笑わない氷姫と不滅の焔騎士 作:あーー
視界の端で、規則正しく波を打つ緑色の光を見つめていた。
ピッ、ピッ、と一定のリズムで鳴り響く電子音は、俺の命を繋ぎ止めている唯一の証だった。
白い天井、消毒液の臭い、そして重く動かない体。
十八年という月日のほとんどを、俺はこの狭い病室で過ごしてきた。
「……また、明日な」
誰かの声が遠くで聞こえた気がしたが、返事をする力も残っていなかった。
意識が急速に冷えて、暗闇の中に溶けていく。
ああ、次はもう少し、身軽な体がいい。
そんなありふれた願いを最後に、俺の意識はぷつりと途切れた。
次に意識が浮上したとき、俺は凄まじい圧迫感の中にいた。
どこか狭い場所に押し込められ、全身がミシミシと軋む。
苦しい。
何が起きているのか理解する暇もなく、俺の体は未知の力によって無理やり外へと押し出された。
眩しい光が網膜を突き刺し、冷たい空気が肌を叩く。
肺が強制的に膨らみ、喉の奥から勝手に音が出た。
高く、細い、産声。
俺は驚いて口を閉じようとしたが、反射的に繰り返される叫びを止めることはできなかった。
「……ッ、……!」
「……、……!」
誰かが俺を抱き上げた。
視界がぼやけてよく見えないが、上から覗き込む人影がいくつかある。
耳に届くのは、聞いたこともない音の羅列だった。
英語でも日本語でもない。滑らかで、けれど俺にとっては意味をなさない雑音。
何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
俺は混乱した。
死んだはずの俺が、なぜ赤ん坊になっているのか。
そして、この見知らぬ言語を話す人間たちは誰なのか。
とりあえず、この状況を受け入れるには、まず寝るのが一番だ。
俺は本能に従い、そのまま再び深い眠りに落ちた。
それから数日間、俺はただひたすら眠り、泣き、そして知らない女に乳を飲まされるだけの存在となった。
意識は十八歳のままだというのに、体は自分の意志をこれっぽっちも反映してくれない。
排泄すら自分の制御下にないという事実は、俺のプライドを粉々に打ち砕くには十分だったが、数日もすれば「まあ、赤ん坊だしな」という諦めの境地に至った。
一ヶ月ほどが経ち、ようやく視界がはっきりしてきた。
俺がいるのは、石造りの古めかしい、けれど豪華な装飾が施された部屋だった。
窓の外には見たこともない色の鳥が飛び、空には巨大な浮遊島のような影が見える。
そして、鏡に映った自分を初めて見たとき、俺は愕然とした。
透き通るような白い肌。
そして、冬の湖の底を思わせるような、深く冷たい青色の瞳。
そこには、まるでお人形のような、とてつもなく可愛らしい少女の姿があった。
……女の子、なのか。
俺は自分の股座を確認したかったが、あいにく体はまだそこまで自由には動かなかった。
まあいい。病室で死を待つだけだった頃に比べれば、フルカラーでファンタジーな今の状況は、控えめに言っても宝くじに連続で当選したようなものだ。
この際、性別のことなんて些細な問題にすぎない。
俺は笑わなかった。
あやすように指を振られても、子守唄を歌われても、ただ無機質な視線を彼女たちに向けるだけだった。
感情が動かないわけではない。
ただ、この言葉の通じない環境で、赤ん坊として振る舞うのが照れくさかったのだ。
泣くのは生理現象として仕方ないが、愛想を振りまくのはハードルが高い。
周囲の大人たちは、俺が泣きも笑いもしないことを不気味に思っているようだった。
彼らの会話の中に、時折混じる険しい響き。
それが俺に対する落胆や、ある種の畏怖であることを、言葉が分からなくても肌で感じ取ることができた。
ある日の午後、俺は一人でゆりかごの中にいた。
暇を持て余した俺は、自分の内側にある感覚を探ることにした。
世話をする乳母が明かりを灯したとき、彼女の体の中で何かが動いていたのを見た。
血液の流れとは違う、もっと熱く、それでいて鋭い流れ。
俺は目を閉じ、意識を自分の胸のあたりに集中させた。
すると、そこには確かにあった。
冷たい、けれど心地よい塊。
それを指先まで運ぶイメージを持つ。
ゆっくりと、慎重に。
前世で、動かない手足のリハビリをしていたときのような忍耐強さで。
パキッ。
小さな音が響いた。
驚いて目を開けると、俺の小さな握りこぶしの周りに、薄い氷の膜が張っていた。
ゆりかごのシーツが白く凍りつき、周囲の温度がわずかに下がる。
お、できた。
俺は声を出す代わりに、その氷をじっと見つめた。
言葉は通じない。体も自由にならない。
だが、この冷たさだけは、俺の意志に従ってくれた。
魔法。なんて便利な響きだろう。
これがあれば、夏場も快適に過ごせそうだし、かき氷も作り放題かもしれない。
俺はこれからの生活に、かすかな期待を抱いた。
その時、部屋の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、燃えるような赤い髪をした大柄な男だった。
彼は俺のゆりかごに歩み寄ると、凍りついたシーツを見て、その鋭い瞳を見開いた。
「……ッ、……!」
男は何かを叫び、俺を抱き上げた。
その手は驚くほど熱く、俺の氷を瞬時に溶かしていく。
彼が何を言っているのかは分からない。
ただ、その瞳に宿った強い光だけが、俺の二度目の人生に大きな波乱が訪れることを予感させた。
男の名前はレオン。
彼が俺の護衛騎士として、暑苦しいほどの忠誠を誓うことになるのは、もう少し先の話だ。
俺は男の胸ぐらを小さな手で掴み、初めて自分から音を発した。
「……あ」
言葉にならない、ただの音。
けれど、男はそれを聞いて、なぜか感極まったように目頭を押さえた。
何を勘違いしたのかは知らないが、歓迎されているなら悪い気はしない。
俺は再び目を閉じ、体内の冷たい流れを確かめる。
急ぐ必要はない。
言葉も、魔法も、そしてこの新しい体の使い方も、これからゆっくり覚えていけばいい。
俺の、二度目の人生は始まったばかりだ。
鏡の中にいる銀髪の美少女が、俺の顔に合わせてぱちくりと瞬きをする。
何度見ても、この「俺」のビジュアルは出来すぎていると思う。
前世の病室で白黒の天井ばかり眺めていた頃に比べれば、フルカラーでファンタジーな今の状況は、控えめに言っても人生のボーナスステージだ。
歩ける。見える。そして何より、体が軽い。
それだけで、俺の毎日はだいたい最高の二文字で完結していた。
離宮での生活も二年以上が過ぎ、俺は三歳になった。
最近の俺の大きな進歩といえば、周囲の人間が何を喋っているのか、その意味がかなり正確に理解できるようになったことだ。
熱血騎士レオンが毎日、俺の隣で飽きもせず語りかけてくれたおかげだろう。
単語と単語が脳内で繋がり、意味の羅列として響く。
この国の言葉は、母音の響きが強くてどこか歌のようだ。
ただ、理解できることと喋れることは別問題だった。
いざ口を開こうとしても、幼児特有のたどたどしい舌の動きでは、せっかくのクールな独白も「あーうー」という情けない音に変換されてしまう。
それに何より、一言も喋らずにじっと相手を見つめているだけで、周囲の連中が勝手に深謀遠慮な姫君だの「早熟の天才」だのと崇めてくれるのだ。
「アリア様! 見てください、今日も庭のバラが見事に咲き誇っていますよ!」
背後から、鼓膜を震わせるような元気すぎる声が響いた。
振り返らなくても分かる。教育係兼護衛騎士のレオンだ。
赤い髪を振り乱して部屋に入ってくる姿は、相変わらず火力が強すぎる。
彼は俺の前に跪くと、キラキラとした、まるで大型犬のような瞳で俺を見つめてきた。
「貴女の美しさは、この離宮に咲くどの花よりも気高い。ああ、王都の連中に見せてやりたい。これほどまでの才気を秘めた姫君を、この地に留めておくなど帝国の損失です!」
相変わらずの全肯定ぶりだ。
何を言っているか分かるようになった今、その内容の重さに少しだけ胃がもたれる。
俺はとりあえず、いつものように無表情を通した。
喋れないし、喋る気もない。
ただじっとレオンを見つめ、心の中で「おはよう、今日も火力が高いね」と挨拶を返す。
レオンは俺の無反応に、またしても勝手な解釈を付け加えたらしい。
彼はぐっと拳を握りしめ、感極まった様子で頷いた。
「……その静寂。まさに王者の風格です。言葉を必要とせず、ただ眼差しだけで相手を圧倒する。やはりアリア様には、魔法の素養だけでなく、人を導く資質がおありだ」
いや、ただ単に今日のご飯は何かなって考えていただけなんだけど。
レオンは俺の沈黙を肯定的に受け取ると、一冊の分厚い魔導書を机に広げた。
「さあ、今日も魔法の基礎を学びましょう。属性とは心の鏡。火は情熱、水は知性。そしてアリア様が先日見せてくださった氷の力……。それは、全てを秩序立てる静かなる支配の力です」
レオンは熱心に、魔力の練り方や属性の相性について語り始めた。
内容はかなり専門的で、普通の三歳児なら五秒で寝るレベルだが、中身が十八歳の俺にはパズルのようで面白い。
前世で読み漁ったファンタジー小説の知識と、現実の物理法則。
それらが魔法という現象を通して、一つの理論として繋がっていく。
「まずは、掌の中に魔力を集めるイメージを持ってください。熱を一点に凝縮し、それを……」
レオンが実演として、指先に小さな火の粉を灯した。
俺はそれをじっと見つめ、逆のことを考えてみる。
凝縮するのではなく、奪う。
そこにある熱エネルギーを、一箇所に閉じ込めて固定する。
俺はそっと、小さな手のひらをレオンの火の粉に向けた。
(……えーっと、冷やし中華、じゃなくて。かき氷、でもなくて。とりあえず、そこだけ冬にしろ)
パキッ、という乾いた音が響いた。
レオンの灯していた火の粉が、一瞬で小さな氷の粒へと変わり、床に落ちて弾けた。
それだけではない。
俺の周囲の空気が急速に冷却され、真夏だというのに窓ガラスが白く曇り始める。
「な……っ!? 無詠唱で火の魔力を相殺した……!?」
レオンが絶句し、地面に膝をついて俺の手元を凝視している。
驚愕で目を見開く彼の顔を見て、俺は少しだけ反省した。
ちょっとやりすぎたか。
でも、魔法って動かしてみると本当に面白い。
自分の意志が、物理法則を無視して世界を書き換えていく。
前世では、指先一つ動かすのにも必死だった。
リハビリの苦痛に比べれば、この魔力の制御なんて、おやつを食べるのと同じくらい簡単で、楽しい遊びだ。
レオンは震える手で、俺の小さな手をそっと包み込んだ。
彼の火属性の魔力が、心地よい温かさとして伝わってくる。
「……アリア様。貴女は、私が想像していたよりもずっと、遠くへ行かれるお方だ。このレオン、例えこの身が灰になろうとも、貴女のその冷徹で美しい力を守り抜くと誓います」
「…………」
また何か重たい誓いを立てられてしまった。
俺は黙って、空になった水差しを指差した。
魔法を使ったら、少し喉が渇いた。
冷たい水を持ってこいという意味だったが、レオンは「はっ、魔力の使いすぎで脱水を! ただちに、最高級の湧き水を持って参ります!」と叫んで、風のような速さで部屋を飛び出していった。
よし、いい騎士を持ったものだ。
俺は一人、開け放たれた窓から差し込む陽光を浴びながら、背伸びをした。
言葉が通じない不便さも、体が小さい不自由さも、今の俺にはそれほど大きな問題じゃない。ご飯は美味しいし、魔法は便利だ。
(あ、そうだ。次はあの火の粉を、雪に変えて降らせてみようかな)
そんなことを考えながら、俺はレオンが持ってくるであろう「最高級の水」を楽しみに待つことにした。