落ちてきた地球外高度知的生命体とヒーローやることになった件について 作:緑茶山
恵まれている、と言っていい人間だった。
特別贅沢な生活が出来るわけではなかったが、暮らしが困窮しているわけでもない。毎日清潔な服を来て、母の手料理を食べ、学校へ行き、暖かな家でふかふかのベッドに眠る。
両親の仲は良く、子供に無関心でなければ、過干渉な訳でもない、暴力を振るうこともない。つまり、一般的によく言われる、良い親だった。
何不自由なく育ち、本人もまた、何不自由のない――何事もそつなくこなせる、いわゆる挫折を知らない人間だった。多少強面ではあるが精悍とも言える顔立ちは、人並みに女には困らなかった。
それが、ヴァジム・ドロフェエヴィチ・ソルジェフ……ヴァージャ・ソルジェフという人間の過去である。
恵まれていた。それゆえに、生活に対してなんとなくの退屈さや、言い表せない不満を抱いていた。心が贅沢を覚えていた。
S.H.I.E.L.D.の皮を被ったヒドラに勧誘されたのは、そんな持て余した何かを抱えた、大学生の頃のことだった。退屈を紛らわせてくれるのではないかと期待し、ソルジェフは二つ返事で誘いに乗った。
ヒドラとしても、S.H.I.E.L.D.のエージェントとしても、ソルジェフは何事もそつなくこなした。どちらにとっても、ソルジェフはすぐに〝優秀な人材〟となった。
誘いを掛けてきたヒドラの男の言葉通り、任務は確かにスリルのあるものばかりだったが、それらをこなしてもまだ、ソルジェフの中には「こんなものか」という思いが燻っていた。
そんなソルジェフが、〝彼女〟を初めて見たのは、ミズーリ州での任務の最中だった。
匿名で寄せられた
アベンジャーズという名の知れたヒーロー集団の一人であるにも関わらず、彼女は至って普通の、アジア人の少女だった。特筆するほど優れた容姿でもなければ、恵まれた体躯を持つ訳でもない。天才的な頭脳も、何か人並外れた一芸がある訳でもない。だが、彼女は彼女の相棒である宇宙由来の〝もの〟に選ばれた者であった。
その任務の中でソルジェフが彼女と話すことはなかった。ただ、一度だけ目が合った。日本人らしい黒い双眸。彼女はすぐに目を逸らしてしまったが、ソルジェフは何故か、それに強く惹かれた。
光を吸収してしまいそうな漆黒に、強い意志の光を見た。
結局はいつも流されてしまうソルジェフには、無い物だった。
それ以降の任務で、ソルジェフが彼女に関わることは無かった。時折本部の廊下で見かけるのを目で追っても、彼女がソルジェフに気付くことは無かった。あの瞳の光を、もう一度見たかった。
彼女の捕縛もしくは暗殺命令に、ソルジェフは真っ先に名乗りを上げた。彼女と関わりが持てるなら、どんな形でも良かった。
「前触れなく狙撃でもすればよかったのに」
部下を連れて真正面から捕縛へ赴いたソルジェフに、彼女はそう言った。白熊に跨りソルジェフを見下ろす彼女の瞳には、ソルジェフに対する関心はひと欠片も無かった。ただ無感動に、相棒である白熊に腕を振るわせて、自身の前に立つ障害を排除した。それだけだった。
背中を壁に叩きつけられ、ソルジェフは薄れる意識の中で彼女の横顔を眺めた。こちらを振り向く気配もない。彼女はいつでも、あの強い意志の光を宿した瞳で、ソルジェフの背後にある彼女にとっての〝先〟を見つめていた。
常に人の中心になっていたわけではないが、その存在を無視されることは無かった男の。何不自由なく、恵まれた人間だった男の、初めて味わった屈辱だった。
通常の人間であれば、屈辱に対して抱く感情は〝怒り〟であろう。しかしソルジェフは、どこかでその歯車の噛み合わせを間違えていた。あるいは、その屈辱を与えたのが彼女だったからなのか。
彼女が与えたソルジェフに対する無関心という屈辱は、ある種の快感となって、ソルジェフの背中を駆け抜け、粟立たせた。自分にこんな一面があったのかと驚きながら、しかしソルジェフは自分がこれまで求めていたものの正体を悟った。
――この快感こそ、俺の退屈を慰めるもの。それを与えてくれる彼女こそ、俺の運命。
だから、彼女の言った通り、前触れ無く狙撃をした。ただ頭を狙って殺しては意味がない。それはソルジェフの望みではない。ソルジェフは、あの瞳に自分の姿を映してみたかった。焦点の合わない骸の眼球に映したところで、ソルジェフの無聊は慰められない。
狙撃をしたら彼女はどんな姿をするだろうと想像しただけで勃起した。腹を撃ったら、彼女はソルジェフの頭上に現れて、ソルジェフの顎に容赦なく拳を叩き込んだ。その痛みと衝撃で絶頂した。起きたときには彼女はいなかった。しかしソルジェフの手には彼女の血が落ちていた。舐めたら甘く感じた。殴られたあの瞬間を思い出して、再び勃起した。
トリスケリオンで、ソルジェフは再び彼女と相対した。人質を取っておびき寄せ、人質を逃がさせてやれば、彼女はやっとソルジェフを見たように見えた。だが違った。彼女はずっとあいつを、キャプテン・アメリカを気にしていた。
――今、お前の目の前にいるのは俺なのに!
ソルジェフは彼女に痛みを与え、彼女もまた、ソルジェフに痛みを与えた。それでも彼女は、目の前のソルジェフではなく、その先を見ていた。痛みを受けても、その瞳にソルジェフだけを映すことは無かった。
「お前を殺すのは、お前自身だ」
そう言った彼女の、黒い影と赤い光を帯びた力強い拳が、ソルジェフの胸に叩き込まれた。彼女の相棒の力ではない、ソルジェフも知らない力をもって、彼女はその一撃でソルジェフの与えた痛みに応えた。
ソルジェフの体はトリスケリオンのオフィスの壁を突き破り、煙と炎の中に飛び込んだ。皮膚が焼かれ、酸素は急激に失われ、痛みと苦しみの中でソルジェフの意識は飛んだ。
彼女の手で死にたかった。結果として炎に包まれただけで、彼女はソルジェフを殴り飛ばしただけだ。刺殺でも、絞殺でも、撲殺でも、何でも構わない。自分の死に様を、彼女に見ていてほしかった。彼女の手で死に、最後の呼吸まで彼女に聞いていてほしい。生の温もりが冷えていく様を感じていてほしい。瞳孔が広がる様を見ていてほしい。
彼女は善良なヒーローだから、殺した相手に対して罪悪感を覚えることだろう。そうしてソルジェフは彼女の手にこびり着いた汚れとなって、きっと永遠に、彼女の心に棲むことが出来る。目蓋の裏に張り付いて、消えない残像となった、ソルジェフにとっての彼女のように。
その祈りが届いたのか。ソルジェフの体はヒドラによって瓦礫の中から救い出され、一命を取り留めた。全身に大火傷を負ったが、五体満足だった。ソルジェフは神など信じていなかったが、その時ばかりは神に感謝した。
◇
街灯がぽつりぽつりと浮かぶ夜の街に、男の短い呼気と駆ける足音が響いていた。やがて逃げ込んだ路地裏で、その足音は途切れる。それに続くのは悠然とした革靴の音。同じ路地へと入って行き、革靴の音を響かせていた男は、いまだ短い呼吸を続ける男を見て、火傷に爛れた口角を持ち上げた。
「ひどい奴だなぁ、シットウェル。逃げなくてもいいじゃないか。確かに俺は火傷を負って、醜くなってしまったが」
「そ、ソルジェフ、お前、生きてたのか。だが、一体なんで私を……ヒドラはほぼ壊滅、逃亡者を追っている暇も、人手も、ないはずだろう!」
ひび割れてずり下がった眼鏡を押し上げながら、シットウェルは言った。
S.H.I.E.L.D.に勤めていた頃の綺麗に剃り上げられていたスキンヘッドは、今や見る影もない。髪と髭は不精に伸びており、きちんと着こなしていたスーツは、今はボロボロの古着に変わっている。
対するソルジェフもまた、似たようなものだった。顔は爛れ、かつての面影は欠片ほどしか残っていない。それでもシットウェルが、この酷い火傷の男がソルジェフだと分かったのは、顔ではなく仕草で人間を判別するエージェントとしての目を持っていたからだ。
「別にヒドラは関係ないさ。俺は俺の意思で、お前を殺すんだ」
ソルジェフは目を細め、口角を三日月のように持ち上げた。その笑みに狂気を感じ取り、シットウェルは小さく悲鳴を上げた。本能的に後退るが、背後には高いフェンスがあった。それでも命の危機にあったシットウェルは、フェンスを越えようと網目に縋り付き、よじ登ろうとした。
パシュッ、と音が響き、シットウェルの右の太ももが焼けたように熱くなる。衝撃と痛みで、網目を蹴ろうとした足を踏み外し、フェンスがけたたましい音を立てた。
「ほらほら、どうした、シットウェル。早く登らないと殺されてしまうぞ。命は大切にしないとな。何せスーパーヒロインに助けられた命だ」
ソルジェフはそう言って、サプレッサー付きの拳銃を撃つ。今度は左手に当たった。シットウェルはフェンスから転げ落ちる。
「クソッ、……な、なあ、ソルジェフ! 頼む……見逃してくれ! 何が目的だ? 金か? それとも――」
フェンスを越えられぬと分かって、シットウェルは命乞いを始める。ソルジェフに縋り付こうとするが、今度は腕を撃たれた。
「命乞いして止めて貰えるほどの価値を、お前は持っていないだろう、シットウェル」
ソルジェフはそう言ってシットウェルを蹴り飛ばした。シットウェルの体は転がり、背後にあったブリキのゴミ箱にぶつかる。反射的に体勢を立て直そうと持ち上げた上半身は、ソルジェフが足を乗せたことでコンクリートに縫い付けられた。
「それどころか、俺にとってお前は殺すべき人間だ。あそこでお前が生き残れる確率はほぼゼロに等しかった。なのにお前は〝何か〟の力で生き延びた。つまりお前はユーリに救われた。それは、たったの一瞬でも彼女がお前のことを考えてたってことだ! 彼女がお前のクソみたいな命を救うために、頭を働かせたってことなんだ! クソ以下のお前のことで、頭をいっぱいにしたってことなんだよ!」
ソルジェフは苛立ったように、銃を持っていない手で頭を掻きむしった。火傷で柔くなった肌は、その刺激だけで血を滲ませる。
「な、何の話だ、イカレてるのか?」
「お前なんかのために、お前なんかのために、お前なんかの……」
困惑するシットウェルの前で、ソルジェフはぶつぶつとつぶやく。爛々と光る瞳は、狂気を帯びている。そんなソルジェフが、ふとシットウェルを見たかと思うと、拳銃をシットウェルへ向けてためらいなく撃った。眼鏡の割れる音。シットウェルの片目が焼けるように熱を持った。一拍の静寂を挟み、シットウェルの喉から叫び声が上がる。
「俺と同じ悪党の癖にユーリの瞳に映るなんて、絶対に許されるべきことじゃない。それに……」
「ああ、あああ……やめろ、やめてくれ……たすけてくれ……」
「悪党を放っておいちゃ、駄目じゃないか、ユーリ」
ソルジェフは唐突にどこか遠い目をして、そこにはいない〝彼女〟に語りかける。そうして、彼はシットウェルには目もくれず、弾丸を放った。銃弾はシットウェルの額に穴を開けだが、ソルジェフはもう足元に転がる死体から興味を失っていた。
「褒めてくれ、ユーリ。悪党を殺したんだ。俺を見てくれ、ユーリ」
恍惚な笑みを浮かべ、うわごとのように言葉を紡ぐソルジェフは、酩酊したような足取りで歩き出した。
「――今会いに行くよ、ユーリ」