「ふ、う……ま、さ……」
音も気配も無く現れた黒い影。
先程までの剣呑で強気な姿勢はどこへやら。
黒江は瞳を揺らめかせ、怯えたように後ろへ下がって距離をとる。
接近に全く気づかなかった。
さっきのチンピラ男に気を取られ過ぎていたか? しかし、この気配の消し方は尋常ではない。
廊下に落ちた自分の影が、長身の風魔の影にすっかり飲み込まれている。制圧の暗喩でなければいいのだが──そんなこと考えてしまって引き攣りかけた頬に、黒江はどうにか微笑を浮かべて口を開いた。
「あ、の……お、遅くなって、すみません」
「(……)」
鉄兜はないが、長い前髪で風魔の表情は分からない。
ふと、風魔がじっと何かを見つめていることに気づく。
「ふうま、さん? なにを──」
見ているんですか、と訊ねかけて黒江は思い出す。
己の右頬と首筋につけられた、二筋の赤のことを。
(しまった!)
慌ててそれを隠そうと動かした両手は、素早く伸びてきた風魔の手に掴まれ阻まれた。
「あのっ、これは──うわっ!」
返答する間もなく強い力で引き寄せられた黒江の体は、いつの間にか物陰にあった。引き摺りこまれた廊下の壁に背を押しつけられた黒江が恐る恐る視線を上げれば、冷たい漆黒色が近距離から見下ろしている光景を目にする。
息を飲む黒江に、風魔が口を動かす。
な、に、が、あ、つ、た──「何があった」
確実に読み取らせるために、ひどく緩慢に動かされた口元が問い質すのは、傷の理由。
黒江は視線を泳がせる。
(……え、待って。この状況、詰んでない?)
どう説明しようか、と黒江は脳内会議をフル回転させ、絞り出した一言は──。
「昼間に見かけた行商人が、実はチンピラ変質者でした」
ああ、うん。これはダメだ。もう少し考えないと。
けれども、結局あの男が何をしに来たのかは不明なままであるから、黒江にも説明のしようがない。
ひゅう、と風の鳴る音を聞いた気がした。
「え?」
思わず風魔に目を向ければ、その口元が動いて──『何があった』と声のない質問が飛んできた。
風魔は真っ直ぐに黒江を見つめ、問いを重ねる。
──『誰にやられた』
普段は長い前髪で隠されている目元が、髪の間から覗いている。その瞳は真剣で、纏う気配は先程の男よりも冷たく恐ろしい。
ここで馬鹿正直に話すのは、何だかまずい気がした。
あの男にされたことは腹立たしいが、けれど恨むほどでもない。
切られたのは薄皮──もう少し厚いか? ──ともかく、些細な切り傷が二つ。
こんなものは『悪ガキ』の悪戯だ。目くじらを立てては『大人げ』ない。
黒江はこくりと唾を飲み込むと、震えないよう言葉を紡ぐ。
「実、は」
「(……)」
「少し長湯をして、のぼせてしまいまして」
「(……?)」
「ええ。それで火照りを冷まそうと宿の外に出てみたら、通りの少し向こうで大道芸をやっていまして」
「(……)」
「猿回しがいまして。それをぼんやり見ていたら、睨んでいると思われたらしくて」
「(……)」
「……引っ掻かれちゃいました。猿に」黒江はそう言って、えへ、と笑った。
いい年をした男が「えへ」と笑うのもどうかと思ったが、なりふり構ってはいられない。
「(……)」
「……」
壁に押さえつけられている黒江は浮かべた笑みを保ったまま、風魔からの凝視を受け止める。
仮面越しに見える気配は海の底を思わせるような深い色をしていて、何も読み取れない。
(うん、流石に無理がある説明だとは思うよ……でも、もう何とも思ってないんだよなーコレ)
それに、嫌なことはとっとと忘れたい。
「心配かけて、すみません。でも、本当に掠り傷みたいなものなので」
もう乾いただろう傷跡を意識しながら、黒江は笑う。
もっとも、風魔が目を瞠るくらいには血の痕が目立っているのだろうことを考えると、このまま部屋に戻るのはマズいのか。老爺にまで心配されてしまう。
「あの、ふうまさん。血、洗い流してきますので、一旦離して頂けると──」
そう言いながら黒江が目を上げれば、手首を掴む風魔の手が、ぴくりと動いた。
「ふう──?」
黒江の声に名前が乗るより早く、風魔の顔が近づき──。
「──ひっ!?」
首筋についたひと傷に、風魔の唇が落ちてきた……と思ったら、舐められた!
「あっ、えっ……ちょっ、ふっ、ふうま、さっ……!」
ぬるりとしたものが傷跡に触れる。それは思っていたよりも熱く、更には風魔の信じられない行動も併せて、黒江を酷く驚かせた。
「んっ……ふ……ちょっ、と!」
首筋の脈打つ箇所を、生温かく濡れた肉がなぞっていく。
「ふ……ま、さぁ……っ、んっ!?」
唾液には殺菌作用があると聞くが、傷口以外も舐められているのでこれは治療ではない気がする。それ以前に、他人の唾液だ。衛生観念の意味はない。
(えええちょっとなにコレどうしたふうまさん!)
肉を味わう獣のように、風魔の舌が首筋を這っていく。
丁寧なそれは、手厚い看護の延長──とはどうにも思えず。
(猫の毛繕い──というレベルじゃない! いやもう絶対、治療じゃないよコレは!)
ぞわぞわする感触に黒江はきゅっと唇を噛みつつ、この状況下で出来ることを考える。
「んっ……く──っ」
怪我を見て、頭に血が上っているのだろうか。
ひとまず距離を置いてみようか、と風魔の肩を押すも、悲しいかな、びくともしない。
(喘ぐ男とか客観的にどうなんだ見苦しい光景なんじゃないのっていうかふうまさん怒ってるの!?)
だとしたらコレはお仕置き的なやつなのか。
背後は壁、前には風魔。黒江はどうにか冷静さを保ちながら、脱出方法を探す。
(怒るなら普通に怒ってー! あああふうまさん力強いー!)
脈打つ急所を他人に曝け出している、この状況。
色んな意味で絶体絶命感がする中、黒江は必死に声を押し殺して考え続ける。
その時だった。
「んっ……あ、なに──イッ!?」
「(……)」
右手の拘束が外れたと思ったら、それが黒江の顎を掴んで持ち上げた。
噛みしめていた唇を、その指先がこじ開け──。
「う、ぁふ──んぐっ!?」
唐突に、人差し指と中指が口内に潜り込んできた。
いや、これは押し入られているというべきか。強引に口の中へ侵入してきた風魔の指は、直前まで手甲を着けていた為か微かに鉄の味がして──どこか血の味に似ていて──黒江を混乱させる。
(あわわわわ、ほんとなにこれ拷問!? 拷問されてる!?)
風魔に悪い感情は持ち合わせていないが、それでもいきなり口に指を突き込まれるのは受け入れられない。
「あぐ……っ、うぇ」
涙目で風魔を見返せば、その口角が僅かに持ち上がった──笑った? ──ように、見えた。
微笑にも嘲笑にも見て取れる、場違いな風魔の笑み。
視える気配は澄んだ漆黒。美しいが、足元の冷気は去っていない。
黒江の背に嫌な汗が一筋流れる。
無骨な指は口内を探り──なんとそのまま弄るように動きはじめた。
「えぅ、うっ!?」
荒事を重ねてきたらしい手はごつごつしているが、舌に触れる仕草は優し──「ぇぐ」
長い指先で、舌をきゅっと挟まれた。目を白黒させて視線を上げた黒江は、薄く唇を開いて笑う風魔を見る。
(なんかサドっぽい笑い方してるうう……っ!)
更に口腔内の内側を、風魔が指の腹で愛撫するように撫でてきたものだから、黒江は一層強くもがく。
だが顎を掴む力は緩まず、抵抗は許されず、風魔の指が舌や上顎の裏をなぞるのを黒江はじっと受け入れるしかない。
そうこうしているうちに、何か小さく丸いものが喉奥に転がってきた。
「んぁ──んぐっ」
舌で押し返そうとしたが、それは風魔の指に捕らわれているので叶わず──ごくんと飲み込んでしまう。
喉を通り抜け、胃の腑に落ちた丸薬は瞬時に溶けたらしく、じわりと熱を発して黒江を更に混乱させる。
「んっ! けほっ、うぇ、はっ……ふ、ぅま、さ……っ!」
白湯を飲んだ時の感覚に近いが、黒江はパニックになる。
正体の分からぬものを飲み込んでしまったという意識から、自由になった右手で風魔の背を叩きはじめる。
とんとんとん、と軽かったそれは焦燥と息苦しさから徐々に勢いを増し、やがて殴打になりかけたところで風魔がようやく指を引き抜いた。
「うぇ……けふっ」
黒江の唇から細く引いた透明な糸を、風魔が親指の腹で拭う。
それから黒江を見つめて、ゆっくり唇を動かした──「これでいい」と象った言葉は、生憎と黒江は見なかったけれど。
同時に、顎を掴んでいた手を離す。
そうしてやっと……黒江は解放された。
「はあっ、は──う、げほっ」
喉の違和感と微かな嫌悪を吐き出すように、咳き込むこと数度。
やがて少しずつ落ち着きを取り戻した黒江は口元を拭い、風魔を睨んだ。
「みっ、水で洗ってくる、って言ったじゃないですか! しかも口の中まで弄ってたけど、そこは怪我してないって分かるだろう!?」
「(……)」
黒江の顔は赤い。それは激怒か羞恥か、両方か。
後半の口調が崩れていたのは動揺のせいだろう。
風魔が不思議そうに見返してまた口を動かすので、黒江が眉を寄せてそれを凝視する。
「え? 何です? ……お……く?」
ふるりと風魔が首を振り、もう一度口を動かした。
「……こ、う?」
首を振る風魔。呆れたような溜め息を吐くと黒江に顔を近づけて、更にゆっくりと口を動かした。
──『どく』
「……毒……ああ、そういう──いや、え?」
どうやら二次被害を懸念して、風魔は黒江に解毒薬を飲ませたらしい。
だが、納得などできるはずもない。
(……解毒薬! だったら普通に飲ませてよ! オブラートとかないにしても、口移し……じゃなかったけど、指突っ込む必要あった!? 舌挟む必要あった!?)
怒鳴り散らしたい気持ちと、彼なりの(過剰すぎる)気遣いへの困惑が混ざり合い、黒江は結局力なく肩を落とした。
しかし強引に飲み込まされた物の正体が分かったのもあり、冷たく強張っていた黒江の緊張と怒りはひとまず解ける。納得は全くしてはいないが。
「はあ……けほっ。今度からは事前に一言言ってもらえると助かります」
「(……)」
風魔が首を傾げ、それからやれやれというように溜め息を吐く。何を暢気なことを、とでも言いたいのか。こちらも訊ね返しはしないが。
「大丈夫ですよ。あのチンピラ、殺しに来たっていう感じじゃなかっ……」
「(……)」
「……猿です。猿の仕業」
「(……)」
「……さ、猿に毒なんて、ないです……よ?」
つい口をついて出掛けた真実を、瞬時に飲み込んでしらを切る。
どこまでも誤魔化そうとする黒江を、風魔は静かに見つめていたが──尋問はここまでにしたようだ。手を離して解放してやれば、黒江があからさまにほっとした顔をする。
やれやれ、腹芸が上手くない男だとばかりに風魔は少し肩を揺らし、柔らかに目を細めて黒江の肩に軽く手を置いた。
──『部屋に戻ろう』
声ではなく口の動きのみで告げれば、黒江が風魔を見る。言いたいことが色々あるような表情を浮かべていたが、素直に従うことにしたらしい。
「……はい。戻りましょう」
そうして黒江は風魔と共に歩き出した。
廊下を歩いている途中、傷の具合が気になったので、さり気なさを装って首筋に触れてみる。
指先で軽くなぞってみれば少しだけピリッとしたものの、やはりそう深い傷ではない。滲んだ血は風魔が舐めとっていたから、あとは頬のほうだ。
水で濡らした手拭いで血を落としておくか、とのんびり意識を逸らしていた黒江は、自分をじっと見つめている風魔に気づく。
「どうか──」
しましたか、と訊ねようとして──視線が留められているのがどこであるかを理解し、すぐさま右頬を押さえた。
ぶんぶんと首を振って言う。
「大丈夫ですから!」
だからもう舐めないでください! と必死になって叫んだ。
風魔が残念がっているように見えたのは、きっと気のせいで目の錯覚だ。
『黒江、貴方疲れているのよ』──なんて、某ドラマの台詞と声が脳裏を流れて行ったのは幻聴だ。
いやもう本当に疲れた。
折角お風呂に入ったのになあ、と心の中で黒江はひっそり嘆く。
首筋に風魔の匂いが、舌の上に風魔の指の味が残っている気がした。
……よもやマーキングではあるまい……?
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一番身近な人間が一番怖かったという話。
相手は六尺越えの長身(190cm)なので壁ドンは怖い。