「ん……あ、しまった」
何も考えずに──何も考えたくないから──ひたすら面を彫っていたので、材料をすっかり消費してしまったことに気づいた。
辺りに散らばった木屑を眺めながら、息を吐く。
「やっぱり一人だと疎かになるな」
彫りかけの木面を置いて、よいしょと立ち上がる。
ふと視線を巡らせば、見えるのは水桶に漬かっている一人分の食器。底の尽きかけた米櫃。萎びた野菜。
囲炉裏は、火が絶えて久しい。自分では上手く点けられないから、白くなった灰がそのままになっている。
ひんやりとした空気が漂っているのは、山の中だからというわけでもないだろう。
一緒に暮らしていた師匠が行方不明になってから、一週間経つ。
独りきりには慣れつつあるけれど、それは現実逃避をしているだけだとそろそろ気づき始めていた。
「……ここの生活もお終いかなあ」
ここに来て一年。
終わりというものは呆気なく来るのだな、と黒江は思った。
※
異世界転生というものは、救いの手がないと生き延びるのが難しい。
それが分かったのは、散々に森の中を彷徨い、へとへとになってからだった。
人は水だけでは生き延びることが出来ないということも学んだ。一週間で。
寝床がないと全く休めないというのも思い知った。雨に降られて飛び込んだ汚い横穴の中で。
手の届く範囲に食べ物があれば良かったが、こちらもまた色々厳しかった。
食べられそうな木の実──アケビや梨のような何かを幾つか見つけたものの、位置が高すぎて手が届かなかったし、蔓を加工して作った投げ縄を投げたり、小石を投げつけたりしたが思うように実は落ちてくれず。
男になった以上、これは身体能力がとんでもないことになっているのではないかと期待したが──まあ、そんな甘いわけもなく。
履き慣れていない草履で足を痛め、体力も少ないままな現代人が簡単に野生生活に挑めるわけもなく……キッチリ詰んだ。
試行錯誤した結果、木の下でひっそり蹲って土に還ろうと覚悟を決めていたところをたまたま通りがかった男性──後に『師匠』となる人に拾われたのが始まり。
見た目は壮年……三十代くらいだろうか?
彼は「面打ち師」という珍しい職人でいて、手持ち無沙汰なこちらにも面を彫る技術を教えてくれた親切な人でもあった。
素性は──聞いてはこなかった。
「お前、名前は」
「え、あ、眞条です。眞条、黒江」
「そうか。じゃあ黒江、俺についてこい」
迎え入れられる際に交わした会話は、それだけ。
どうやら相手も何か『訳あり』なようだったが、気にしないことにした。(狂気殺人者だったりしたら大問題ではあったが、そちらも杞憂に終わってくれた)
ゆるゆるとした時間が過ぎていった。
面を上手く作れるようになり、売り物として金銭を得ることが出来るようになり、質素ながらも、のんびりと。
いつか骨を埋めるまではこんな生活が続いていくんだろうなあ──と。
──思っていた矢先に、師匠は姿を消した。
何も言わず、置手紙すらもなく。
後に残ったのは、顔の上部を隠せる綺麗な半面だけ。
それは初めて作成した自分の作品であり、師匠が一番よく褒めてくれたそれが最後の──置き土産となった。
※
「これからどうしよう……」
木屑を部屋の隅に追いやって、黒江はぼんやりと天井を見上げる。
もう木型が作れない。手持ち無沙汰なのを誤魔化せない。
「仕方ない。集めに行くか、な……っ」
一人呟いて、重い腰を上げるとくらりと眩暈がした。
最後に食事を摂ったのはいつだっただろう。面を彫っている間はそちらに集中してしまうから、記憶が曖昧だ。
それを注意してくれる人が居ないから……忘れて、いた。
「さすがに少しは食べないとまずいかな」
あまり空腹を感じなかったけれど、それでも体が動いて出掛ける用意をし始めたのは、きっと生存本能がそうさせるのだろう。
土間の隅に置いてある籠を肩に担ぐと、戸口へと向かう。
「鍵は──いいか。盗まれて困るものなんてないし」
出て行く間際、何気なく小屋の中を一望する。
金具はあるけれど、金目のものがない殺風景な室内。
そもそも黒江は、自分がいるこの場所がどこなのかまだ分かっていない。外国ではない、とは思うのだけれど。
いまだに野盗どころか旅人すら見かけていない、この山奥。
自然と動物に囲まれたこの場所は静かすぎて、「もしかしてここって桃源郷?」などと考えた事があるのを思い出す。そして、それを師匠に話してみたら思い切り笑われたことも。
笑ってくれたその人は、もういない。
このままずっと一人なのだろうか。
──この場所は一人では静かすぎる。
「……とっとと出掛けよう」
ひたすらに気分が沈んできたので、黒江は頭を振って考えるのを中断する。
顔半分を隠している面の具合を確かめつつ、腰元に道具の入った袋を下げた。
大切なものはそれだけ。
引き戸を開けて外に出れば、どんよりとした曇り空が見えた。
湿り気を含んだ空気の匂い──雨の匂いがする。
「うわあ……雨に降られる前に帰ろう」
それまでに食べられるものが見つけられると良いのだけれど。
一抹の不安を抱きながら、黒江は一人きりで森の中へと入っていった。
※ ※ ※
獣道よりも寂れた路を歩く二つの人影があった。
一人は小柄な老爺、もう一人は長身痩躯の男。小さな影を気遣うように側に寄り添いつつ、油断なく周囲を窺いながら歩く姿は要人警護のそれ。
「ふむ……疲れたのう」
何とはなしに呟けば、それを聞いた男が老爺の肩を軽く叩いた。
「ん? どうした」
「(……)」
「んん? おお、そうぢゃな。頼めるか?」
言葉を吐かずに口だけを動かした男の唇を読んだのか、それとも視線の動きで察したのか。
老爺がゆるりと頷けば、男が陽炎のように掻き消えたかと思えば、次の瞬きには既にそこへ佇んでいた。そして老爺に向かって、また口だけをパクパクと動かす。
「……ふむ。この先に小屋があると? なれば行ってみようかの」
お主も居るから心配なかろうしなあと老爺が笑い、無言の男が案内するままに道を往く。
「(……)」
途中、何かを聞きつけたように男がサッと辺りを見回し、少しだけ首を傾げる。
辺りには何もない。鬱蒼とした緑以外には。
「雲行きが怪しくなってきよったわ。急ぐぞ、風魔よ」
森の奥の暗がりを透かし見ようとしていた男の背に、急かす老爺の声が飛んできた。
男は偵察を諦め、老爺の隣に並んで再び道ならぬ道を歩き始めた。
※ ※ ※
「……え」
引き戸を開けた黒江は、火のついた囲炉裏の側にいる老爺を見つけて動きを止める。
「おや。いらっしゃい」
硬直する黒江に向かって吐かれたのは、まるで家主が客人を迎えるような挨拶。
「……え、あれ……?」
黒江は戸惑いつつ一歩後退して引き戸の表を見返し、ここが自分の住んでいる小屋であることを確認してから、再び中に視線を戻した。
囲炉裏の側にはやはり老爺が座っていて、家主が如く寛いでいる。
(家を間違えたわけじゃない、よな?)
人気が無いとはいえ、この一帯には野生の動物が多くいる。猪や熊などと遭遇すれば危険なことになりかねないので、気配を感じ取れるためにつけている面を外さずにいたのは正解だった。
面を通して感じる、老爺の緩やかな気配。印籠を持って各地を行脚するどこぞのご隠居のような雰囲気があるが、誰だろう?
気配の色は上品そうな紫。それと、シンプルな模様(三角形が三つ。紋章だろうか?)が視えた。どこか──何かで見た気がするのだが。
危険な様子はなし。問題は──黒江はここで、天井裏へ意識を寄せた。
こちらにも人の気配がある。色は漆黒、それから鳥の羽。
(気配の色が『視える』って結構凄いよなあ……作った本人が言うのもなんだけど、本当になんだこのオーパーツ)
内心で苦笑しながら黒江は半面の縁に触れる。
色々と気にはなることが多いものの、まずは目の前の情報を得る為に口を開いた。
「……金目のものはないですよ?」
そんなことを言ってみれば、老爺が呵々と笑う。
「いやいや、儂はただの迷子ぢゃ。それよりも、此方に来んか。そこは寒いぢゃろう?」
そう言って手招く相手からは、やはり敵意も殺気も感じられない。それどころか彼の気配は人懐こい好々爺然としていて、逆に黒江を戸惑わせる。
「どうしたね? ほら、入りなさい」
にこにこ笑う老爺に対し、黒江は少しの間逡巡したものの、結局は背後から聞こえてきた雨音を聞いて諦めるのだった。
※
「それがお主の食事か?」
「……え?」
山菜の漬物もどきと、ギリギリで粥に属する薄い雑炊を黙々と食べていた黒江は、老爺からの質問を受けて顔を上げた。
老爺がまじまじと黒江とその食事を心配そうに見つめてくるものだから、たじろいでしまう。
「な、なにかオカシイですか?」
「おかしいも何も……お主、それだけで足りるのか?」
「あー……なんとか」
「頼りない返事ぢゃのう……ならば一つ、どうかの?」
老爺が黒江に握り飯を差し出す。彼の前には、いつの間にか上等そうな酒と握り飯が二つほど置かれていた。
湿気ていた室内に広がった香ばしい匂いの正体だ。酒は上等そうな琥珀色、握り飯は白米でつやつやしていた。
黒江はそれらに目を留めながら、苦い漬物を咀嚼しつつ考える。
(アレって、『上の人』が用意したやつ……だよな?)
老爺に背を向けて支度をしている最中に感じた、上下に移動した気配。知らないふりをしたけれど、その主は今も天井裏に居る。
肌を刺すピリピリしたこの感覚はいわゆる『殺気』というものだろうか?
(何もしないから止めて欲しいなあ)
目の前の老爺とは違い、『上の人』は黒江を警戒しているのがよく解る。しかしながら小屋の先住者は黒江であり、相手方は不法侵入者なのだから立場が逆だろうと言いたくなる。
上の気配の主は老爺の護衛か。そうなると、この人の好さそうな老爺はそれなりの身分がある人物となるわけだが……。
(何でまたこんな山奥に。まあ、ここは失礼のないようにしておくのが無難か)
黒江はほろ苦い漬物もどきを飲み込むと、握り飯を勧めてきた老爺に言葉を返す。
「質素倹約がポリ……、信条なので、大丈夫です」
うっかり口にしかけた単語を、慌てて言い直す。
ここで生活して約一年。
いまだに時代背景が分かっていないながらも、それなりに慣れてきたし発言にも気をつけていたのだが、それでもポロリと零れてしまうのは現代生活の方が圧倒的に長いせいだ。
もっとも、ポリシーという単語を口にしたところで相手に通じるわけも無いのだが。
「どうぞ、それは爺様がお食べ下さい」
そう黒江が返すも、老爺は差し出した手を引っ込めない。
手にした握り飯を黒江に見せながら、にこりと笑う。
「儂には少々多すぎての。良ければ一つ食べてくれんか」
「え、あの」
「食べ物を粗末にするとお天道さまに怒られるのぢゃぞ?」
「……分かりました」
老爺の柔らかな追従に、黒江は根負けする。
お年寄りは大切に。
「じゃあ──」
頂きます、と老爺から握り飯を受け取ろうと手を伸ばしかけて、ハッとする。『上の人』の気配が、ピリッと変化したのを感じたからだ。
(これは……殺気、だな。うん)
多分、老爺に無遠慮に手を伸ばしたのを、危害を加える動作とでも見做されたか。
傍から見ればこっちが不審者ですもんねーと、黒江は胸中で苦く笑う。素手でも警戒されるとは。
そこまで怪しいと思うならもう出て行ってもらいたいのだが、しかしその一方では、どこか高揚する自分もいる。
身を潜める護衛で有名なのは「忍者」なのだが、果たして?
(あああ姿が見たい。話したい。……無理だろうけど)
なにせこちらは、辺鄙な山奥にある小屋に一人で居た面で顔を隠した男だ。怪しまれぬわけがない。
友好的に済ませたいのだが、かといってこの面は外せない。顔は……見られたく、ない。
「如何したのぢゃ? 若いもんが遠慮するな。さあ」
動きを止めて俯いた黒江に、目の前の老爺はどこまでも優しい声で尋ねてくる。
見ず知らずの他人に優しい、他人。そっと手を下ろして顔を上げた黒江は、何でもないですと苦笑する。
「そのおにぎりは、そこに置いて下さい」
これ片付けたら食べますので、と自分の粗末な食事もどきを指して黒江が答えれば、老爺がそうかと笑ってその通りにした。それと同時に『上の人』の殺気が消えたので、黒江は心の中でほっと息を吐く。
何もしないから安心してください、と『上の人』に伝えたら、このヒリつく緊張は消えてくれるだろうか。
(いやあ、余計面倒くさいことになるよね)
わざわざ姿を隠している相手に、コチラから声を掛ける。それはつまり「貴方が居るのはバレバレなんで出てきてください」ということにしかならないわけで。
向こうは気の良さそうなお年寄り。
対し、コチラは面を被った不審者。(一応ここの家主ではあるけれど、怪しいことには変わりない)
自分の食事を片付けながら、暫し考える。
出た結論は、単純明快。
(ワタシハナニモキヅイテイマセン)
うん。これで行こうそうしよう。
仮面に触れぬよう気をつけて、黒江は貰ったおにぎりに遠慮なくぱくつく。
触らぬ神に祟りなし。
(あ。このおにぎり、梅干しが凄くおいしい)
久しぶりに口にした人の手料理は本当に美味しくて、嬉しくて──少しだけ泣きそうになったので、美味しくない粥の残りを掻き込んで誤魔化した。
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現代人だと、大体は最初に泣きが入ると思う。
特に、無所持からのサバイバル。動画サイトでよく見るやつ。
虫とか焼いて食べるのすら厳しいし、それ以前に火起こしからして失敗しそう。