宿場町から出て早々に眠り込み、次に目を覚ました黒江は驚きの中にいた。
(こ、ここは……どこ……)
見上げるほどに高く積まれた石垣、巨木をそのまま削り出したかのような重厚な城門。
町全体がまるで巨大な要塞に見えた。
武装した兵たちが統制の取れた動きで擦れ違い、その槍の穂先が陽光を受けて鋭く光る。
(何だこの大都市……昨日いたところと全然雰囲気が違う)
ここは、町全体が戦うために造られた巨大な鉄壁の要塞だ。
黒江は最初、あちこちへ視線を走らせていたが──途中からは風魔の背に顔を押し付けて、黙りこんでしまう。擦れ違う人々の視線が、どうにも自分に向けられていることに途中で気づいたのだ。
ただ珍奇な来客として見られているならいい。
しかし黒江には、通常の視覚に加えて、仮面越しにそれらの気配の色を視てしまう。
柔らかな黄色は苦笑。桜色は微笑ましさ。黄緑辺りは興味……だろうか。
悪意がないからこそ、余計に黒江は自分が置かれている今の状況を客観視して堪らなくなった。
子供のように背負われているこの現状。
こちらに視線を向けている彼らは、さて何を思っていることやら。
(うああなんかみんな良い人だ……でも今はいっそ笑ってくれたほうがいい……)
この町の人々は、どうやら自己嫌悪を許してくれないようだ。黒江が風魔にしがみつくようにして隠れていれば、それをどう見たのか、風魔がまたポンポンと宥める様に肩を叩いてきたので益々気恥ずかしくなった。
そのようにして黒江が視界を閉ざしている間にも老爺と風魔は城塞都市の中を進み、橋を渡り、奥へ。
※ ※ ※
「着いたぞい、黒江」
案内された謁見の間。
その大広間の中央に正座した黒江は、目の前に広がる光景を見て頭を抱えたくなっていた。
「──城主は流石に予想外だった……!」
「ひょ。そう堅苦しくせんで、楽にして構わんぞい」
「無理です……ちょっと流石に無理……」
黒江はこめかみを押さえたまま、動かない。
目の前に鎮座している老人を見て、それから自分の隣に立っている風魔を見て……それからまた目を伏せ、溜息を吐いた。
(嫌な予感はしていたんだよなぁ)
微かな揺れが心地よくて、うっかり眠ってしまったのが拙かった。
誘いを受けずにさよならと告げて、あの小屋にいればこんな事態にならなかっただろうに。
(どこかの偉い人だってことは分かってたけど──けどまさかこう来るとは思わないじゃないか!)
黒江は顔を上げて、ちら、と前を見た。すると気安く「爺様」と呼んでいたその人と目が合い、にかりと笑いかけられた──が、黒江はそこで氏政の気配の色が変わるのを視る。
淡い紫の一色が、扇を広げるように黄・赤・青・白・黒の五色へ変じたのだ。北条五色備の象徴。黒江は鮮やかな色彩に息を飲み、前傾に丸めがちでいた姿勢を伸ばす。
(……爺様、じゃない。小田原城の城主様……!)
上座にいるのは、これまでに接してきた好々爺ではなかった。
僅かに怯んだ黒江の様子に、氏政が果たして気づいたかどうか。笑みを浮かべたまま、老爺とは違う一国の主然とした重厚な声で言葉を紡いだ。
「さあさて、互いに誠を名乗り合うかの。──儂は北条家当主、北条氏政ぢゃ。そして──」
氏政は黒江の隣を手で指すと、そこに立つ男の名を口にした。
「これなるは風魔。風魔小太郎。伝説の忍ぢゃ」
「えっ──にんじゃ!? 忍者、風魔小太郎!?」
「(……)」
ぽかんとした顔の黒江に、氏政の紹介を受けた風魔が訝りつつも黙礼した。
黒江は、面越しに額を押さえて息を吐く。
「嘘だろ……風魔小太郎って……うわあ……」
感動を抑えた声で呟きつつ、礼儀に倣って自らの名を口にした。
「あ、私は眞条黒江です……ええと……ただの一般人、です」
相手の身分に戸惑いながらも素直に名乗り、頭を垂れる。
北条氏政に、風魔小太郎。
黒江は彼らの名前を繰り返す。
北条と、風魔。
(──北条氏政って! しかも、風魔小太郎って!)
一気に胸が躍る。
めちゃくちゃ有名人じゃないですか! と叫びだしそうになったが、そこは場所を考えて必死に堪えた。
流石に有名どころの名前くらいは憶えているし、知っている。特に、風魔に至っては奇しくも自分がこの世界に来る前まで読んでいた時代小説やその資料などで知ったばかりの有名人だ。
(ふうまさん、風魔小太郎だったんだ……)
風馬、もしくは風磨だと思い込んでいたのでピンとこなかったが、少し考えれば「爺様」が口にする「ふうま」が風魔だと感づいてもおかしくはない状況は幾らでもあった。
黒江は此処に来て、もっと歴史を勉強しておけばよかったとちょっぴり後悔する。
風魔党の頭領であり、その名は歴代引き継がれてきたものだとか、配下が二百余人だとか、とにかく謎が多い人物が、こうして目の前にいるとは!
だから、風魔が忍者だと言われても疑うことはなかった。
密やかな気配。影のように消え、風のように現れる風魔。
そして次は黒江自身も体験したが、大の男を軽々と扱う規格外のその力。(大の男を片手で抱き上げたり、壁に押し付けたりと、何とも愉快な体験をさせてくれたものだ、この人は)
そして、その風体。史実との整合性はさておき、黒江の好奇心が爆発するには充分な存在が目の前にいる。
「どうした黒江。まるで借りてきた猫のように畏まりおってからに」
いつまでも黙り込んでいる黒江の様子が気になったらしく、氏政が柔らかに尋ねてきた。
黒江は没頭していた意識を戻し、氏政を見て苦笑を浮かべる。
「あー……その……」
「今まで通り、普通に接してくればええぞ。それとも、何ぞ気がかりなことでもあるんかの?」
「気がかり、と言います、か」言い淀み、そろりと顔を上げた黒江が見つめたのは隣に立つ風魔。答えがそこにあるかのように、懇願にも似た目を向けていた。
風魔は首を傾げたが、片膝をついて黒江と視線を合わせる。『どうした?』と口を動かした風魔に、黒江は「あー」だの「その」だの口篭もっていたが、不意にパッと右手を差し出すと、真剣な顔をして言った。
「あのっ──せめて握手だけしてもらって良いでしょうか!?」
「(……)」
「ほ?」
氏政と風魔が呆気にとられた顔で黒江を見た。
分かっている。自分でも、トンチキな願いを申し出たということは。
それでも我慢が出来なかった。
元々、好奇心が膨れ上がると暴走する性格だ。
一度火の着いた知的好奇心は、それなりに燃え尽きるまで収まらない。
黒江は風魔に右手を差し出したまま、言い切った。
「是非とも握手を! 握手だけで良いので、どうか!」
「(……)」
突飛な懇願を受けて、風魔は固まる。
黒江は知らなかった。
──この時代では「握手」という文化はまだないのだということを。
「(これは……何をすればいい?)」
風魔は内心で首を傾げる。己の武器を渡せばいいのだろうか? そう考えて背中の対刀を意識するが、どうも黒江が求めているのは己との接触のような気がした。
けれどこの手を取っていいものか。
こうした行動は攻撃の初動であり、こちらとしては制圧対象なのだが……。
相手は雛鳥の如き存在だ。手首を捻ろうものなら、大きな瞳はたちまち涙で潤むだろう。
「(……まあ見てみたくはあるが)」
とはいえ、泣かせたいわけではない。一先ず風魔は警戒を解くと──これが罠だとしてもどうにでも出来る──差し出されている黒江の手に合わせて、掴んでみた。
その行動は正しかったようで、黒江が「わあ」と感激の声を上げて、繋がれた手を見る。
「あ、ありがとうございま……す?」
「(……)」
「……あの、風魔さん」
わくわくとした面持ちで手を握りしめていた黒江の表情が、次第に疑問を帯びたものになる。
「……あの、ですね。風魔、さん」
「ふぉっふぉ。黒江は意外に甘えっ子なんぢゃなあ」
目の前に鎮座した氏政が、茶を啜りながら笑った。
その視線の先にあるのは、己が誇る最強の忍と、項垂れている黒江の姿。
風魔の右手は黒江の手を握りつつ、もう片方はその頭を撫でていた。
なんとも微笑ましげな光景に、氏政が穏やかに目を細める。
「まさか、そうも風魔に焦がれておるとは思わなんだ。好かれたものぢゃのう、風魔」
「(……)」
「焦がっ……!?」
黒江が弾かれたように顔を上げ、氏政を見る。
「ちっ違っ……違いますから! これはそういうのじゃなくて、有名人を前にしてつい浮かれてしまった一般人というか、そういうのでっ!」
「ああ、ああ。そう照れんでもええぞ黒江。ここには今、儂と風魔しか居らんからな」
「照れるとかじゃ……ああもう! 気が済みましたから手を離してください本当にありがとうございました風魔さん!」
黒江は一息にそう言うと、繋がれた手を自分の方から離した。
それから、ずりずりと横に移動して頭を撫でる風魔から距離を置くと、何とも言い難い表情をして唸る。
おかしい。願い出たのは「握手」だけだったのに、何故にオプションで「頭撫で」が付いてきたのか。
これでも自分はれっきとした成人男性で、撫でたくなる要素は微塵も無いのに。
子供とか女性ならともかく、可愛いとか、綺麗とか──程遠い自分には、そんな評価は、ありえない。
黒江は気を逆立てた猫のように身構え、じっと風魔を見つめた。警戒しているのだ。
「(……)」
風魔はというと、不意に手持ち無沙汰になった己の手を見つめている。
その視線が、不意に黒江に向けられた。
「……何ですか。跳ねのけた手が痛いとか言いたいんですか。強いからそんなもの気にならない筈でしょう」
じとりとした目つきで、黒江が風魔を見る。
面の隙間から覗く、皺の寄った眉間。睨んでいるつもりなのだろうが、殺気も敵意も感じられない眼差しと、微かに赤い目元はまるでふてくされている子供のようにしか見えない。
風魔は思わず苦笑を噛み殺し、空けられた距離を難なく詰めると、再び手を伸ばして不思議と触り心地の良い黒江の髪を撫で始めた。
「え、わっ、移動早っ!?」
二度目の接触では、いつの間にか黒手袋を外していた。自分の痕をじかに付けたくなったのか。
「(……想像通りだ)」
肌に直接伝わる滑らかな触り心地。絹に似て柔らかな質感。
上等な獣の毛皮でもここまでの物はない。
そのまま毛並みを撫でていれば、黒江の顔が赤くなっていく。
「ちょ、風魔さん! 撫でてくれなんて言ってないんですけど! あと何で急に素手なんです!」
そう言って風魔の手から逃れようと左右に体を揺らすのだが、それでも風魔の手は簡単に追いついて撫でてくるので、黒江は途中から匙を投げた。
逃げるのを止めると、されるがままに撫で繰り回されるのを受け入れる。
そもそも、ただの一般人が伝説を相手にして立ち向かえるわけがないのだ。
猫の仔のように撫でられている黒江をしみじみと眺めて、氏政が笑う。
「風魔はすっかりお主に懐いておるのう」
氏政の笑い声が、広大な謁見の間に響く。
「玩具にされてる気がしてならないんですけどね」
黒江が項垂れながら零す言葉は、風魔の耳には心地よい囀りにしか聞こえないらしい。無言のまま、素手の指を黒江の柔らかな髪の中に深く沈ませ、その頭をさらに己の方へと引き寄せた。
「……母猫みたいに抱き寄せるの止めてくれます?」
黒江はその柔肌に伝説の指先が掛かったことなど気づかず、猫かわいがりをする風魔を片手で緩く押しのけるのだった。
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この人たち水戸黄門では……、とちょっと思ってたりした。
ふうまさんを風車の人だと。遠いこともないけど。