忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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02 小田原の日々1-3

 

 

 ──綺麗な桜色の中に泥のような染みがある。

 

 黒江は成田とのやり取りで見せていた陽気さを潜め、面の奥でただ一つ異なるその『点』を強く凝視する。

 

(……やっぱり、あの色だ。薄汚れ、粘りつくような──)

 底意地の悪い灰紫──嘲笑の色。

 かつて、端麗な女に投げつけられた嘲りが脳裏を掠める──表面上は穏やかに、家臣として勤めを果たしているように見える伊東。だが黒江の仮面越しには、彼が放つ毒のような気配が、小田原の清廉な空気を侵食していくのが視えていた。

 

(……こういう人は、一度目をつけたら飽きるまで突っついてくるんだ。……嫌だな。ここの人たちは、みんな温かい色をしてるのに)

 小田原は良い場所だ。

 ここはきっと──居場所になる。この世界での。

 けれど、一人でも自分を良く思わない者がいるのなら居着くべきではない。そこの平穏を乱したくなければ。黒江は所詮、部外者。余所者なのだから。

 到着してまだ一日しか過ごしていないが、黒江はもう氏政や小太郎の優しさが好きになっていた。

 小田原を、嫌いになどなりたくない。

 けれどもし妙な火の粉が降りかかるなら──。

 

 

 ──消えてしまおう。この場所の美を、醜悪な自分が壊してしまう前に。

 ──消えるのは簡単だ。この世界は、貧弱な現代人などあっという間に喰らってくれる。

 

 

「(……?)」

 

 小太郎は、浮かれていた黒江の気配が急激に変わるのを感じた。

 どうしたのだろうと思い、その横顔に視線を走らせて──驚く。

 出会い、共に旅をしてまだ片手ほどの日数しか経っていないが、黒江は何か考えごとに集中すると、それに没頭してしまい周囲に気が回らなくなる。

 

 いや、周囲を見なくなる、といえばいいのか。

 隠した顔。仮面越しに覗く遠い眼差しは、現に今この場にあるものを何も見ていない。

 それは戦場で骸が晒す、虚無に等しい眼差しにどこか似ていた。執着も望みも持たない空っぽの瞳。

 

 小太郎は、抱き上げた相手の手が置かれている己の肩を一瞥する。

 普通に話し、笑いかけてくれる男は何処で得た知識なのか、妙に忍に関しての情報を多く持つ。

 忍に躊躇いも無く近づき、触れてくる人はまるで子供のようで、見ていて飽きないくらいによくよく仮面で隠した顔の表情を変える。

 

 けれどいま、虚ろに近い瞳で何かを見ている男の顔からは読み取れる感情はなく、北条の重臣と軽口めいたやりとりをしていた雰囲気は無くなっていた。

 さっきまで自分の腕の中で、重いとか下ろせとか騒いでいた「生」の温もりが、一瞬にして凍りついている。

 

(……どこへ行こうとしている)

 このままだと、この男が音もなくこの世から「消滅」してしまうのではないかという気がした。

 小太郎の胸を、言葉にできない焦燥がよぎる。

 

 何故だろう。

 この男を、此岸に繋ぎ止めておかなければならない気がした。

 

「(……)」

「──ん?」

 肩に置かれた手を軽く叩けば、そこで黒江が視線を動かした。

 訝しげな顔をしてそれを見下ろし、それから自分を見上げている小太郎を見て──ハッとしたような顔をする。

 

「あ、ごめん。意識飛んでた」

「(……)」

 言葉遣いが崩れている。小太郎はわずかに目元を和らげると、首を振って黒江の手をもう一度叩いた。──「大丈夫だ」というように。

 すると黒江が苦笑を浮かべ、どこか安堵に似た溜め息を零した。

「もしかして、何回か呼んでた? ごめんな、ちょっと茫とする癖があって」

「(……)」

 首を振り、もう一度黒江の為だけに微笑を返してやれば、相手が驚いた顔をして、さっと目を逸らした。

 片手を口元に当てて、小さく呟く。

 

「イケメンの微笑の威力が半端ない……!」

 小太郎もまた、黒江のように鉄兜のせいで表情が隠れて見えない人間だ。しかし持ち上がる口元の形や眉庇の隙間から覗く目の優しさ、止めに──ふわりと広がる漆黒の羽の気配が、黒江の視覚を鮮明に直撃した。

 雛を守るために羽を広げた親鳥のような幻視を、黒江は視る。

 

(隠れてるのに、隠れてない……! カッコよさが! 丸見え……!)

 不意に視線を逸らした黒江の耳が、うっすらと朱に染まっていた。何をそう照れることがあるのか。

「(……いけめん? 変わり面の一種か?)」

 小太郎は内心で首を捻る。

 黒江が口にする言葉は時々分からないものがあるが、その声音で感情が読み取れるので面白い。

「(……ああ。先程の妙な雰囲気を纏われるよりは、まだこうして笑ってくれるほうがいい)」

 それと小太郎は一つ、学習した。

 どうやら黒江はこの風魔小太郎の顔が笑むのに弱いらしい。

 

 ならば鉄兜を外して見せればどうなるのか。此岸に繋ぎ止める楔となるなら、幾らでも穿ってやろう。ああ、それこそ何度でも。

 

 いつか試してみようと考えながら、小太郎は黒江の背を軽く撫でつつ──今度は、その指先に少しだけ自覚的な愛着を込めて──上座の氏政へと視線を投げる。一先ず険悪じみた場の空気が去ったので、後の執り成しを頼んだのだ。

 それを汲み取った氏政は座り直すと、顎に手を当てて髭を撫でながら口を開いた。

 

「皆、黒江を質問攻めにして飢え死にさせるつもりかの? そら、今は食事の時間ぢゃぞ」

 そう言って手をパンと叩けば、それぞれが苦笑いを浮かべて頭や頬を掻いて箸をとり、食事を再開させる。

 渦巻いていた嫌な気配が消えていくのを、黒江は見る。しばらく茫としていたが、やがて自分もそうしようと考えて──動きを止め、小太郎の方を向いて告げるのは当たり前の質問。

 

「……ところで、私はいつになったら下ろしてもらえるんですかね、小太郎さん」

「(……)」

 口調は、また距離を置いたものになっていた。

 小太郎は、やれやれといったふうに溜め息を吐くと、未練がましく黒江の衣装の乱れを直してから畳の上に下ろした。

「親切! いや、その乱れは小太郎さんのせいですからね。わー床の感触が懐かしー」

 などと冗談を零しつつ床に足を着けた黒江は、自分も膳の前に座り直そうとした。

 その際、ふと小太郎を見上げて尋ねた。

 

「……なんか、機嫌悪いです?」

「(……)」

 小太郎は首を振るが、黒江は仮面越しにじっと見つめて小さな声で問う。

「でも私が成田サマと話している途中から、機嫌が悪いような感じになってましたよ?」

「(……)」

 やはり、この男は普通ではない──と小太郎は思う。

 どうにも気配の変化に敏すぎる。その代わり、妙なところで茫としていたりして危なっかしいのだが。

 小太郎は答える代わりに黒江の頭を一つ撫でると、冷めた茶を淹れ直すべく、音もなくその場からスッと掻き消えた。

 

「……どさくさに紛れて子ども扱いされた気がする」

 その場に取り残された黒江は、撫でられた箇所に手を当てて何とも言い難い顔をしていたが、上座に居た氏政が即座に声を掛ける。

 

「そら、考え込んでんと、飯を食わんかい黒江。お主はしっかり食べて大きくならんといかんのぢゃからな」

 その声は、かつて山奥の小屋で孤独を噛みしめていた黒江に向けてくれた、陽だまりのように暖かいものだった。

 小田原城主。優しい『爺様』。

 

「これ以上は大きくなりませんよ。横ならともかく」

 そう苦笑を返し、黒江はようやく膳に手を付ける。

 子ども扱いに対する反論はすっかり忘れてしまっていた。

 

 

 ※ ※ ※

 

 

 食事を終えた後、広間には氏政と、控えの小太郎、そして黒江だけが残った。

 氏政は、黒江が未だに仮面を指先でなぞり、周囲を警戒していることに気づいている。

 いまだ重臣たちの視線の余韻に緊張している黒江の前に、小太郎が音もなく茶と茶菓子を置いた。

 その淀みのない所作は、伝説の忍というよりは、主君に仕える有能な側近のそれであった。

「(……)」

 茶を飲んで落ち着け、とでも言うように小太郎がわずかに顎を引き、黒江の肩をポンポンと叩いた。

 添えられているのは、小田原の梅を思わせる愛らしい細工菓子。

「あ、ありがとうございます、小太郎さん……」

 予期せぬもてなしに、黒江の強張っていた肩の力が、ふっと抜けていく。

 湯呑に口を付けて一口飲んだ辺りで黒江が落ち着いたようなので、氏政が穏やかな声で切り出した。

 

「さて、黒江。お主の今後についてぢゃが……」

 氏政は茶を啜り、あえて黒江の仮面には視線を向けなかった。

 食事の席で面の話が出た時、黒江の気配が怯える小動物のように細かく震えたのを、この老主君は見逃さなかったのだ。

 ただ陽だまりのような笑みを深めて、言葉を続ける。

「案ずるな。この小田原は、去る者は追わず、来る者は拒まぬ。……お主のような『迷い子』には、特に甘い場所ぢゃからな」

 黒江が伏せていた目を上げる。

 不安そうな眼差し。涙を堪えているのが、僅かに震えている肩から見て取れる。

 氏政は微笑み、払拭させる一手を放った。

 

「お主、面打ちの見習いと言っておったな。ならば、その腕をこの小田原で振るってみんか」

「え……、わ、私が、ですか?」

「そうぢゃ。職人としてならば、顔を隠していても何ら不思議ではない。……『北条お抱えの謎の面師』──ほれ、なかなか格好が良いではないか」

 氏政の茶目っ気のある言い回しに、暗かった黒江の表情に僅かな生気が差す。

 追い出すための尋問ではなく、居場所を作るための「役割」を与えようとしているのだと気づいたからだ。

 

「売りものになるようなものを作れる自信はないんですが」

 黒江は、かつて師匠が打った『般若』の面を思い出す。

 師匠の彫り跡には、鬼の情念が宿っていた。木肌から溢れ出すのは、戦国の世を象徴するかのような、血腥くも厳かな威圧感があった。

 対して、黒江が削り出す形は、どうにもこの日ノ本の情景に馴染まないものであった。

 

(……私が彫ると、どうしても『舞踏会』のあれになっちゃうんだよなあ)

 

 記憶の片隅にあるのは、華麗でどこか退廃的な仮面舞踏会。

 マスカレイドマスク。目元だけを覆うその形は奇しくも今、黒江が着けているものと同じだった。

 流麗な曲線と豪華な模様を施したそれは『能面』の持つ静かな深みとは対極にある、派手で作為的な「装飾品」だ。

 

(というか、こんな和の国で目元だけを覆うマスカレイドマスクって……)

 装飾をシンプルにしても、需要がなくて売れない気がする。

 しかしながら、手元に和面を置き、それを参考にして彫ればどうにかなる……気がしないでもない。

 

(……よく考えると、これは師匠が私に教えてくれた方法だ)

 我流で迷走し、異国の形に逃げようとする黒江の手を、師匠の教えが強引に引き戻す。

 

 ──理に逆らうから、迷って死ぬのだ

 ──己で作れないなら、まずは在る物の形をなぞれ。

 

「…………面を」

「うむ?」

 黒江が顔を上げて、真っすぐに氏政を見る。

 そこには、小太郎が見た「死人めいた虚無」は微塵もなかった。

 

「面を幾つか、用立ててくれませんか。基礎が手元にあれば、なんとかなるかもしれないので」

 その瞳は、先程までの怯えや戸惑いが嘘のように、流水のごとき澄んだ光を湛えていた。

 

 氏政はその変化に、喉の奥で小さく驚きの声を漏らす。

 面の奥に潜むその眼光は、もはや施しを待つ迷子のものではなく、道を、志を見つけた若者のそれであった。

 

「……良かろう!」

 氏政は膝を叩き、快活に笑った。

「北条の宝物庫には、数代に渡って集められた名面が眠っておる。古びた『翁』もあれば、『具足面』もある。お主の糧となるなら、何十、何百と並べてみせようぞい!」

「え、あの、いや……いやあの、三つか四つくらいで間に合います、充分です、そんな要らない……!」

 せっかく研ぎ澄まされた流水のような覇気が、氏政の怒涛の勢いに押されて、またたく間に、ちんまりとした水溜まりに戻ってしまった。

 

(後世の国宝とか怖すぎる! 無理無理無理、削れる! 木じゃなくて私の精神が削れちゃう!)

 しかし見たい。国宝にこの手で触れ、間近で見られる機会など早々ないのだ。

(あああでも壊しちゃったら怖いしなぁ……! でも、いや、うわあああ)

「(……)」

 ころころと表情を変えて懊悩しているその姿を、静かに観察して楽しんでいる忍がいることに黒江はさて気づいているのか。

 

 必死に両手を振って涙目で固辞する姿を見て、氏政と小太郎は温かく微笑みあう。

 

 ──これでいい。

 

 面で顔を隠した不思議な男の、ちんまりと丸まった情けなくも愛しい姿に、北条主従は揃って優しい色の眼差しを向けたのだった。

 

 





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ひとまず衣食住が落ち着いたので安心?
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