熱狂の嵐は止むことを知らず、むしろその勢いを増していた。
足元のコンクリートが震えるほどの足踏み。錆びついたパイプを叩く金属音。そして、割れんばかりの「アンコール」の絶叫。
誰もが目を血走らせ、喉を枯らし、俺という新たな熱源に群がっている。
(……参ったな。正直、タマ切れだ)
俺は鉄パイプのマイクスタンドに寄りかかり、不敵な笑みを浮かべながら内心で冷や汗を流していた。
前世の記憶にある『マクロス』楽曲は山ほどある。だが、この『マクロス7』の時代、FIRE BOMBERがまだ歌っていない、かつ俺のロックなスタイルに合う曲となると、さっきの三曲で打ち止めだった。
他のアニメソングでも歌えば盛り上がるかもしれない。だが、この一種宗教的ですらあるマクロスの熱狂の中に、異界の歌を混ぜるのは野暮というものだ。
だったら、原点回帰するしかない。
この船団に住む人間なら、ゆりかごの中にいる赤ん坊ですら知っているあの曲。
耳にタコができるほど聴かされ、商業的に消費され尽くした、銀河のアンセム。
だが、だからこそ――俺が歌う意味がある。
俺は大きく息を吸い込み、騒乱の渦中にある観衆を睨みつけた。
「いいか! お前ら! 次に歌う曲は、聴き飽きたなんて言わせねぇぞ!」
俺の声が響くと、少しだけざわめきが収まる。
「耳にタコができるほど知ってる曲かもしれねぇ。だがな、俺が歌えばそれは『俺の歌』だ! シケた面して聴いてたら承知しねぇぞ!!」
「おうよ! やってみろガキ!」
「何でもいい! お前の声を聴かせろ!」
野次馬たちの汚い野次が、今は最高の声援に聞こえる。
俺は目を閉じた。
全身の筋肉から力を抜き、荒ぶっていた神経を鎮める。
さっきまでの攻撃的なロックの波動を、内側へ、深く静かな場所へと沈殿させていく。
(……いくぜ)
この世界の人間は、遥か太古、銀河に文明を築いた「プロトカルチャー」によって造られた種族の末裔だ。
俺たちのDNAには、歌に反応する何かが刻まれている。
ただの音波じゃない。魂を震わせ、
その鍵穴を、俺の声でこじ開けてやる。
俺はマイク代わりの鉄パイプを両手で包み込むように握り直した。
そして、前世から持ち越した特技――「絶対音感」を頼りに、脳内で完璧な音程を構築する。伴奏はない。俺の喉が楽器の全てだ。
口をついて出たイントロは、さっきまでの爆音とは真逆の、優しく、包み込むようなハミングだった。
その旋律が夜気に溶け出した瞬間、空気が変わった。
薄汚れた男たちが、派手な化粧の女たちが、一斉に息を呑む気配がした。
『愛・おぼえていますか』。
第一次星間大戦を終結させた、伝説の歌姫リン・ミンメイの奇跡の歌。
誰もが知っている。だが、こんな場所で、こんな風に、男の声で歌われるのを聴いた者はいないはずだ。
俺は目を開けた。
そこにあるのは、ゴミ溜めのようなアクショの風景。
だが、俺の目には、かつて銀河を焦がした愛の光が見えている。
温まった喉を使い、男にしては高めの、しかし芯のあるトーンで、俺は静かに言葉を紡ぎ出した。
「今 あなたの声が聴こえる……『ここにおいで』と 淋しさに 負けそうな わたしに」
アカペラの歌声が、路地の壁に反響し、天然のリバーブを生み出す。
ミンメイの可憐な歌声とは違う。
俺の歌声には、ドブの臭いと、生きることへの渇望が混じっている。
だからこそ、「淋しさに負けそうな」という歌詞が、この街の連中の心臓を鷲掴みにする。
「今 あなたの姿が見える……歩いてくる 目を閉じて 待っている わたしに」
観客の動きが止まっていた。
暴れていた連中が、まるで魔法にかかったように立ち尽くしている。
彼らは見ているのだ。絶望的な現実の向こう側から歩いてくる、救いの幻影を。
「昨日まで 涙でくもってた 心は今……」
少しだけ声を張る。曇った空を拭い去るように。
そして、サビへ。
俺は観衆一人一人の目を見つめた。
恋人たち、はぐれ者たち、親を知らない子供たち。
俺たちはみんな、何かを忘れて、何かを求めてここにいる。
「おぼえていますか 目と目が合った時を おぼえていますか 手と手が触れあった時」
問いかけるように、語りかけるように。
それは恋愛の記憶かもしれないし、親に抱かれた記憶かもしれない。あるいは、もっと遠い、遺伝子が覚えている平和な時代の記憶かもしれない。
「それは始めての 愛の旅立ちでした I love you, so……」
英語のフレーズを、吐息混じりに歌う。
誰かが鼻をすする音が聞こえた。
薄汚れた顔をした巨漢の男が、ボロボロと涙を流しているのが見えた。
ミンメイのホログラムが歌う煌びやかなステージじゃない。
瓦礫の上の薄暗い広場で、薄汚いガキが歌っているだけだ。
なのに、ここには確かに「愛」があった。
「今 あなたの視線感じる 離れてても 体中が 暖かくなるの」
二番に入ると、手拍子が自然と湧き起こった。
激しいビートじゃない。ゆっくりとした、脈打つようなリズム。
俺と彼らの鼓動がリンクしていく。
「今 あなたの愛信じます どうぞ私を 遠くから見守って下さい」
祈りだ。これは、神への祈りじゃない。
互いの存在への、切実な祈りだ。
孤独な俺たちが、互いに温もりを感じ合うための儀式。
「昨日まで 涙でくもってた 世界は今……」
俺は声を張り上げた。
クレッシェンド。感情の奔流。
アクショの天井を突き破り、宇宙まで届けとばかりに。
「おぼえていますか 目と目が合った時を! おぼえていますか 手と手が触れあった時!」
俺の歌に呼応して、観客たちが口々に歌い始める。
最初は囁くように、やがて大きなうねりとなって。
大合唱がアクショを包み込む。
音程なんて滅茶苦茶な奴もいる。歌詞を間違えている奴もいる。
だが、そんなことはどうでもいい。
俺たちは今、一つの「歌」になっている。
「それは始めての 愛の旅立ちでした I love you, so……」
クライマックス。
俺は鉄パイプを強く握りしめ、全身全霊でメッセージを叩きつける。
この掃き溜めで、俺たちは決して一人じゃない。
「もう ひとりぼっちじゃない あなたがいるから!」
そうだ、俺には歌がある。聴いてくれるお前らがいる。
親がいなくたって、ドブネズミだって、俺は生きている。
「おぼえていますか 目と目が合った時を おぼえていますか 手と手が触れあった時 それは始めての 愛の旅立ちでした I love you, so」
涙で視界が滲む。
だが、声は震わせない。
最後まで、力強く、優しく。
「もう ひとりぼっちじゃない あなたがいるから……」
リフレイン。
声を少しずつ落とし、余韻を残すように。
騒がしかった街が、静寂な宇宙空間のように静まり返っていく。
「もう ひとりぼっちじゃない あなたがいるから……」
最後のフレーズを、ささやくように歌い終える。
フェードアウト。
俺の声が完全に消えた後も、その温かな残響だけが、アクショの冷たい空気にいつまでも漂っていた。
歌い終えた直後、アクショの空気は変わっていた。
さっきまでの暴動寸前の熱気とは違う。
まるで嵐が過ぎ去った後の、妙に澄み渡った朝のような静けさが、この薄汚れた路地裏を支配していた。
俺は肩で息をしながら、少し気恥ずかしさを感じて視線を巡らせる。
ミンメイのラブソングなんて、こんな掃き溜めの男たちが聴いたら「ケッ、女々しい歌だ」と唾を吐かれるかもしれないと、心のどこかで思っていたからだ。
だが、現実は違った。
最前列に陣取っていた、スキンヘッドに刺青だらけの大男。
さっきまで『Burning Fire』に合わせてドラム缶を殴りつけていた凶暴そうな男が、今は大木のように立ち尽くしている。
その厳つい顔がくしゃくしゃに歪み、目元を乱暴に腕で拭っていた。
「……チッ。目にゴミが入っちまったじゃねぇか、クソガキ」
その震える声が、静寂を破る最初の音だった。
それを合図にしたかのように、あちこちから「音」が漏れ出す。
鼻をすする音。
嗚咽をこらえる低い唸り声。
そして、誰かが小さく叩き始めた、ゆっくりとした拍手の音。
一人が叩き始めると、それはすぐに波及した。
パチ、パチ、パチ……。
決して揃ってはいない。リズムもバラバラだ。
けれど、それはさっきの熱狂的な歓声よりも遥かに重く、そして温かい響きを持っていた。
「おい、坊主……今の歌、反則だろ」
壁際で座り込んでいた、片足を引きずった初老の男が声をかけてきた。
その目は遠い昔、おそらくはもっと輝いていた時代の何かを見ているようだった。
「俺にも、昔はいたんだよ。……待っててくれる女がな」
男は懐から、大事にしていたであろう少し変色した銀色のコインを取り出すと、俺の足元の空き缶へ丁寧に投げ入れた。
チャリン、という澄んだ音が響く。
それを見て、他の連中も動き出した。
「いい歌だったぜ!」
「明日もまた仕事に行けそうだ」
「クソッ、涙が止まんねぇよ!」
彼らは次々と俺の前に歩み寄ってくる。
投げ込まれるのは、わずかな小銭だけじゃない。
誰かの晩飯だったであろう真空パックの食料。
半分残っていた缶ビール。
安物のアクセサリー。
中には、どこで拾ったのかわからない綺麗なガラス玉を置く子供もいた。
このアクショにおいて、それらは命を繋ぐための貴重な財産だ。
それを惜しげもなく俺に差し出している。
「対価」じゃない。「感謝」の証として。
派手な化粧をした、夜の商売をしているであろう女性たちが、化粧が崩れるのも構わずに俺に微笑みかけてくる。
「あんた、いい男ね。歌ってる時だけは、銀河一のいい男だったわよ」
不良風の若者たちが、バツが悪そうに鼻をこすりながら、俺の肩を軽く叩いて通り過ぎる。
「……また聴かせろよ。絶対だぞ」
誰も暴れない。誰も怒鳴らない。
ただ、俺という存在を、まるで聖なるモノを見るような目で見つめている。
彼らの瞳の奥に宿っていた、澱んだ諦めのような色が、少しだけ薄らいでいるように見えた。
これが、歌の力か。
プロトカルチャーの遺伝子とか、マクロス世界の不思議な力とか、難しいことはわからない。
ただ一つ確かなのは、俺の歌が、このドブネズミたちの魂を確かに震わせ、明日への活力を与えたということだ。
俺は胸がいっぱいになり、言葉が出なかった。
ただ深く頭を下げ、震える手で鉄パイプを握りしめることしかできない。
足元に積み上げられたガラクタと小銭の山。
それは今の俺にとって、どんな宝石よりも輝いて見えた。
◇◇◇
熱い湯が、肌を刺すように包み込む。
この身体になってから、こんなに大量の、しかも温かい湯を浴びたのは初めてだった。
アクショの簡易シャワーブース。普段の俺なら絶対に手が出せない贅沢な空間だ。
だが、今の俺にはそれをする権利がある。あのおひねりは、俺が歌で勝ち取った対価なのだから。
排水溝へと渦を巻いて流れていく黒い濁り水。
それは、これまで俺にこびりついていた「ドブネズミ」としての垢であり、諦めや絶望といった負の感情そのものに見えた。
曇った鏡を掌で拭う。
そこに映っていたのは、もう薄汚れた浮浪児ではなかった。
濡れた髪をかき上げたその少年は、痩せてはいるが、目には強い理性の光を宿している。
整った鼻筋、意志の強そうな瞳。
泥を落としてみれば、将来は銀幕のスターにだってなれそうな――というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも人前に立って恥ずかしくない「クジョウ」という一人の若者がそこにいた。
ボロ布同然だった以前の服は、迷わずゴミ箱へ放り込んだ。
代わりに袖を通したのは、リサイクルショップのワゴンで見つけたシャツだ。
多少の擦れやほつれはある。だが、穴は空いていないし、何より清潔な匂いがする。
「極上のマシな服」。今の俺にとっては、どんなブランドスーツよりも輝いて見える戦闘服だ。
ブースを出て、ベンチに腰を下ろす。
膝の上には、観客から投げ込まれたレトルトの食事パックと、未開封の缶ジュース。
プシュッ、という小気味いい音と共にプルタブを開け、喉に流し込む。
甘い炭酸が、火照った体に染み渡る。
続いて真空パックの合成肉を齧る。味気ないはずの保存食が、まるで一流レストランのフルコースのように濃厚に感じられた。
(……ああ、生きてる)
胃袋が満たされるにつれ、俺の心は再びあの高揚感に包まれていった。
脳裏に焼き付いているのは、あの瞬間の光景だ。
涙を流していた大男、拍手を送ってくれた老人、微笑んでいた女たち。
俺は、熱気バサラじゃない。
あいつのように、歌一つで山を動かしたり、銀河を震わせたりすることは、今の俺にはまだできないだろう。
俺の歌に、物理的な破壊力や奇跡のようなエネルギーはないのかもしれない。
だけど、俺は確かに動かしたんだ。
あのアクショというどん底にいた、観客たちの心を。
凍り付いていた彼らの感情を溶かし、熱狂させ、明日の活力を与えることができた。
俺の好きな「歌」という力で。
前世で愛し、今世でも俺を支えてくれる音楽の力で。
「……これなら、いける」
空になった缶を握りつぶす。
俺にもできる。この世界で、歌い手として生きていく道が、はっきりと見えた気がした。
明日、目が覚めても絶望しなくていい。俺には歌がある。
俺は寝床であるバラック小屋へと足を向けた。
足取りは軽い。
見上げれば、そこにはシティ7の無機質な配管と、分厚い隔壁の天井があるだけだ。
けれど、今の俺の視線は、その物理的な限界を軽々と突き抜けていた。
天井の向こう。
移民船団の外側に広がる、無限の星の海。
いつか、この歌声をあそこまで届かせてやる。
銀河へ。
俺の歌で、もっと多くの心を震わせるために。
俺は小さく鼻歌を口ずさみながら、錆びついた扉を開けた。
そこはまだ薄暗い小屋だったが、俺の胸の中には、消えることのない太陽が燃え始めていた。