらいの距離。
しばらく。
二人とも何も言わない。
空には。
星がいくつも見えている。
ギデオンは上を見る。
少女は。
膝の上のレコーダーを見ている。
「……見つからないって」
ギデオンが小さく聞く。
「どこかに行っちゃったの?」
「分かりません」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
少女が少しだけ顔を上げる。
「あなたは」
「……うん?」
「どうして、これを?」
ギデオンは背筋を少し縮める。
「昨日、ここにあったから」
「……」
「ずっと鳴ってて」
少し俯く。
「雨が降ったら濡れちゃうかなって思って」
「それで、持って帰ったんですか」
「うん」
「……そうですか」
責められているのか。
そうではないのか。
ギデオンには分からない。
念のため。
もう一度。
「……勝手に持っていって、ごめん」
少女は首を横に振った。
「大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
ギデオンの肩が。
また少しだけ下がる。
「よかった」
そして。
また静かになる。
星が瞬く。
少女がぽつりと言った。
「何日も探しました」
ギデオンは顔を向ける。
「使徒たちにも聞きました」
「しと?」
「知り合いです」
「……そっか」
「でも、誰も教主様を知らなかった」
ギデオンは少し眉を寄せる。
少女は続ける。
「この世界にいる人たちは」
「教主様に会ったことがないみたいなんです」
「……誰も?」
「はい」
「そうなんだ…」
少女が少しだけギデオンを見る。
「変、ですか?」
「ううん」
ギデオンは空を見る。
「そんなに探してる人がいるのに」
少し考える。
「誰も知らないって」
少女は何も言わない。
ギデオンも。
それ以上は続けなかった。
しばらくして。
「あの」
ギデオンが言う。
「ボクも」
少女が顔を向ける。
ギデオンは言葉を探す。
「その」
「教主って人に」
少しだけ。
星空を見る。
「会ってみたいな」
少女が瞬きをする。
「……どうしてですか?」
ギデオンは困ったように首を傾げた。
「うーん……」
少し考える。
「分からない」
「……分からない?」
「うん」
星の瞬きは静かだ。
「でも」
少女が置いていたレコーダーを見る。
「ずっと呼んでたから」
『……教主様。聞こえていますか?』
昨日。
何度も聞いた声。
「どんな人なのかなって」
少し間。
「会えたら」
「君に教えられるかもしれないし」
少女はギデオンを見た。
ギデオンはその視線に気づいて。
少しだけ縮こまる。
「……余計だった?」
「いえ」
少女は首を横に振った。
「ただ」
言葉が止まる。
夜風が。
髪を揺らす。
「もう、探す場所がないんです」
ギデオンは空を見たまま言う。
「じゃあ」
「……?」
「まだ探してないところを探せばいいんじゃないかな」
リニュアは何も言わない。
ギデオンは空を見上げる。
「……でも」
少し考えて。
「その人を見つけるのって」
星をひとつ、目で追う。
「流れ星を見るくらい、難しい気がする…」
リニュアも空を見る。
「流れ星……」
「うん」
「ずっと見てても、来ない日は来ないし」
「見てないときに流れちゃうかもしれないし」
ギデオンは少し笑う。
「でも、たまに流れる」
しばらく。
二人は空を見ていた。
流れ星は。
流れなかった。
ギデオンは、それでも星を見ている。
少女は膝の上のレコーダーへ目を落とした。
指で。
表面を少し撫でる。
それから。
ギデオンへ差し出した。
「……これ」
「え?」
ギデオンは自分を指さす。
「ボク?」
「はい」
「でも」
レコーダーを見る。
「君のじゃないの?」
「そうです」
「じゃあ……」
少女は少し考える。
「持っていてください」
ギデオンは受け取らない。
「……いいの?」
「はい」
「大事なものじゃない?」
その問いに。
少女はすぐには答えなかった。
レコーダーを見る。
そこには。
あの日の笑い声が入っている。
街の音。
風。
そして。
何度も呼びかけた自分の声。
「……大事です」
ギデオンの手が止まる。
少女は続ける。
「だから」
少しだけ。
レコーダーを前へ出す。
「あなたが持っていてください」
「……ボクが?」
「はい」
ギデオンは困ったようにレコーダーを見る。
「また壊すかもしれないよ」
「電源を切るくらいなら、大丈夫です」
「……」
ギデオンは少しだけ俯いた。
「今度は気をつける」
両手で。
レコーダーを受け取る。
落とさないように。
大切そうに。
「……ありがとう」
少女は首を横に振った。
「私の方こそ」
それ以上。
何も言わなかった。
それから。
二人は。
ときどき、あのベンチで会うようになった。
夜。
「こんばんは」
「……こんばんは」
それだけの日。
また別の夜。
ギデオンが先に座っている。
リニュアは何も言わず、隣へ座る。
少し離れて。
星を見る。
次の夜。
リニュアは来ない。
ギデオンはひとり。
レコーダーを膝に置いて。
星を数える。
「……今日は、よく見えるね」
その次の日。
昼。
「……暑い」
ギデオンは木陰でしゃがみ込んでいた。
少し休む。
また歩く。
知らない道。
知らない顔。
誰かを見かけるたび。
ちらりと見る。
「……違うかな」
教主がどんな姿なのか。
ギデオンは知らない。
背格好も。
声も。
顔も。
知らない。
それでも。
レコーダーに残った笑い声。
遠くの喧騒。
リニュアが呼ぶ声。
それだけを頼りに。
なんとなく。
探した。
夜。
いつものベンチ。
「今日も探したの?」
「……うん」
「見つかりました?」
「ううん」
少し間。
「暑かった」
リニュアが、ほんの少し笑う。
ギデオンも。
少しだけ笑う。
また別の日。
ギデオンは変わらず。
そこにいる。
星を見ながら。
待っている。
そして。
忘れた頃に。
夜。
珍しく。
その日は、ギデオンが来なかった。
いつものベンチ。
リニュアは一人で座っていた。
隣には。
誰もいない。
ひとり分の距離が空いている。
「……遅いですね」
返事はない。
空を見る。
星はよく見えている。
風も穏やかだった。
いつもなら。
もうとっくにギデオンが来ている時間。
先に座って。
空を見て。
リニュアが来れば。
「こんばんは」
と。
それだけ言う。
けれど。
今日は来ない。
リニュアは背もたれへ身体を預けた。
静かだった。
レコーダーも。
今はギデオンが持っている。
だから。
本当に。
風の音しかない。
少しして。
草を踏む音がした。
リニュアは振り返らなかった。
音は。
ベンチのすぐ後ろで止まった。
少しして。
隣。
木が小さく軋む。
誰かが座った。
リニュアは動かなかった。
風が吹く。
顔を上げられない。
少しして。
コト。
何かがベンチに置かれる。
レコーダー。
「……探していたんだって?」
白い布が視界の端で揺れた。
リニュアの手が。
無意識にレコーダーへ伸びる。
指先が。ボタンに触れた。
カチ。
ざあ。
ざざ。
遠くの笑い声。
あの日の喧騒。
そして。
『……教主様。聞こえていますか?』
リニュアの手が止まる。
彼はしばらく何も言わなかった。
…ただ。
ほんの少しだけ。
笑った。
彼女の瞳に。
一筋の光が映った。