夢を見ていた。
灰色の空の下、呼び出された公園の砂場には、見慣れた男と見知らぬ女が立っていた。
夕闇が迫るなか、二人の輪郭だけがひどく鮮明で、交わされる言葉の断片が耳朶を打つ。
『もう一度、やり直したいの』
すすり泣く女の肩を、男が慈しむように撫でている。
ああ、これはよくある修羅場だ──他人事のようにそう思った瞬間、男と目が合った。
「お前……いつからそこに?」
問いに対し、正直に「やり直したいと聞こえた辺りからだ」と告げれば、女は真珠のような涙を零しはじめた。綺麗な泣き顔でこちらを射抜き、男に縋りつく。
「ごめんなさい」
突然の謝罪。理由などない。ただその場において、私が「加害者」という役割を割り振られたのだと直感した。
「悪い。改めて連絡するから」
男の言葉は、酷く遠かった。女の肩を抱き寄せ、立ち去ろうとする彼の背中を見送る。
その刹那、女がこちらを振り返った。
陶器のような白い肌に、毒を孕んだ鮮やかな緋色の唇。
三日月型に歪んだその嘲笑が、網膜に焼き付いて離れない。
数日後、別れの言葉が届いた。
好きになるのは顔じゃなくて心だ、と豪語していた男。
結局、顔で人を選ぶ「人でなし」だったのだ。
「……うそつき」
きれいな人の身代わり。
きれいじゃないから、飽きて捨てられた。
目の前が真っ赤に染まり、奈落へ落ちていく──。
──そこで、目が覚めた。
※ ※ ※
「おお。起きたか、黒江」
「じい……さ、ま? ……あれ?」
視界に飛び込んできたのは、流れていく雑木林と、自分を見上げる小柄な老爺。
思考が揺り籠のような振動に揺られ、我に返る。
視界の端に、赤みを帯びた灰桜の髪が揺れていた。
夢で見た悍ましい緋色とは違う、柔らかで、芯の通った温かな色。
(──え。いや、背中?)
というか、この体勢には覚えがある。
黒江の意識は一気に覚醒した。
「──おんぶ!? え、なんで……ふうまさん!?」
しかも、ほとんど抱き着いていた格好となっていたものだから、慌てて両手を離そうとしたが相手の片手で両手首を掴まれ、阻止された。
元はともかく、今は成人男性としてそこそこの腕力はある筈なのに──こうも容易く制圧されようとは。
風魔の手は、子を運ぶ親獣が首筋を優しく咥えるような、柔らかながらも決して逃れられぬ拘束力を持っていた。
(か、片手で拘束とか……あああもう、前も思ったけど本当に凄いなこの人は! そこも格好いいんだけど!)
成人男性を米俵のように担ぐわ、飛ぶわ、走るわ、と、「ふうまさん」はとにかく身体能力が凄まじい。
振り払えるわけがないと、黒江は早々に白旗を上げた。
「あの……何でまた私は、ふうまさんに運ばれているんですか?」
そう訊ねれば、風魔の隣を歩いていた老爺が笑う。
「黒江が目を覚まさんかったからぢゃ。それに、どうにも疲れているようぢゃったしな」
「……お気遣い頂けて嬉しいんですけど、そこは起こしてくれても全然問題なかっ──」
「──ならばいっそのこと、好きなだけ眠らせておこうと考えての」
「それは……誰のお考えで?」
「儂と風魔ぢゃ!」
エヘン、と胸を張るように老爺は背筋を伸ばし──すぐにアイタタタと猫背になった。
小さな背を風魔が撫でる光景は、ほのぼのとする雰囲気があって。
(わあ優しいな爺孫コンビ! ……って感心してる場合じゃない)
眉間を押さえながら、黒江は難しい顔つきで考え込む。
(主従揃って他人に過保護なのは何なの、何でなの。そういう家訓でもあるのか?)
まさか自分を背負っているのが、伝説の忍だとは夢にも思わず、黒江は「徳の高いお武家様(とその凄腕な付き人)」という解釈で自分を納得させた。そして嘆きは声に出さず、会話を続ける。
「……あの。もう目が覚めましたので、とりあえずここで下ろし……」
「──そうそう、目的地へは夕暮れ前に着くぞい。お主が眠っている間に、随分と進んだからのう」
からからと笑う老爺の言葉を受け、黒江は乾いた笑いを浮かべた。
風魔が黒江を背負って歩いたら、距離をかなり稼げたと老爺は言う。
ということは、つまり──。
(私が思いっきり足を引っ張っていたんですね分かります、すみません)
心の中で謝りながら風魔の背にぐったりと顔を埋めた黒江に、老爺が声を掛ける。
「おや、まだ眠いのかね。ほっほ、ならば眠るがええ。着いたら起こしてやるからの」
「でも私は……」
老人が笑って、黒江の背中をポンポンと叩いた。
風魔は、掴んでいる黒江の手をあやすように撫でている。昨夜、冷えた廊下の壁に黒江を追い詰め、拷問めいた手つきで口腔を暴いた指が、今はまるで壊れ物を検分するかのような繊細さで、黒江の指の付け根や掌の柔らかさをなぞっていた。
黒江は、少し口をもごもごさせて昨夜のことを思い出す。
部屋に戻った後、白湯を飲んでもなかなか消えなかった風魔のあの指の味を──。
(──思い出すのはナシ!)
羞恥でどうにかなりそうな心を抑え込み、黒江は手の甲を撫でたり叩いたりしている風魔を窺い見る。
下ろして欲しいと頼んでも聞き入れてくれない強引なところがあるのに、こうしてとびきりに優しくしてくるのは狡いと思う。
どうしようもない甘やかな揺り籠。
こんなの反則だ。
振り払えるわけがない。
黒江は何だかもう考えるのが面倒になって──意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなって、諦めることにした。
(……足手まといは何もしないのが一番だな)
ここは素直に甘えておくのが良いのだろう。
無意識にふうまの背中に擦り寄り、黒江はゆっくり目を閉じる。
不思議なほどに、揺れがない。
山道を進んでいるはずなのに、黒江を背負う男の歩みには木の葉が舞い落ちるような静寂があった。時折、草木を蹴るわずかな振動が伝わるだけで、その背中は大海を征く大船のように揺るぎない安心感がある。
(あたたかい……)
夢の中の女は、綺麗な顔で私を嘲笑った。
けれど、この人は──この綺麗な赤を持つ人は、決して私を嗤わない。
「(……人攫いでも……いいかな……)」
その思考を最後に、黒江は抗う術を捨てた。風魔の肩に顔を寄せれば、忍特有の無機質な香気──雑じりけのない森の匂いが鼻腔をくすぐる。
夢の中で見た緋色の唇は、もう追ってこない。
この灰桜の髪を持つ男は、言葉を持たぬ代わりに、その背の温もりだけで黒江の絶望を塗り潰していく。
それが慈悲か、あるいは逃げられぬよう施された呪縛か。
今の黒江には、そのどちらもが甘やかな揺り籠だった。
※
「起こせ、と黒江は言うたが、あのような顔で眠っているものを起こすのもなあ、風魔」
黒江がすっかり眠ったのを確認してから、氏政が口を開いた。
話しかけられた風魔が頷き、肩越しに仮面の男を一瞥する。
思い出すのは、夜が明けた朝方のこと。
黒江を起こそうとその顔を覗き込んだ風魔は、眠る際にも付けたままの仮面が、涙を流しているのを見た。
仮面が、いや黒江が泣いていた。
嫌な夢を見ているのか、面の隙間から見える表情は歪んでいて、安眠とは程遠いものだった。
悪夢を見ているのなら起こすべきか、と伸ばした風魔の手は、横から伸びてきた細い腕に遮られる。
「起こさんほうがええぢゃろ。どうせ今日も長く歩く。怪我が治りきっておらぬ黒江の足には、さぞ厳しいぢゃろうて」
「(……)」
一理ある。風魔は頷く。この男はとにかく弱くていけない。
藁草履が合わないのか、歩く度にその白い肌のあちこちに掠り傷を作っている。
「それでぢゃな、風魔よ。わしは考えたんぢゃ」
風魔が小さく頷いて話の先を促せば、老爺は一呼吸の間を置いてから言った。
「黒江は起こさず、このまま運んでゆけばいいのではないか、とな!」
「(……!)」
成程。名案だ。
風魔は無言で首肯した。主君の提案は、彼にとって「利害」と「欲望」が一致する最高の名案だった。
伝説の忍の口角が、僅かに、本当に僅かに持ち上がる。
確かにそれなら道中も早く進むし、面倒にはならない。──面倒を間近で見ることが出来る故。
雛鳥は、風魔の耳元で寝息を立てて完全に眠っていた。先程までは妙に緊張して体を固くしていたようだが、それは落ち着いたのか、こちらに縋るように身を寄せている。
背中の温もりが心地いい。
「よし。では善は急げぢゃ。往くぞ風魔!」
力強く頷く風魔。
その背には、深く眠り込んだままの現代人が一人。
**
これが結構トラウマとなっていて、顔を隠していないと落ち着かないという。
現状はこれが身を守る(?)オーパーツになっているわけですが。