エルフィン成長させすぎたかな…
翌朝。
王宮の窓は、やわらかな光を受けて白くにじんでいた。
廊下に、早い足音が響いた。
止める間もない。
「そこのお前!」
振り向く。
そこに立っていたのは、マヨだった。
目の下に、うっすらと影。
眠っていない。
その手には――レコーダー。
「……一晩中、鳴ってたっす」
声は低い。
怒鳴らない。
そのほうが、重い。
「止めようと思ったっす」
一歩、近づく。
「でも、止められなかったっす」
女王様が静かに立ち上がる。
「マヨ」
呼ぶだけ。
マヨさんは視線を上げない。
「笑ってたっす」
ぽつりと。
「自分が」
その指が、レコーダーを強く握る。
「こんなの、違うっす」
「こんなの――」
腕が振り上がる。
床に叩きつけるために。
その瞬間。
カチ。
親指が、無意識に押す。
ノイズ。
わずかな空白。
『マヨ!少しだけかくまって!』
ざわめき。
『ふふふ…じゃあ、この契約書にサインするっす』
紙をめくる音。
遠くの笑い声。
あの日の喧騒。
腕が、止まる。
震えながら。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
腕が、下りる。
レコーダーは落ちない。
壊れない。
沈黙。
やがて。
ぽつり。
床に、しずくが落ちる。
朝の光が、その跡を淡く照らす。
「マヨ…」
女王様の声は、ただの名前。
私は、そっと隣に立つ。
触れない。
支えない。
ただ、離れない。
ネルさんは窓の外を見上げている。
朝の空は、昨日より高い。
「……こんなのに」
マヨさんの声が、震える。
「こんなのに、救われるなんて」
言葉が、途切れる。
レコーダーから、まだ微かに笑い声が流れている。
止める者はいない。
マヨさんの肩が、ゆっくりと揺れた。
朝の光の中で。
泣きながら。
「もっと聞かせろっす」
その緊張の中。
女王様がふっと言う。
「……おなか、すいてるでしょ」
全員が見る。
出てくる、歪な白い塊。
形が崩れている。
白い米粒が少し落ちる。
「朝、自分で握ったの。あんたに届けに行こうと思って」
「女王様……それは」
司祭長が微妙な顔をする。
「塩むすびよ」
「王宮に、米……?」
おもわずつぶやいてしまう。
「これは最終手段なの!」
胸を張る。
「口が寂しいときに入れておくと、甘くなってくるわ」
静寂。
司祭長が小さく目を閉じる。
「……なりません」
マヨさんが涙目のまま睨む。
「なんすか、それ」
「食べる?」
「いらないっす」
「そう……」
女王様は、そっとテーブルに置こうとする。
だが、形の崩れた塊は不安定で。
ころり、と転びそうになる。
反射的に――
マヨさんの手が伸びた。
受け止めてしまう。
少し潰れる。
指に、米が貼りつく。
手に残った白い塊を見て
何かを思い出したかのように見えた。
少し逡巡した後ーー
泣きながら、一口。
噛む。
ぴたり、と動きが止まる。
「……しょっぱいっす」
静かな告白。
女王様が、わずかに焦る。
「え?」
司祭長が、淡々と。
「塩を三回、振っておられました」
「三回は基本でしょ!?」
必死の反論。
マヨさんは、もう一口。
今度は、ゆっくり噛む。
涙が落ちる。
塩に混じる。
「……でも」
小さく、息を吸う。
「米っす」
それだけ言って、動かない。
白い米粒が、指の隙間からぽろぽろと落ちる。
床に、小さな粒。
涙と、同じ形。
「……なんで」
低い声。
「なんでお前だけ、知ってるっすか」
俯き気味にこちらを見る。
目は赤い。
怒っている。
でも、それだけじゃない。
「録音の中の教主は全部、違う教主っす…」
「教主はもういないのに…」
「なんで、こんなものがあるっすか…」
マヨさんは顔を上げる。
「偽物だと思いたかった!」
「どれだけ探しても見つからないのに!」
「どれも本物の教主だとわかってしまう!」
「これはどういうことか説明しろっす!」
王宮の空気が、ぴんと張る。
塩むすびが、マヨの手の中で崩れている。
私は、逃げない。
視線を外さない。
「……あなたの言う通りです」
静かに言う。
「録音の中の教主様は、この世界の教主様ではありません」
マヨさんの瞳が、鋭く細まる。
「でも、偽物でもありません」
一歩だけ、近づく。
「全部、本物です」
沈黙。
司祭長の指が、わずかに動く。
女王様は口を挟まない。
「私は――」
喉が乾く。
それでも言う。
「世界が終わるたびに、別の世界へ渡っています」
誰も、息をしない。
「同じようで、少しずつ違う世界を」
「何度も」
「何度も」
手から、米粒が落ちる。
「そのたびに」
「教主様に会いました」
「そのたびに」
声が揺れる。
「失いました」
白い粒がこぼれていく。
空気が、冷える。
「あなたが愛した教主様は、この世界にしかいません」
「でも」
「私が知っている教主様も、全部、誰かに愛されていました」
マヨさんの肩が、震える。
「……だから、何なんすか」
絞り出す声。
私は、正直に言う。
「私は、あなたを救いたかった」
「でも同時に」
「私も、あの声を誰かに憶えていてほしかった」
わずかな間。
「利用したんすね」
「……はい」
否定しない。
それが一番、誠実だ。
王宮の床に、涙の跡が増える。
「ずるいっす」
マヨさんの声が、子どものようになる。
「お前だけ、何回も会って」
「お前だけ、何回も別れて」
「お前だけ、覚えてる」
私は、静かに首を振る。
「覚えているのは、罰です」
小さく、笑う。
「消えないんです」
沈黙。
レコーダーから、かすかにノイズ。
止めない。
マヨさんが、ゆっくりと顔を上げる。
涙で滲んだ目。
「……連れてけっす」
誰も動かない。
「次の世界に」
「お前が行くなら」
「連れてけっす」
女王様の視線が、私に向く。
私は、ゆっくりと首を振る。
「できません」
「私しか、使えない」
「私しか、壊れられない」
その言葉は重い。
マヨさんの手が、震える。
怒鳴らない。
殴らない。
代わりに。
ぽつり。
「じゃあ」
塩むすびを握り直す。
「もっと聞かせろっす」
「全部」
「一個も隠すなっす」
朝の光が、少し強くなる。
女王様が、ようやく口を開く。
「……それは長くなるわよ」
マヨさんは鼻をすすりながら言う。
「いいっす」
「米、まだあるっすか」
女王様が、胸を張る。
「あるわ!」
ネルさんが、即座に。
「ありません」
静寂。
そのわずかなずれが、空気を少しだけ緩める。
泣きながら。
怒りながら。
それでも。
マヨさんは、ここに立っている。
それから―
手に張り付いていた米粒が―
いつの間にか、全部なくなっていた。
指先だけが、べたついている。
マヨさんは、それを一度見つめてから。
ぽつりと。
「ついてくるっす」
顔は上げない。
でも、はっきりと。
私を指している。
女王様でも、ネルさんでもない。
私に。
「……いいんですか?」
女王様が静かに聞く。
「文句、言い足りないっす」
そっけなく言う。
でも、もう怒鳴らない。
私はうなずいた。
連れられて歩く。
三度目の道。
昨日は夜。
その前は雨。
今日は、朝。
朝露はもう消えている。
石畳が、日の光を照り返す。
影は短い。
質屋の前。
立てかけた床板は、そのまま。
マヨさんは、何も言わずに持ち上げる。
中へ入る。
部屋は、昨日より整っていた。
布団は、端に寄せられている。
机の上。
あの装置。
表示は――
0.01%
マヨさんは、それを手に取る。
一度、視線を逸らす。
「お前」
ぶっきらぼうに。
「これ、興味ありそうだったっす」
私は、答えない。
ただ、見る。
「技術のことは、よくわからないっす」
「形が気に入って、持ってただけっす」
少し間。
「……お礼っす」
ぽつり。
「勝手に鳴らした分の」
差し出される。
私は、戸惑いながら受け取る。
マヨさんの指が離れた瞬間、
金属の冷たさが掌に残る。
思っていたより重い。
懐中時計のような形。
下半分は銀色の金属。
上は透明な結晶。
そこに浮かぶ数字。
その瞬間。
表示が、わずかに揺れる。
0.01%
……0.02%
ほんの、瞬きほど。
また戻る。
0.01%
マヨさんは、気づいていない。
私は、装置を見つめる。
私は、そっと縁に指をかけた。
ぱちり、と小さな音。
蓋が開く。
内側に、もう一枚の円盤があった。
時計のような針を伴った薄い結晶板。
それが――
ゆっくりと回り始める。
迷うように。
揺れるように。
止まらない。
やがて。
ある方向へ向いた。
わずかに震えながら、静止する。
「これ、何を測っているんですか?」
小さく聞く。
マヨさんは、肩をすくめる。
「揺らぎっす」
「何のですか?」
少しだけ、間。
「教主が消えたとき」
「世界、ちょっとだけ揺れたっす」
目を伏せる。
「それが、また起きるかどうか」
「見てただけっす」
私は、開けた蓋を閉める。
手の中の装置は、静かだ。
0.01%
動かない。
でも。
確かに、さっき。
ほんの少し、上がった。
「ありがとう…ございます」
マヨさんが、背を向けたまま言う。
「それ、世界で一個っす」
振り返らない。
でも、声はもう震えていない。
光が、机の端に落ちる。
私は、小さくうなずいた。
―王宮に戻るころには、陽は少し傾いていた。
廊下は静かだ。
甘い匂いも、今はない。
私は、装置を握ったまま歩く。
0.01%
変わらない。
扉の前で、足が止まる。
ノックをする前に。
「入りなさい」
中から声。
執務室。
机の上には書類。
その向こうに、女王エルフィン。
「マヨ、落ち着いた?」
「はい」
短く答える。
エルフィンは、装置を見る。
「もらったのね」
「……はい」
少し間。
「それで?」
フォークはない。
今日は甘いものもない。
「あなたは、どうするの?」
真っ直ぐな視線。
「ここに、残る?」
静かに。
「それとも、また進む?」
心臓が、ひとつ跳ねる。
部屋は静かだ。
司祭長はいない。
これは、王と私だけの話。
「ここに残れば」
女王エルフィンが言う。
「マヨは、きっと救われるわ」
「あなたの話を、全部聞ける」
「あなたも、少しは楽になるかもしれない」
優しい選択肢。
女王エルフィンは視線を逸らさない。
「あなたは平和な世界を探してたって言ってたわよね」
机に指先を置く。
軽く、とん、と鳴る。
「ここはどうだった?」
問いは、柔らかい。
でも逃げ道はない。
私は、少し考える。
王宮の廊下。
甘い匂い。
塩むすびのしょっぱさ。
泣きながら怒るマヨさん。
黙って支えるネルさん。
そして――
目の前の王。
「……傷は、あります」
正直に言う。
「喪失も、あります」
装置を握る。
0.01%。
動かない。
「でも」
言葉を選ぶ。
「逃げ場が、ありました」
女王エルフィンの眉が、わずかに動く。
「泣ける場所があって」
「怒れる場所があって」
「笑える場所も、ある」
小さく息を吐く。
「平和かどうかは、わかりません」
「でも」
顔を上げる。
「生きている世界でした」
沈黙。
女王エルフィンが、ゆっくりと椅子にもたれる。
「よかったわ」
小さく笑う。
「それが言えるなら、ここは平和ね」
少しだけ、間。
「あなたが探していた“無傷の世界”は、きっとどこにもない」
静かに言う。
「傷があっても、立っていられる世界があるだけ」
視線が、まっすぐに戻る。
「だから、聞いてるの」
「あなたは、ここに立ち続けたい?」
風が、窓を揺らす。
ここに残れば。
誰かの喪失は、少しずつ薄まるかもしれない。
でも。
それは――
私が探している答えではない。
装置を握る。
0.01%。
変わらない。
揺れているのは、私のほうだ。
私は、ようやく息を吸う。
「……怖いです」
正直に言う。
「また、失うのが」
声がかすれる。
「でも」
目を閉じる。
数えきれない別れ。
数えきれない教主様。
全部、消えない。
「止まっても、消えません」
静かに。
「だったら」
目を開ける。
「進んだ方が、まだましです」
女王エルフィンの瞳が、わずかに細まる。
悲しみではない。
理解。
長い沈黙のあと。
女王エルフィンが立ち上がる。
「行きなさい」
命令ではない。
赦しでもない。
ただ、背中を押す音。
私は、扉へ向かう。
私が扉を開ける寸前。
「待って」
女王様が懐から何かを取り出す。
小さな包み紙。
紙の上からキャンディーの明るい色がのぞかせる。
「これは特別だからね」
くすっと笑う。
「甘かったって、ちゃんと覚えておきなさいよ」
包みを破る。
二つに割る。
「今度はちゃんと半分に出来たわね」
差し出された欠片を、舌に乗せる。
甘い。
扉を、開ける。
装置を、胸に抱く。
表示は――
0.01%。
それでも。
私は、祈った。
次こそは。
教主様に、会えると信じて――