いい湯だな、と鼻歌を歌いながら、黒江はゆっくりとした足取りで廊下を進んでいた。
(いやー。大衆浴場みたいなものかと思ったら……普通のお風呂だったー! 良かったー!)
しかしやはりというか、現代のそれとはかなり違っていた。
小さな檜風呂だったのでじっくり堪能したかったが、三十分ほどで出る羽目になる。
(私より年下の子が、一生懸命に火を焚いて頑張ってる姿を見ちゃうとなあ……)
しかも入浴中、控え目に「お湯加減はいかがでしょうか」「お湯は足りておりますか」などと気遣われてしまってはそれ以上の長湯などできる筈もなく。
(まあそれでも……お湯に浸かれたのは良かったなー……)
独りになってからは、薪を集めるのも火を焚き続けるのも意外と大変で、近くの川の水で体を拭くくらいがせいぜいだった。だから、今はこれで充分だ。
(はー……さっぱりしたし、足の疲れもとれた! ……気がしないでもない)
黒江の鼻歌に、いつしか現代の歌詞が小さく混じり始める。
この世界に来る前はよく歌を聞いていた。
優しく静かな曲。
あれはどういう歌だった? 歌詞の意味は何だった?
旋律を編むようによく歌っていたのは現状からの逃避だったか、それとも自分が歌いたかったのは先に繋がる希望だったか。
──これから自分はどうなるのだろう。どこへ行けばいいのだろう。
身寄りも後ろ盾も何もない、弱い現代人だ。衣食住を確保するのには、長い時間と複雑な手段が必要になる。
(……職安、とか──ないよなあ)
不意に、暗い考えに襲われる。
一人きりになったのを自覚したせいかもしれない。
(さっきまで温かかったから、その反動かな……)
黒江は自嘲めいた笑みを浮かべながら廊下を進む。
特に複雑でもない廊下を歩いていれば、やがて見覚えのある縁側が見えてきた。
時計が無いので自分がどれだけ風呂場にいたのか分からないが、早く戻ると約束していたから大変だ。
爺様は、ふうまさんは、どうしているだろう。
心配させてしまっているのか、それとも、迷子になっていないかと心配されているのか。
特に──『ふうま』。
どこぞの重鎮だろう老爺を守っている、無口な護衛。彼とのやり取りは、読唇術が出来たらよかったのにと切に願いたくなるくらいに困難ではあるが、老爺が近くにいる間は通訳してもらえるので、そう苦でもない。
(あとは何となく、勘で分かる気がする。……この面のお陰かな?)
つらつらと流れる思考をそのままに、黒江は足音に気を付けつつ早歩き。
あの角を曲がった先を進めば、もうそこだ──と廊下を歩いていた黒江の足は、角を曲がる手前で不意に止まる。
※
「……」
鼻歌を止めた黒江は、その場にじっと立ち尽くしていた。
動けない。
いや、動きたくない。
目元にそっと指先を当てて仮面越しに見つめるのは、廊下の角。密やかに潜んでいるのだろうが、その密やかさが逆に仇になっていることを『そこの人』は知らないだろう。
この面は、隠れているものを暴く。
主が隠す素顔の代わりに。
この面は、隠されているものを見つけ出す。
主が隠匿している事実の代わりに。
(……一人、か)
壁の向こうにある、濁ったオレンジ色。ぽつりと見えている灯火のようなそれからさり気なく視線を逸らし、黒江は考えこむ。
はてさて、どうする。選択肢は三つ。
(このまま進むか、それとも引き返すか)
それか、いっそ──。
(──声を掛けてみる……のは、ないな。うん。無理ムリむり)
そもそも相手はこちらを『待ち構えている』のだ。
暖色系の気配だからといって、友好的な人間だとは限らない。
(でもなあ……ふうまさんが漆黒だからなあ)
黒江は、初対面の時に見た風魔を思い出す。
彼の気配は、漆黒色。ぞっとするほどに混じり気の無い、けれど艶やかな色味は黒曜石を思わせて黒江を感動させたほどだった。
自らをご隠居と名乗る老人の、優秀な護衛。その彼の気配が黒なのだ。
そして、影に潜んで待ち伏せている例の人はオレンジ色。
ぽつぽつと緑も混じっているので、蜜柑に見えなくもない──というか、そんなことを考えてしまったので蜜柑にしか見えなくなってしまった。
人を外見で……もとい、「色」で安易に判断するのは良くないことだが、かといって自ら厄介事に首を突っ込む真似はしたくない。現時点でもう『首を突っ込み』かけているのだ。黒江は、廊下の角、天井、それから縁側へと視線を流して、溜め息を吐く。
くるりと体を回し、向きを変えた。
黒江が選択したのは、二つ目──「引き返す」だ。
(確か、浴室を出た反対側が入口に繋がってたっけ)
ここに来る途中ですれ違った宿屋の主人から、道を教えてもらったのだ。……元は迷子防止のためであったが。
(そうだ。誤魔化しついでに、ちょっと外に出てもいいかも)
この宿から一軒隣にあった和菓子屋を思い出す。
昼食をとってから、もう数時間。一日三食の現代人は、実はちょっぴりお腹が空いていたりする。
我慢できないほどではないが、この機会だ。わざわざ入口まで戻るのだから、店に行って買って来ようか。
部屋で老爺と風魔が待ってくれているが、本格的に心配される前に戻れば問題はない。
(あ、でも……いま靴擦れしてるから、そんなに走れないか)
こんなことで悪化したら、目も当てられない。
今度こそ完全に子供扱いされるだろう。怪我をしているのに自ら傷口を広げた、馬鹿な子供として。
(うん、外出は止めて……部屋に帰るのが無難かな)
色々考えた結果、黒江は素直に戻ることにする。
歩き出そうとしたその足が、三歩目を踏もうとしたところで声がした。
「あっはー。無視とか酷くないー?」
背後に人の気配。
それと同時に、鈍く光る何かを首筋に押し当てられた。
刃の感触。黒江は前を向いたまま硬直する。
飛んで来ないで夏の虫。
胸中に浮かんだのはそんな言葉。
虫のように手で追い払える相手だと嬉しいのだが、そんなことはないのだろう。
※
「こんばんは、仮面の旦那」
「……こんばんは」
丁寧に挨拶されたので一応返してみたら、ククッと喉奥で笑う声がした。
「あんたさあ、今の状況分かってる?」
訊ねてきた男の声は意外と若い。
友好的に見える態度。だが、声音にひやりとした冷たいものが混じっているのを黒江は聞き逃さなかった。
うわあ、と口から零れそうになるのを押さえる。
(面倒くさい系きた!)
厄介事という名の火の粉。それが見えていたからわざわざ避けたというのに、向こうから飛び込んでこられると溜め息しか出ない。
私が何をした。
まあ、心当たりがないことも無いのだが。
「いや、そりゃあね? じろじろ見てた私が悪いのは分かってるよ? ひとこと言いたくなって後をつけてきたのも、待ち伏せていたのも、仕方ないとは思う。……けどな、だからといって初手から刃物を突き付けるのは違うだろうというか屋内で揉め事起こそうとか何考えてんだこの時代の若者は」
「な、ちょ」
「私が君を見ていた理由は君があまりにも良い感じの行商人だったからで他意も何にもない。気分を害してしまったんなら謝罪する。だからチンピラみたいな真似は止せ刃物を引け」
「ちょっ……と待った!」
まるで舞台役者のように長台詞を一息に言いきった黒江は、首筋に押し当てた刃に動じていないように見えた。
驚いたのは、急襲した側の男。動揺したらしく、一瞬、黒江から身を引きかけた──が、すぐに刃を構え直して言葉を返す。
「ねえ……行商人、って何のこと?」
囁く声が更に低くなったと思ったら、不意に首筋に痛みが走った。
「……っ」
喉元に走ったのは、カミソリ負けをした時のような、チリチリとした薄い熱。
最初は「切られた」ことすら確信を持てないほど、それはあまりに鋭利で、デリケートな痛みだった。
指先を紙の端で切った時のあの嫌な感覚が首筋にスライドしてきたような。じわりと遅れてやってくる熱に、黒江の心拍数が跳ね上がる。
「ねえ、仮面の旦那。あんたと俺様、今が初対面だよねぇ?」
耳元で艶のある声が囁く。しかしそこに色気はなく、冷酷な殺気を含ませて。
黒江は、じくじくと痛む首筋の傷に顔を歪めながら静かに息を吐く。
(正体を言い当てたら動揺したくせに、敢えて自分から地雷を踏みに来るとか被虐趣味でもあるのかコノヤロウ!)
心の中で悪態をつく。
黒江の指摘を受けて、花火が弾けるように瞬いたオレンジ。面越しに伝わって来た男の狼狽えっぷりに、黒江は苦笑を噛み殺す。
むしろ、敢えて気づかないふりをしてやったというのにその仕打ちがコレか、と詰りたい。
だが、堪えた。子供のように言い返すのは大人げがない、と思ったからだ。
そうとも、ここは紳士的な対応でやり過ごそう──。
「俺様、気が長いほうじゃないんだよね」
暗い囁き声と共に、また痛みが走った。
二撃目は、右頬。小枝に打たれたようなピシッとした痛みだったが、このままだと傷だらけにされるのではなかろうか。
(目新しい拷問か? ここは宿の廊下だぞ?)
口元を引き攣らせた黒江の耳元で、男がふっと笑う。
「ね、仮面の旦那。とっとと答えてよ。その首が落ちる前に、さ?」
爆ぜる火花のように明滅し、どす黒く変質していくオレンジ色を、黒江は視界の端で視る。
怒れる蜜柑。
ははは。
強いストレスにさらされると、人は笑いたくなるらしい。
黒江は静かに息を吸い──そしてゆっくり吐きながら言った。
「……おい、チンピラ」
「は? ち、……何だって?」
「会話がしたいなら刃物を仕舞え。ソレが出来ないなら、帰れ」
「……へえ。この状況で、そんな事言う? あのさあ」
「会話を、続けたいなら、この刃物を、仕舞え」
男が言い終わる前に、黒江が言葉を被せた。一言ずつ区切るようにして。実に分かりやすくして。
黒江は、首筋に突き付けられた刃が強く押し当てられるのを感じた。
だが──引かない。
「……」
「……」
黒江は無言のまま、動かない。
男も、動かない。
「……」
「……」
人気のない廊下に沈黙が横たわる。
やがて、降参したのは男のほうだった。
「あーもう。俺様の負けだよ」
少し苛立った声がして、黒江の背中に貼りつくようにしていた気配が離れた。
「会話するのか、それとも帰るのか、チンピラ」
「……その、何とかぴらっての、止めてくれない? あと、今回は引き下がってあげるよ。……何だか嫌な気配がするからね」
「ああそうか。それじゃあ、とっととさようなら」
「……何でこっち見ないの? 俺が怖いの? あんたを斬りつけた男の顔、見ておきたくない?」
「嫌だ。面倒くさい。関わりたくない」
そう言って、黒江は背を向けたまま、ひらひらと片手を振った。
さよなら、とも、とっとと消えろ、とでも取れるような仕草で。
あっさりしてるねえ、と男が苦笑する。
「外で会った時は、あんなに可愛かったのに」
男に向かって何を言う。黒江は憮然とするも、相手の挑発に乗って堪るかとそのまま振り向かずにいれば──。
「──風魔と手ぇなんか繋ぎながら、可愛く走ってったくせにー」
「んなっ……!?」
「あはは、やっと驚いてくれた──あんたって、そっちが本性?」
ぎくりと身を強張らせた黒江の耳元で男が囁き、腰にするりと腕を回す。
「ま、つんけんしてるのも悪くないけど?」
くくっと笑い、からかう声が黒江の耳朶を打つ。
意外にもその声音が柔らかいので別な意味で驚いてしまうが、黒江は気を引き締める。
すぐさま男の手を掴んで引き剥がすと、前に一歩進んで距離をとった。
「帰れ、変質者」
そう言って、前を見たまま仁王立ち。
どこまでも振り返ろうとしない黒江に、男が溜め息を吐いた。
「ほんっと、あんたって……ま、いいや。じゃあ、またね──『黒江』」
名乗ってないのに名前を知ってる時点で変態だろうが! と、黒江は毒づく。
恐らく、宿のどこかに潜んでいたのだろう。老爺と会話を交わしていたあの時に居たのだろうか?
(そういや、ふうまさんが『あぶない』って──言ってたの、これかあ……)
だって一般人のほうに来るなんて思わないじゃないか、と黒江は心中で嘆息し、襲撃者の気配が完全に消えるのを待つ。
ひゅう、と風の音を聞いた気がした。
(行ったかな)
色の気配が廊下の奥の闇に滲み、すっかり視えなくなったのを確認してから、黒江はようやく振り向く。
(よし、いない……追い返せたあ……)
首筋にそっと手を当てて──ピリッと痛みが走ったので傷口に触れないよう気にしつつ、深く息を吐き出す。
(はは……こ、怖かった。さすがにちょっと強気すぎたけど……良かったんだよな、ああいうので)
面を少し上げて、滲む涙を指先で拭う。指先が震えているが、深呼吸している間に治まってくれた。
(なんか……つかれた……)
そのまま壁に凭れかかりたくなったが、しゃがみ込んで動けなくなりそうだったのでどうにか耐えきる。
せっかくお風呂でリラックスしたのに、台無しだ。黒江は震える脚を叱咤して前を向いた。
その時。
「ひっ」
向き直った黒江の目の前にいたのは、灰桜の髪をした長身の男。
音も無く気配も無く、そこに……今度は変装を解いて忍装束に身を包んだ風魔が立っていた。
口元を引き結び、黒江を見下ろしている。気配が揺らめき、上から下までを闇色の何かが──まるで風魔の指先のように──スッと撫でていったのが仮面越しに視えたが、錯覚ではあるまい。
薄明りの廊下が暗くなり、周囲の気温が一気に下がった気がした。
足元が急激に冷えていく。
これは恐怖からの震えだろうか?
黒江は息を飲み、底の見えない美しいモノリスを見上げる。
凶鳥の如く禍々しい黒の気配を纏ったそれは、黒江が知る『ふうまさん』とは似て非なる、伝説の忍としての真の姿だった。
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一難去ってまた一難。
チンピラには手加減されたけど、こっちはどうなるんでしょうねと言う引き。