「……はー……疲れたぁぁぁ」
敷かれた布団の上に、ぼすりと倒れ込む。
小太郎と氏政の精神的フォローでどうにか乗り切れたものの、それでも強い疲労感は否めない。
室内は恐ろしく暗い。
人工的な灯りがないので、黒江は腕を伸ばして少しだけ襖を開けた。
隙間から差し込む細い月明かり。夜の色に沈んでいる空は美しく、黒江の口から吐息が零れる。
(……ここって、戦国あたりかなあ)
『北条と風魔』の繋がりから時代を推測したが、そうなると黒江はますます自分の身の振り方を考える必要がある。
収入、職業、住居。どれもが簡単にはいかないものだ。──戦国時代ならなおさら。
(あああ! 職業安定所が! 欲しい!)
小田原城は良い場所だ。
けれど、いつまでも『お客様』ではいられない。
面打ちとして身を立てるか、さもなくば別の道を模索するか。考えなければいけない問題は幾らでもある。
醜い顔。弱い自分。本当にまともに生きていけるのかと不安になる。
──やはり、早いうちに消えたほうが……。
──いや、氏政や小太郎と約束したばかりだ。
桜色の温かい光を見せてくれた人たちの想いを、無駄にしたくはない。
(……ダメなことばかり考えちゃうな。うん、一人で考えるのは止めよう)
ここはいったん保留にして、後で氏政や小太郎にでも相談しよう。混沌の迷宮に迷い込む前に。黒江は思考を切り替える。
(あー……そうだ。こういう時こそ、あれだ)
思い出したのは、現代の道具。
黒江は枕元に手を伸ばすと、そこに置いた胴乱を開けた。
(一人になった今こそ、これの出番!)
それは誰にも言えない、胴乱の奥底に隠していた自分だけの聖域。
大切に持っていた『それ』に、黒江は指を掛けた。
携帯型音楽プレイヤー。何故かポケットに入っていた文明の利器。当初は「こんなもの何の役にも立たないだろう」と嘆いたものだが、意外とそうでもないことに気づいたのはこれの電池残量が減らず、無限になっていると判明してからだった。
山小屋の中で独りきりになった時からの、大事な戦友。
(再生し放題なのが助かるよな……精神的に)
有線イヤホンを耳に嵌めれば、周囲の音が消えた。
庭先の虫の声、遠くで哨戒する兵の足音、廊下の向こうの誰かの話し声から、黒江は隔絶される。
眠りながら聴くのはまずい。
翌朝、起こしに来た小太郎に見つかってしまう恐れがあるからだ。
(未来の工芸品だもんなあ……まあ、ライターとか銃とかじゃないから見つかっても安全ではあるんだけど……)
それでも、やはり隠しておいた方が無難だろうと考えて、黒江は旅の間ずっと胴乱の中に隠していたのだが、そういう時に限って音楽が聴きたいという欲が高まってしまうのだった。
そして今、ようやく訪れた一人の時間。
小太郎の気配は視えない。
良し。
(何を聴こうかなー……いや、何でもいいか……今は、何も考えたくない……)
せめて今夜だけは、綺麗な色を思ったまま眠りにつきたい。
未来のイヤホンを通して、黒江の耳に懐かしい音が流れ始める。
黒江はいつしか自分がいた世界を思い出しながら、小さく口ずさんでいた。
※
──綺麗な旋律が聞こえた。
小田原城の屋根の上。中天にかかる月が長身の影を夜空に滲ませる。銀朱の髪を揺らし、闇夜に目を光らせるその影は──風魔小太郎だった。
「(……)」
巡察に出ていた小太郎は、風の音の中に混じる異質な響きに足を止めた。
「(……どこかで祭りが? ……いや、何もない。音は城の外……いや、中からか)」
槍を携え、持ち場を守る番兵たちには聞こえていないようだ。彼らは己の役目を黙々と果たしているばかり。庭に汚水を捨てに来た下女も同じ。明かり取りの煤を拭いている下男もみな一様に目も足も止めず、己の仕事を済ませている。
「(……真言……祝詞……どれでもない、が……妙に気に掛かる)」
耳を澄ませ、気配を殺し、音を消して──風に乗って流れてくる旋律を、小太郎は闇夜を縫うようにして追いかけた。
※
辿り着いた先は、黒江の部屋だった。
薄く襖の開いたその部屋の中に、何かを手にして小さく唇を動かしている黒江が、仰向けに寝転んでいる姿が見えた。
「(あれは……三島の宿場町で見た……謎の板か)」
闇の中で浮き上がる蛍光に似た光点。けれど音はあの謎の板ではなく、音律を刻む黒江の喉から放たれているようだった。
ならば、これは黒江の声ということになるのだが。
「(……あの、俺の指を滑り込ませた口から)」
三島宿で強引に開かせ、その柔らかな粘膜まで暴いたはずの喉。
そこから今、女のように艶のある声が音を紡いでいる。
「(……あれは──何だ)」
とにかく好奇心旺盛で忍に懐き、そのくせ自己評価の低い、面で顔を隠した男。
線が細く、か弱い雛のような存在が今は不思議な声で歌い──。
「(…………心が、揺れる)」
息が詰まるような感覚が小太郎の身を縛り、震わせる。
魂を鷲掴みにされた気がした。
「(……美しい、が……不吉な調べだ……)」
鳥籠の鳥が、己の運命を紡ぐかのように歌っている。
万人には届かぬ不思議なそれが今、伝説の忍を縫い留めている。
たった一人の歌声のせいで、この魂は閉じ込められて。
「(……籠められたのは俺の方か)」
あれは雛であった。──雛である筈だった。
儚く透明な旋律は、けれど踏み込ませぬ絶対的な圧力があり、黒江の元へ飛び込もうとした小太郎の足を、魂を、その場に強く縫い留める。
つい先程までこの腕の中にいて、いくらでも触れることが叶った柔らかな雛だった。
それがよもや、この風魔小太郎を妖しい歌一つで制するとは。
視界の先で、無防備に腹を見せて歌っている雛がいる。
しかし、あれはもはや『雛』ではない。
己を醜いと思い込む、愚かで脆い──美しい異界の鳥。
気圧され、眺めることしか許されぬ漆黒の影──小太郎は、黒江が歌い終わるまでその場に留まり続ける。
「(……夜に溶けていく声だ……)」
絹糸のように滑らかな音が小太郎の耳朶を食み、通り抜けていく。牙持たぬ弱き雛が、その声で、小太郎の喉を、心臓を啄んでくるようだった。
今は優しい愛撫だが──いずれ鋭い刃になるのだろうか。
小太郎の四肢に自由が戻り、再び動けるようになったのは、月が傾き、中天をとうに過ぎてからであった。
※ ※ ※
「ん……う……あー……朝かぁ……」
重い瞼を持ち上げ、黒江は掠れた声で独りごちた。
寝床として与えられた部屋の布団の上で、ふわあと欠伸を一つ。
この世界の朝は早い。そして早朝の空気は、現代のそれよりもずっと鋭く冷えていた。澄んだ空気が鼻の奥を刺す。
「ひんやりするなあ……桜はまだだっけ……?」
もうすぐ桜が咲くから花見をしよう、と氏政や小太郎と約束したのだ。こうも寒いとまだ花見は遠いだろう。
灯りのない室内はやはり現代とは違い、かなり暗い。外の様子を窺おうと、黒江は布団の中でころりと襖の方へ寝返りを打った。
「あれ……襖、閉まってる?」
思わず小さな声が漏れる。
昨夜、一人で音楽に浸る前、明かり取りと換気の意味を兼ねて、指一本分ほど襖を開けておいたはずだった。隙間から差し込む月明かりを頼りに、夜の庭先を楽しんでいた記憶が確かにある。
んー? と黒江は首を傾げる。
(風で閉まった……わけじゃないよな。……小太郎さんか?)
黒江は知らない。
昨夜、その襖のわずかな隙間から、一人の忍がどれほど長く彼を凝視していたかを。
溢れ出す未知の旋律に魂を射抜かれ、動くことさえ許されなかった漆黒の影が、ようやく自由を取り戻した後に何をしたのかを。
小太郎はまず黒江の傍に立ち、片膝を着いて眠りに落ちている無防備な寝顔を見つめた。そして、そよ風が撫でるような愛撫をその髪に与えると、冷え込む夜気にその喉が痛まぬよう襖をぴたりと閉ざしたのだった。
そんな形跡には微塵も気づかぬまま、黒江はのろのろと起き上がって息を吐く。
「はー……健康的には良いんだけどなー……」
朝はともかく、夜も早寝になってしまうのが少々勿体ない気がしていたが、仕事(という名のお使い)があるので寝坊は出来ない。
電気などの人工物が無いこの時代。現代以上に恐ろしく夜が暗いので、蝋燭がないと黒江は物が見えないのだ。
視力は悪い方ではなく、どちらかというと普通なのだがまさかこの世界の夜がああも深く暗いとは。
「真っ暗闇に近いよなあ。……自然って偉大だ」
とりとめのないことを呟きながら身だしなみを整える。鏡台はあるものの、とにかく薄暗いので黒江は適当に髪を撫でつけつつ欠伸を一つ。
どこかその辺に燭台があるのだが、マッチやライターが無いこの時代。火を点ける方法は教えてもらっていたのだが、これがまたなかなか難しいので黒江はいつも薄闇のままで支度をしていた。
夜目が利く、という言葉をしみじみと噛みしめる。
「忍者なら問題なく見えるのかなー。いーなー、忍者ー……ふあ……」
「(……)」
「……オハヨウゴザイマス」
独り言を零しながら畳んだ布団を納戸にしまおうと持ち上げたところで、横から腕が伸びてきた。
それをさっと運んでくれたのは、すっかりお馴染みとなった忍だ。
風魔小太郎。
相変わらず物音ひとつなく出現してくれる。黒江には気配が視えるのであまり驚かずに済んでいるが、通常ならば酷く肝を冷やしているだろうなと思う。
(助かる能力だよなあ、これ)
面にそっと触れつつ小太郎に「有難うございます」と礼を述べれば、ぽんと頭を叩かれて撫でられる。
「これくらい気にするな」というつもりなのだろうか。
それにしても、この忍は本当に甲斐甲斐しい。言葉を発することはなく、その代わりによく人の頭を撫でてくる。
「癖なんですか?」
「(……?)」
ふと気になって質問を投げてみれば、相手が「何のことだ?」と首を傾げるので黒江は言葉を繋げる。
「私の自意識過剰でなければ、小太郎さんにはかなりの頻度で頭を撫でられてるような気がするんですけど」
「(……)」
「ああ、迷惑とか不愉快とかでなく、なんというか……忍者って、こう、警戒心が強い印象があるので、人の頭を撫でるのが癖だったら意外だなあ、と」
「(……)」
「あ。い、一応言っておきますけど、髪に暗器とか仕込んでたりしてませんからね?」
相手の無反応に少々焦りながら言葉を付け加えたところ、黒江は小太郎の口角が軽く持ち上がるのを見た。
「わっ笑わなくてもいいと思うんですけど!」
「(……)」
黒江が僅かに顔を赤くして抗議すれば、小太郎が苦笑したまま小さく頷き、やはり頭を撫でてくる。
それから何かを食べる仕草をし、首を横に振った。朝食はまだ出来ていない、と教えてくれているのだ。
「……う、ん。ああ、そうですね。時間的にまだ早すぎますもんね」
唐突に話の流れを変えられた黒江は肩を竦め、頭を撫でる件については保留にした。
「んー……じゃあ、また木片でも削って軽く暇を潰します」
「(……)」
そうか、と小太郎が頷き、懐から手拭を出して手渡してきた。顔を洗ってこいという合図だ。
黒江はそれを受け取り、小さく呟く。
「よし。今日こそは迷わずに辿り着いてみせるぞコンチクショウ」
「(……?)」
何のことだ? というように小太郎が首を傾げて顔を覗き込んできたので、黒江は慌てて首を振る。
「いえ、こっちの話です。顔を洗いに行ってきます……!」
相手が何かを言う前に背を向けると、逃げるように部屋を後にした。
※ ※ ※
黒江が出て行った後、小太郎は昨夜の歌について考えていた。
不思議な旋律。それを紡ぐ黒江の声。──この伝説の忍である風魔小太郎の動きを止めた、あれは一体?
「(……)」
先程撫でた髪の柔らかさを思い出す。
撫でられて苦笑する黒江の顔は、これまでに小太郎が見てきた柔らかで脆い雛鳥のままだった。
「(……)」
あの歌が。あの声が。
「(……また、聴きたい)」
小太郎はそんなことを考えながら、影の中に溶け込むように姿を消した。
***
ただの携帯音楽プレイヤーだけど、精神的に助けられてきた一品。