忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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02 小田原の日々1-1

 

 

「んー……朝かぁ……──ヒッ!?」

 

 朝。山奥の小屋とは違う、柔らかな寝具の中で目を覚ました黒江は、自分を見下ろしている人影に気づいて飛び起きる羽目になった。

「ふっ風魔さんっ!?」

「(……)」

 就寝時にも付けていた面のお陰で、視界の端に凪いだ水面に浮かぶ黒い羽のような気配があるのは分かっていた。殺気も、敵意もない、生活臭すら一切排除された、静かな漆黒。

 だから、何もないと思ってそちらに意識を向けたら大きな『存在』が目に入り、酷く驚く羽目になるのだ。

 

(……あまりに気配が静かすぎて、景色の一部かと思っちゃってたよ)

 

 黒江は震える指先でずれかけた面を整えながら、傍らに片膝をついて待機していた忍に話しかける。

「お、おはようございます……こ、こんな朝っぱらから、どうしました?」

「(……)」

 相手の寡黙さには少し慣れたと思うが、それでも長身から見下ろされると緊張と威圧感が凄い。

(まさか、やっぱり怪しいから仕留めに来ました! ……なんて、ね)

 気配の感じからそういうものではないと分かるが、相手は主命があれば実行する忍だ。常に悪い予想もしておかなくてはならない。何せ此方は依然として身分不詳な上に顔を隠した不審者なのだから。

 

 ──そう考えて警戒しようとするのだが、主人の命令を待っている忠実な大型犬のようにも見えるのは何故だろうか? 

 

「あの、何か……?」

 いつまで経っても口元を引き結んだ相手から反応が無かったので、黒江はばくばくする心臓を押さえつつ風魔を見る。

「風魔さん?」ともう一度声を掛けたところで、ふるりと首を横に振られた。

「ん?」

「(……)」

 はくはく、と動く唇。風魔が己を指差し、何かを言っている。

 音のない言の葉。黒江は読唇術など出来ないが、その形は最近見たばかりのものだ。

 

『な、ま、え、で』

 

 ……ああ、そういえば。

 

「お、おはようございます。こ、小太郎──さん」

「(……)」

「……すみません。やっぱり、いきなり呼び捨てるのは無理なので、猶予を下さい」

「(……)」

 物言いたげな風魔の──小太郎の無言の凝視からそっと目を逸らして言えば、相手は仕方ないなという感じで肩を竦めるような仕草をした。それから手を伸ばし、黒江の頭を軽く叩いてきたので黒江は面映ゆさに頬を緩め、苦笑する。

(うーん。この人、よく頭を撫でてくるけど癖なのかな? あ、それか髪がはねてるとか?)

 そう考え、寝起きで乱れているであろう髪を手櫛で整えていれば、小太郎の長い指がそれに重なるように動いて髪を梳き始める。

 

「あはは。こんなことまで手伝ってくれなくてもいいですよ」

「(……)」

 しかし手は止まらない。

 むしろ、黒江の細い髪が指の間を滑る感触を楽しんでいるかのような? 

 

「いや本当に。……大丈夫ですよ?」

「(……)」

 そこで残念そうな溜息を吐かれた──のは、気のせいだろうか。

 

 小太郎は髪をひと掬いしてから手を離し、何かを食べるような仕草をしてから立ち上がった。

 その動作を雰囲気で読み取った黒江は、少し間を置いてから訊ねる。

「あ。朝食のことで呼びに来てくれたんですか?」

「(……)」こくり、と小太郎が頷いた。正解だったようだ。

「ありがとうございます。じゃあ、すぐに着替えますね」

 布団から抜け出して、よいしょと畳み始めれば不意にその手を掴まれた。

「ど、どうしました?」

「(……)」

 ちょいちょい、と片手で脇へ避けるよう示されたのでその通りにすれば、小太郎がさっさと布団を畳んで持ち上げ、押し入れ──いや、納戸にしまってくれた。

 重力を全く感じさせない、流れるような挙動。

 時間にして、数秒のことだった。

 

「はやっ。忍式布団昇降法!?」

 

「(……?)」

 

「あ、いえ、独り言です……!」

 あまりの早業に思わず小声で呟いたものがまさか聞きつけられるとは思わず、振り向いた小太郎に首を傾げられて、黒江は慌てて首を振る。

 そういえば、風魔小太郎は忍者──それも『伝説の忍』なのだった。

 この分だと視力は言わずもがな、聴力もいいのだろう。下手なことを言わないよう気をつけよう、と思いながら黒江は壁に掛けていた着替えを手に取り、小太郎に言う。

 

「布団を片付けてくれて、ありがとうございました。それで……あの、至極言いにくいんですが」

「(……?)」

「一人にしてもらえませんか? その、人目があると着替え辛いので」

「(……)」小太郎は不思議そうに首を傾げていたが、少しして頷くと目の前からシュッと姿を消した。

 

「……。くっそ何だあの人。本当にいちいちがカッコイイな……!」

 黒江は呟き、相手の気配が外に移動したのを確認してから着替え始めた。

 

 

 ※

 

 

「あれも忍術だったりするのかなー。だとしたら凄すぎるんだけど」

 服を脱ぎながら、感想を零す。

「一瞬で消えるわ、人ひとり余裕で抱え持つわ、何だアレ。やばい、忍者やばい。格好良すぎて興奮する……!」

 己の発言が変態めいているが、一人なので全く気にしていなかった。

「(……)」

 戸口を隔てた外に移動した小太郎が聞いていることに気づくわけも無く、袖に腕を通しながら興奮気味に独り言を呟き続ける。

 

「しかし、ふうまさんが風魔小太郎だったとはなー……レアだ」

 握手した側の手に視線を落とし、にぎにぎと動かすだけで口元に自然と笑みが浮かぶ。

 なにせ、資料の少ない相州乱波の風魔衆。しかも、その頭領サマときたもんだ。

『眼光は炯々としており、牙四ツ、身の丈七尺二寸の異形の者である』──という感じの記述が一番有名だったか。

 

「牙がどうとか、七尺とか、まあその辺りは誇張表現としても……背はかなり高いよな」

 一尺が確か約三十センチだから、六尺の百八十……いや、百九十はあるのだろうか。

 黒江は着物の前を合わせて帯を締め、持ち上げた片手を自分の頭上にかざしてみる。

 

「確か、この鴨居よりもうちょっとあった感じで──」

 そう言いながら襖の方へ近づいて軽く爪先立ちになり、鴨居がある高さに手を伸ばした時だった。

 

「(……)」

「──わっ!?」

 音もなく襖が開き、目の前に現れたのは燃えるような、けれどどこか淡く儚い銀朱の髪。黒江がなかなか出てこないので、確認しに来たのだろう。

(わ……近くで見ると、本当に綺麗な色だな。灰桜が混じったような、この時代にはありえないほど幻想的な……)

 しかし見惚れる余裕も、距離の近さに気づくと一瞬で吹き飛んだ。

「うわっ、近っ、わっ、わわ……っ!」

 つま先立ちという不安定な体勢でいた黒江は、その距離の近さに慌てて後ろへ下がろうとしたが、動揺しすぎて足をもつれさせてしまう。

 

「わあっ──」

「(……)」

 

 大きく後ろへ倒れかけたその体は、しかし逞しい腕が腰に巻き付き、強い力で前に引き寄せられたので畳にぶつかることはなかった。

「……」

「(……)」

 抱き寄せられたのは、大柄な忍の腕の中。

 黒江は暫くの間、面の奥で目を瞬かせて沈黙していたが、やがて落ち着いたのか小太郎に焦点を合わせて口を開いた。

「あ、ありがとう、ございます」

「(……)」

 こくりと頷く小太郎。

 黒江は溜め息に似た息を零しながら、体勢を立て直す。

「はあ……びっくりした。──あ、すっかりお待たせしてしまって、すみません」

「(……)」

 小太郎が首を振り、肩越しに鴨居を一瞥した。

 それから黒江に視線を戻し、「何をしていた?」というように首を傾げる。

「あ、いや、ちょっとした確認……みたいな?」

「(……?)」

「小太郎さんの背が高いので、どれくらいかなー、って。……失礼」

 答えながら片手を上げ、鴨居の上にある長押に平行になるように手の平を傾けた。

「あ、やっぱり高い」

 案の定、小太郎の頭は鴨居よりも上にあった。この分だと百八十以上……百九十はありそうだ。

 だとすると、この風魔小太郎は五代目の人物だろうか? 

 

(そうだとしたら、この人ってレアどころか……プレミア忍者だ! うわあ、もうどうしたら良いのかわからない!)

 興奮のあまり、掴んでいる小太郎の二の腕に無意識に力がこもる。

 鍛え抜かれた鋼のような感触。そのあまりの「実在感」に、黒江の心拍数はさらに跳ね上がった。

(体が! 綺麗! 美丈夫だ! 無駄のない肉体美の忍者とかなにそれ素敵!)

「(……?)」

 不意に、黒江が小太郎を凝視したまま静かになったので、小太郎は訝しげな顔になる。

 

「(……この男は、一度考え込むとそのまま没頭してしまう癖があるのか?)」

 

 忍に興味を抱き、あまつさえどこか感動した様子で接してくる妙な男。

 実は何処かの間者ではないのかと疑ったこともあったが、それはすぐに打ち消された。

 こうして支える体は軽く、足元は相変わらず頼りない。

 忍を前にして、あろうことか首筋を晒し、体温を預けるという無防備な姿を曝け出しているからだ。今、この時でさえも。

 

「(……自衛という概念がないのか、それとも何かの手管か)」

 もしこれが自分を油断させるための罠だとしたら、あまりに命知らずなやり口だ。

 だがその眼差し、浮かべる表情からどうにも目が離せない。今も無邪気に、己の腕を掴んで支えにしている。

 

「(……手練れの忍──であれば、まだ良かったのだがな)」

 一里歩いた程度で疲れて足を引きずる男なのだ、これは。何度その体を背負って運んだことか。

 

 小太郎は、呆けている黒江の肩を叩いて我に返らせると、部屋の外を指差し、次に、手の先をちょいちょいと動かした。

 黒江が考え込むようにそれを見つめ、首を傾げる。

 

「ん……ついて来い、って言ってます?」

 小太郎が「そうだ」というように頷く。

「わかりました」

 小太郎が歩き出したその後から、黒江もついていく。

 広い背中。無駄な脂肪のない均整の取れた体は、豹のようにしなやかだった。

(……かっこいいなあ……普通に歩いてるのに、無駄な揺れが一切ない。というか足音が聞こえないのが凄い。どうやってるんだろう)

 そんな感想を抱きながら、黒江は暢気に歩いていく。

 自分が今、「北条の牙城」の最奥で、最も危険で最も忠実な「影」に付き添われているという事実の重さを、彼はまだ本当の意味では理解していなかった。

 

 その事実を知るのは、もう少し先のことになる。

 

「あ、わわ、早い……っていうか、歩幅が広い!」

 慌てて後を追う黒江の背を、朝の小田原の柔らかな陽光が照らしていた。

 

 

 ※

 

 

 当然ながらまだ内部の構造が分かっていないので、半歩後ろを歩いていたところ、振り返った小太郎に腕を掴まれた。

 

「えっ!?」

 黒江は驚いて足を止めようとするも、そのままぐいと腕を引かれて横並びにさせられる。それは少し強めの力で、黒江は戸惑いながら相手を見上げた。

 

「え、あの、……?」

「(……)」

 目で相手の意図を問うも、小太郎は常に無言で言葉が返ってきた試しは無い。

 これはもしや、『背後に立つな』と言いたいのだろうか? 

(あー、そうか。小太郎さん、忍者だもんな。身分不詳な人間に背中を晒したくはないよな)

 そう考えた黒江は極力小太郎の隣に並ぶよう、歩調を合わせる──合わせるようにしていたのだが……。

 

(足が! 速い!)

 

 小太郎が悠々と歩く一方、黒江は小走りでないと追いつけない。

 足の長さも関係しているのだろうが、とにかく、ただ歩いている風にしか見えない相手の速度は競歩かと思うくらいに早かった。

 じわじわと距離が空き始める。

「こっ、小太郎さん……っ、すみませんが、速度落としてくれると助かります……っ!」

「(……?)」

 まだ靴擦れが治っていないので、早足はキツイ。なので、跳ねるように足を引き摺りながら追いついて懇願すれば、小太郎が足を止めて振り向いた。

「(……)」小首を傾げ、黒江を見つめる。その視線を上から下まで移動させると、何かに気づいたらしく、こくりと頷くのが見えた。

「小太郎さん?」

 その首肯を見て、どうしたのかと訊ねようとした黒江は、そのまま腕を引かれて──。

 

「わっ!」

「(……)」

 ひょいと抱き上げられた。

 しかも片腕の縦抱き。小さな子供にするような抱き方だ。小太郎が歩き出しても、その腕の中は揺れひとつなく、まるで静止した空間に固定されているかのような錯覚を覚える。

「え、いやっ、ゆっくり歩く分には大丈夫なんですけど!?」

「(……)」

 小太郎の肩に手をついて下ろしてくれるよう頼んでみるも、相手はどう受け止めたのか黒江の背を軽く叩いて歩き始める。下ろしてくれる様子は、やっぱりない。

「あの、小太郎さん、私なら大丈夫ですから。自分で歩けますから、その……」

「(……)」

 自分の方から下りる素振りを見せるも、小太郎に軽く抱き直されて背中を優しく叩かれる。むずがる子供をあやすような手つきなのは、何故だろう。

 黒江は地面に足を着けるのを諦め、溜息を吐く。

「過保護すぎやしませんか」

「(……)」忍は無言で廊下を歩く。

「忍者がそう簡単に他人を懐に引き入れるのは、どうかと思うなー……」

「(……)」

 彼の忍からは反応が返ってこない。

 黒江は音のない溜息を吐くと小太郎の肩に片腕を乗せて凭れかかる。そして、あらぬ方を向いて独り言を零した。

 

「あれか。小屋に居た時に雑草粥みたいなの食べてたせいで、不憫な子扱いされてるのかもしかして」

「(……)」

 それもあるな、と小太郎が心の中で相槌を打つ。

「でもなあ……あの時は師匠が居なくなった時だったから何もする気が無かったし……それに、足の靴擦れだって草履なのが悪いんだし。私が弱いわけじゃない……と、思いたい」

「(いいや。弱い)」

 小太郎は内心で言い返しながら、黒江が零す情報を聞き続ける。

「……ん? あ。こうして見下ろすと、この人って頭? っていうか顔? が小さいな。もしかして、モデル頭身か」

 抱き上げられているせいで、小太郎の頭頂部が自分の顎の下あたりにある。普段は見上げるしかなかった「伝説の忍」を見下ろす形となった黒江は、ますます興奮してしまう。

「(……もでるとうしん?)」

 聞き慣れない言葉だが、南蛮語の類だろうか? 

 小太郎は内心で首を捻る。

「ダメだ、どこまでもスタイリッシュだ……どんな角度でもカッコいいとか、なんだよもう!」

「(……すたいりっしゅ? 南蛮の兵法、か? いや、違うな)」

 聞き覚えはないが、声の感じからして賛辞らしいのが窺い知れた。

 囁き声に近いそれは、独り言でいるつもりなのだろう。確かに声は潜められていて微かな吐息のようにしか聞こえないが、この距離と忍の聴力も相まって、良く聞こえて仕方がない。

 幾つか気に掛かる箇所があるものの、聞いていて面白いので尋問して邪魔をする気になどならない。

 忍に寄りかかり、くすくす笑うこどものような男。

 人里から離れた山奥に、一人で居た──別にもう一人いたようだが──素性の分からぬ謎めいた男。浮世離れめいた雰囲気を纏い、妙に無防備な所があるせいでつい気に掛けてしまう。

 

「(……)」

 小太郎は己の口元につい浮かびかかる苦笑を噛み殺し、何の脅威にもなりそうもないのに見当違いの心配をしてくれている男の背を軽く叩きつつ、長い廊下を進んで行った。

 

 

 ※

 

 

「お、おぉー……」

 案内された大広間の入口前。そこでやっと下ろされた黒江は、小さく動揺の声を零す。

 てっきり、氏政と二人だけで食事を摂るものだとばかり思っていたので、ずらりと配膳された席とそこに腰を下ろしている数人の男たちを見て怯んだ。面を通して視える気配が彼らが只の家臣ではないことを教えてくれていて、泣きたくなる。

 

(重臣クラスばっかりに見えるのは気のせいじゃないよね!?)

 左右に五人ずつ、計十人が、揃って入口に立つ黒江を見つめている。

 見定めようとしているのだろう。なにせ黒江は、現時点では面で顔を隠した怪しい曲者でしかないのだから

(不審がられるのは仕方ないんだけど……は、入りたくないなあ……!)

 頭痛がするというように両こめかみを押さえながら思わず後退れば、とん、と後頭部が誰かの胸元にぶつかった。

 あー、と黒江は声無く呟く。自分の背後に小太郎が居ることを思い出したのだ。

 そろりと肩越しに相手を見上げれば、寡黙な忍と目が合う。その相貌は兜で隠れているので見えないが、目が合った気がした。

「……これ、部屋に戻っちゃ駄目ですかね?」

 ひそ、っと小声で訊ねてみる。

「(……)」

 当然と言おうか、ふるふると首を横に振られた。

 言葉が無くとも雰囲気で分かる──「駄目に決まっているだろう」と。

 

「黒江、何をしておるんじゃ。早う入って来んか」

 その場から動こうとしない黒江に声を掛けてきたのは、広間の奥、上座に鎮座したこの城の城主。

 重苦しい空気が漂っているのに気づかないのか、にこにこと笑って手招いている。

 黒江が視る氏政の気配だけは温かい色をしていて、そこにはちょっと涙ぐみそうになった。

「(……)」

 その時、小太郎が黒江の背中を軽く叩いた。

 中へ入ろう、と促したのだ。

「すみません、入ります。…………はあ」

 黒江は重い溜息を吐くと、観念して部屋の中へ足を踏み入れた。

 

 

 ※

 

 

(北条家の有名な家臣って、誰が居たっけなー)

 時代小説は幾つか読んでいたが、忍者ばかりに夢中になっていたので思い出すのにかなり時間が掛かる。

(初めに出会ったのが風魔小太郎だったのも大きいよなあ)

 隣で正座している大柄の忍を、そっと一瞥するが──「(……?)」──さり気なく見たつもりだったが、気取られて視線を合わされてしまい、慌てて目を逸らす羽目になった。

(流石、風魔最強の忍者! 迂闊に観察できないな!)

 などと色々考えながら、黙々と食事を口に運んでいた時だった。

 

「聞きたいことがあるのだが、いいか。面の男」

「…………え?」

 面の男、と言われて反応が遅れた。言われてみれば、その通りだ。

「私、ですよね?」

 黒江が箸を止めて顔を上げれば、右列上座から三番目の男が話しかけてきた。

「そうだ。お前だ、面の男。……名は何といったか」

「え、あ──」氏政から聞いていないのだろうか? と思ったが、黒江は素直に答えた。

 

「眞条黒江です」

 

 その名を聞いた瞬間、左右に並ぶ家臣たちの間に、さざ波のような微かな緊張が走った。

 

(……ほう、苗字持ちか。しんじょう、眞条……どこの端くれだ?)

(不審者と抜かしながら、堂々と家名を名乗るとは。あるいは、没落した武家の生き残りか)

 

 黒江本人は緊張の極致にあり、現代的な感覚でフルネームを答えたに過ぎない。自分の名乗りがこの時代の「身分証明」に近い重みを持つことなど、今の彼の頭からはすっかり抜け落ちていた。ただ話しかけてきた相手を見つめ、言葉を繋ぐ。

「ええと、それで……そちらは?」

「成田長泰だ」

「成田サマ」覚えがあるような名前である気がしないでもない──が、今は思い出せない。

 黒江は眉間に皺を寄せて考えながら、話を続けた。

「聞きたいこととは、何でしょう」

 

「眞条黒江──お前は一体、何者だ」

 

「こ、こりゃ長泰!」

 

 微かに敵意を込めた声音で質問を投げた家臣に、氏政が制止しようとするが──。

 

「私なら構いませんから、爺さ……、氏政様」

 苦笑を浮かべて気遣いを受け取りつつ、黒江は答える。

 

「私は、あー……しがない一般人です」

 さて、どういったものかと思案しつつ、首を傾げて考えながら言葉を続けた。

「職業を聞いているなら、ええと、一応は面打ち師……見習い、ですけど」

 なにせ師匠だった男が何も言わずに出て行ってしまったので、公然と名乗っていいものか分からない。なので、謙遜を込めて『見習い』という単語を補足につけてみた。

 それが相手にどう伝わったのか。

 成田の顔から険が取れ、代わりに訝しげな色が混ざる。

(……面打ち師の見習いだと? 腕に覚えのある間者かと思えば、なんだこのいい加減な物言いをする男は)

 眉間に皺を寄せて、成田が問う。

「何故そう曖昧なんだ」

「合否判定もなく、突然に師匠が失踪してしまいましたので。勝手に名乗っていいものか分からぬ故、仮定形にしております」

「(……)」

 珍しくまともに話している黒江を見て、今度は小太郎が鉄兜の庇の影で目を細めて何とも言い難い顔つきになる。

「普段の落ち着きのなさはどこへ行った」とでも言いたげな、呆れを含んだ静かな漆黒の気配。黒江は面の効力でそれを感じとり、僅かに身じろぎしつつ、成田との会話を続ける。

 

「合否……かていけい? ……お前は、そうやって氏政様の同情を引き、取り入ったのか」

「はあ。これが創作だったら良かったというのは私が一番実感している次第ですが」

 小鉢に盛られた煮物を一つ摘まんで咀嚼し、それを飲み込んでから言葉を継ぐ。

「それに、私はお止めしたんですけどね。こんな不審者を簡単に引き入れちゃ駄目でしょう、と。……どうもその時に食べていたものが原因らしいんですけど」

「何を食べていたんだ?」

「ちょっとした春の雑草粥を」

「……雑草? お前は雑草が主食なのか?」

「ああ、そこは言葉の綾でして。本当に雑草を食べていたというわけではないですよ? 食べられる種類は、師匠──に当たる人に教えてもらっていたので」

「……集めたものを言ってみろ」

「え……ええと……イタドリとか、オオバコとか……ウドは調理が面倒だったから諦めたし、オオバとゴマの葉は駄目にしちゃったから、あとは……ツユクサも入れてみたり?」

「他になかったのか! もっとまともな野草があるだろう!」

「う、いや、その」

「旬のワラビやゼンマイはどうした! アク抜きが面倒だからと逃げたのではないか!? 北条の地に住まう者が、そのような貧相な食い物で命を繋ぐなど、我ら家臣の面目に関わる!」

 

「(……)」

 

 隣で聞いていた小太郎が、微かに、本当に微かに肩を揺らしたのを黒江は見逃さなかった。

 小太郎は、小屋にいた黒江の食事を知っている。そこまでおかしな食事だったつもりではないのだが。

 心持ち体を小さくしながら、それでも黒江はぼそぼそと言い訳をする。

 

「家臣じゃないです……毒草と見分けがつかないのと、高いところにあって採取できそうになかったのもあって……そういうのは諦めまして」

「男がそう簡単に諦めるな! 大体、そんな食事で体が持つと思うのか!」

「いやあ。人間、水さえあれば結構長く生きられるもんですよ。あと、砂糖と塩があったらもう少し長く──」

「なっ……砂糖だと!? お前、どれだけ贅沢な雑草生活を送るつもりだ!」

「えっ。あ、いや、あの」

 この時代において、砂糖がどれほどの希少品であるか──そんな知識は、今の黒江の頭からは完全に抜け落ちていた。

 成田が畳をバシンと叩いて叫ぶ。

 

「ともかく! 偏った贅を改めろ! 食事はまともに摂れ!」

「あっ、はい、……すみません?」

 

 いつの間にか説教になっているのはどういうことだろう、と思いながら黒江が反射的に謝れば、相手が両腕を組んで鼻を鳴らす。

「全く。若いくせに無気力なのはいかんぞ、眞条。生活態度を改めろ」

「はい……気をつけます……?」

 敵意はどこへやら。

 成田の剣幕はもはや「不審者への追及」ではなく「不摂生な若者への小言」へと変貌していた。

 成田の気配が、鋭い赤から、煮え切らない土色……いや、お節介な茶色に変わっていくのが視えて、黒江は毒気を抜かれる。

 

 謝りながら不思議そうに首を傾げる黒江と、もはや説教をしているだけの成田。

 なりゆきを見守っていた氏政とほかの家臣の男たちが、肩を震わせて忍び笑っていた。

 

 





**

多分、山奥生活は無理だったと思うので、やはり回収されて良かったねとしか。
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