忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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02 小田原の日々1-5

 

 

「ここは真っ直ぐ行って、次の角を右……だった筈!」

 

 確認するように小さく呟きながら、黒江は廊下を歩いていた。

 現在、黒江の勤務体制は五勤二休であり、城と庵の間をいちいち移動するのもどうかと考えた結果、勤務の間は城に用意された私室で寝泊まりしていた。

 庵の方だと、外に出た裏手に湧き水のある場所があって手や顔などを洗うのも楽なのだが、小田原城は違う。黒江の部屋から井戸まではやや遠く、しばらく城内を歩かなければならないのだ。

 

 歩くだけならいい。

 問題は、似たような造りと景観のせいか、迷いやすいということだ。

 

 欄間などは同じ模様だし、現在の城見学で見られる、番号が振られた案内板があるわけでも矢印の看板が置かれているわけでもない。

 方向音痴ではなかったと思うのだが、いかんせん迷うわ、なかなか道が覚えられないわで泣けてくる次第だ。

「そろそろひと月経つんだから覚えても良い筈なんだけどー……お?」

 廊下の角を右に曲がったその向こう、広がる庭先に見えているのはもしや井戸ではないだろうか。

 

「お……おおお?」

 自然と早足になる。

 すたすたすた……と真っ直ぐ進みきって縁側に出た黒江は、探していたものを目にして声を上げそうになった。

 

「着いた──……一人で辿り着けたぁ……!」

 

 早朝なので声を押し殺しつつ、縁側の下に置かれた草履を履いて井戸へ近づく。

 ここの井戸は、時代劇でお馴染みの井桁を備えた掘井戸と呼ばれるものだ。

 しかも上に滑車があるだけの単純構造の井戸のため、桶に水を入れるとかなりの重さとなり、結構力の要る作業となる。

 

 黒江がその大変さを思い知らされるのは、釣瓶を引き上げる時である。

 

 

 

 

「ふっ……く……これ……っ、水が重い、のか、それともっ、桶が重い、のか……っ?」

 木桶は片腕で抱えられる程度の大きさなのだが、そこに水が入ると黒江の腕力では引き上げるのにいつも時間が掛かってしまう。

 ぎし、ぎし、ぎし、と釣瓶の紐が軋む音を聞きながら両手を使って紐を手繰りよせるが、桶がちっとも近づいてこない気がして嘆きたくなる。

 それでもどうにか己を鼓舞して釣瓶を動かし、ようやく直視できる距離に桶が近づいた時だった。

 

「よっ! 今日も早起きだな、眞条!」

「痛ったっ!? ──あ」

 

 背後から声を掛けられたと思ったら、背中をバンと叩かれ、痛みに驚いた黒江は手を離してしまう。

「わあっ!?」

 水の入った桶が井戸の底へ落ちていくのが、やけにゆっくりと見えた。

 数秒後に、ドボンという重い水音が黒江の耳に届く。

「うあー……」

 辛うじて声を上げるのは堪えたが、思わずその場に崩れるようにへたり込んでしまった。

 

「む。どうした?」

「……どうした? じゃないですよー、もー……伊勢様ー……」

 悪態に近い声音でそう言って、肩越しに相手を軽く睨む。

「やっと引き上げられそうだった桶を落としちゃったじゃないですか。……また最初から汲み直しですよ」

「はは。なんだ、そんなことか。よし、じゃあ俺がしてやるから代われ」

 

 

 ※

 

 

「……ふう」

 顔を洗う際に面を外す必要があったので、後ろを向いていてくれるよう頼めば、相手は笑って快諾してくれた。

 氏政か成田辺りが事情を話してくれているのだろう。ここ小田原は、黒江が面で顔を隠していても詮索してこない。その厚意に甘えきってしまう前に、どうにかトラウマを克服して外せるようにしたいと思う。

 面をつけ終えて振り向き、ありがとうございましたと礼を言えば相手が向き直って笑う。

「おう。顔はよく洗ったか?」

「はい。さっぱりしました」

 笑みを返し、それから何気なく桶を見る。

「……しかし、あっと言う間に引き上げましたね」

「ん? 驚くような事か?」

「だってあんなに重かったのに……って、そうか。原因は、やっぱり腕力か」

「うん?」

「いえ」

 片手を振って「何でも無い」と伝え、会話を続ける。

「ところで、伊勢様は今日もここで朝の鍛錬ですか」

 尋ねれば、相手は手にしていた木刀を担ぐように持ち上げて笑う。

「おう、勿論だ。毎日しないと直ぐに衰えちまうからな」

「精が出ますねー」

「……お前はどうにも年寄り臭いな。ご一緒します、とか言えんのか」

「朝からそんなに動けませんよ。それじゃあ、頑張ってくださいね。私は戻りますから」

 肩を竦めて手拭いを畳み、踵を返したところで背後から声。

 

「俺はいつでも歓迎するからな」

「勘弁して下さい」

 そんなやりとりをして伊勢と別れ、黒江は来た道を戻った。

 釣瓶を上げるのに必死になっていたせいで、道順があやふやになっているのを忘れたままに。

 

 

 

 

 廊下を二つ三つ通り、曲がり、進んだ時だった。

 

 ──何かがおかしい。

 黒江が足を止めて周囲を見回し、振り返り──「しまった」と言う顔になった。

 

「まずい。行きと帰りは逆になるんだった!」

 曲がる角と入る道を間違えたことに気づいたのは、見覚えのない区画にすっかり入り込んでしまってからだ。

 慌てて背後を振り返るが、ただでさえ同じ光景が続いているので見分けなどつくわけもなく、迷子になったというのを再認識させられただけだった。

「どうするかなー……」

 その場で足を止めたまま、呟く。

 自力でどうにか頑張ってみるか? 

 いやしかし、それで更に迷ったら目も当てられない状況になる。

 

 というか、迷う。

 絶対に迷う。

 

「……はあ」

 黒江が片手でこめかみの辺りを軽く押さえ、零すは溜め息。

 自分の不甲斐なさに、とことん嘆きたくなる。このままだと、朝餉を食べ損ねてしまう──どころか、大掛かりな捜索でもされれば、恥を重ねること請け合いだ。それは流石に、辛い。

「んー……」

 仮面の奥で眉間に皺を寄せつつ考え込み、さりげない動作で視線を天井の方へ投げる。

 静まり返った人気のない廊下。しかしこの仮面は、隠れている存在を教えてくれる。

 

(今日も居るな、監視の人)

 頭上、天井裏に気配が一つ。風魔小太郎と同じ気配の色から察するに、風魔衆の忍だろう。

 始終監視の目がある、この現状。視えて分かるだけに息苦しく精神的にも辛いのだが、今は有難いとすら感じてしまう。

 黒江の情報は頭領である小太郎から幾らか伝わっているだろうから、そう無碍にされることも無いだろう……と、思いたい。

 しかし、どう声を掛けよう? 手でも振ってみようか? 

 いや、それ以前に──。

 

(……隠れ忍んでる人にこっちから呼びかけていいのかなー)

 黒江は日頃、ただの一般人(及び面打ち師見習い)を自称しているが、しかし気配が『視える』ということだけは話していない。

 ……明かせるわけがない。流石に、能力的に問題視されるだろうし、不審者から要注意人物に格上げされてしまう。

 最悪、投獄で済めばいいが──。

「……」

 上げかけた片手をゆっくり下ろし、黒江は無言で考え込む。小太郎に多大な恩を受けている現状、忍の矜持を傷つけるようなことはしたくない。

 そうすると、ここは『天井裏の人』に頼らず自力でどうにかするという方法しかなくなるわけで。

 尚、天井裏の人は黒江が井戸のところで水を汲み上げる作業に難儀していた時にも、じっと見守っていた。何処となくハラハラした気配で。

 やはり忍者は優しい人が多い。思わず浮かびかかる笑いを噛み殺して、二手に分かれた廊下でどちらに行くかと考える。

「……まあ、深く迷ったところで死ぬわけじゃないしな」

 ここは城であり、森では無い。

 迷ったところで恥を重ねるだけだ。……それも切ないことではあるが。

 

「ここは右……じゃなくて、敢えて左──あ」

 廊下の向こう、此方に向かって歩いてくる人影があった。距離はあるものの、気配の色で誰だか判明する。

 相手も黒江に気づいたらしく、眉を顰めると足早に近づいてきた。

「こんなところで何をしている、黒江」

「……おはようございます伊東サマ」

 男──伊東は黒江の目の前に立つと、やや険しい顔で言った。

「お前の部屋は此方ではないだろう」

「いやー……井戸へ顔を洗った帰りに迷いまして」

「迷った? あの距離をか?」

「行きと帰りでは左右が逆転するのを失念してまして……気づいたのは、ここで」

「……もうひと月経つのにか」

「……ひと月経つのに、です」

「……」

「……」

 

「……いつも居る忍はどうした」

「小太郎さん? ついて来てませんよ。代わりの人は居ますけど」

「──っ」

 

 そんなことを口にすれば、天井裏の気配が微かに強張るのが視えた。

 これでは潜んでいる忍に向かって「私は貴方の存在に気づいています」と遠回しに言っているのも同然だ。黒江は慌てて言葉を紡ぐ。

 

「あ、代わりの人が見張ってくれてると思います。勘ですけど!」

「そうなのか?」

 伊東が上下左右を見回してから、黒江に視線を戻して首を捻る。

「……本当に居るのか? 何の気配も感じられんが」

「そ、そりゃあそうですよ。だって忍者ですから。忍ぶの得意ですから。そう簡単に見つけちゃったらおかしいですよ!」

「──」

 天井裏から思いっきり凝視されている気がするが、今度は気づかない振りを決め込んでおく。黒江は軽く深呼吸をして動揺を鎮めると、伊東を見て会話を続けた。

 

「ところで、伊東サマは何故こちらに?」

「昼過ぎからの評定に使う報告書を取りに来てな。……だから、お前がここに居るのを見つけた時は、てっきり──」

「残念ながら、ただの迷子です。間者だと思われたほうがマシだと思いたくなるくらいには情けないと自分で思います」

「そういうものか? まあ、お前には常に監視の目があるようだし、迂闊なことも出来んだろう」

「たった今、別な意味で迂闊なことをやらかしていますけどね」

「ははは。お前はよくよく妙な返しをするな」

 笑う伊東。当初の皮肉笑いや見下した態度は、どこへやら。

 やはり、初対面での敵視は小田原を想うが故の警戒心のものだったのか。

 伊東はひとしきり笑った後で黒江を見返し、口端を持ち上げる。

 

「では俺は、この不審者を風魔の元へ引っ立てねばならんな」

「そうしてくれると助かります……けど、報告書は? 取りに行かなくていいんですか?」

「お前を引き渡した後で、また来る。昼までだいぶ時間があるからな。そう急ぐことも無いだろう」

 そう言って伊東は黒江に背を向けて、「ついて来い」と歩き出す。

「わ、ちょっと。急に歩き出さないで下さいよ」

 先行く相手を追いかける黒江。ひっそり零すのは、苦笑。

 

「ほんと、第一印象が悪すぎたよな」

 

 

 ※

 

 

 見覚えのある廊下に来たとき、黒江は部屋の前に佇む長身の男を見つける。

 遠目からでも目を引く朱銀の髪。……漆黒の気配がひどく尖って視えるのは、気のせいだと思いたい。

「うわあ」と思わず声を零せば、相手がサッと振り向いた。

 

「(……)」

「……」

 かち合う視線。

 鉄兜で目元を隠している為に表情は窺えないが、真一文字に引き結ばれた口元と視える気配が教えてくれていた。──怒っているのは気のせいではない。

「えーと……すみません。案の定、迷ってました」

「(……)」

「行きは大丈夫だったんですけど、帰りで逆転現象が」

「(……)」

「書架のある区域をうろついていた不審者を『捕まえた』。お前に引き渡しておくぞ、風魔。──そらっ」

「わわっ!」

 伊東が笑いながら、黒江を小太郎の方へと押しやった。

 ぶつかる手前で小太郎に肩を掴まれて、抱き留められる。しかし黒江は小太郎に礼を言う前に伊東のほうを振り向き、軽く抗議した。

 

「急に押さないで下さいよ伊東サマ。危ないじゃないですか」

「危ないのはお前の方向感覚だ。いい加減、道を覚えろ」

「覚えようとはしてるんですけど、同じ風景だから──」

「その者の監視は怠るなよ。でないと、書庫の隅にでも迷い込んで餓死するかもしれんからな」

「そこまで酷くない! ──筈です……けども……!」

「ははは。そろそろ朝餉の時間だろう。しっかり食べて大きくなるんだぞ」

「成長期は過ぎてるんで横にしか育ちませ──あー、もう! 言い逃げされた!」

 

 伊東が歩き去った方向を、じとっと見つめて黒江が呟く。側に居る忍の存在を忘れているかのように。

 

「(……この雛鳥には、鳥籠も意味はない)」

 初めて名前を明かした時には酷く熱狂した様子を見せ、あれだけ小太郎に夢中になっていたというのに、今は毛嫌いしていた筈の北条の重臣と親しくしている始末。

 慣れたのか、それとも飽きたのか。

 

 ──飽きられたのか。

 

「(……)」

 小太郎は無意識に苛立つ。己の価値など理解しているというのに、この不快感は何だろう? 

「こ、小太郎さん?」

 名を呼ばれて視線を落とせば、不安げな黒江に見上げられていた。

 どうやら肩を掴む手に力が籠もっていたらしい。黒江は痛みに眉根を寄せているが、それでも責めることも怒ることもせず、小太郎に言った。

「あの……本当に、すみませんでした」

「(……?)」

 突然の謝罪を受けた意味が分からず小太郎が首を傾げれば、黒江が言葉を続ける。

「索敵とか勿論してたんじゃなくて、本当に迷ってまして。それで、戻ってくるのが遅れました。すみません」

「(……)」

 仮面で隠したその相貌。隙間から僅かに窺える表情からは申し訳なさが見て取れる。

「朝からご迷惑をお掛けしました」

 黒江は肩を掴まれたままで、頭を下げた。

 さらりと揺れる艶やかな黒髪に目を引かれる。

「(……)」

 肩を掴んでいた手を離し、その髪につと指先を絡めれば不思議と苛立ちが治まる。今朝がた黒江に「癖なのか」と問われた時は何のことか分からなかったが、ようやく理解できた。

 多分、癖になっているのだろう。己でも気づかぬうちに、この男に触れている。

「……あの」

「(……)」

 このまま習慣づいてしまうのだろう。気づいた時にはもう、この男に触れたくなっている。

 手を動かせば、指の間を髪が擦り抜けて気持ちが良い。

 

「あの、小太郎さん」

「(……)」

 

 この男が風呂を好むことと関係があるのだろうか? と小太郎は考える。

 黒江は、氏政が用意した温泉付きの庵に足を運んで湯を使っている。着替える間もどこかビクビクとした様子で周囲を窺い、湯に浸かっている間ですら落ち着かない様子でいる男。

 監視についている部下から、報告を受けたことがある。

 

『あの者は、我らが見張っていることに気づいているのではないでしょうか?』

 

 そんな馬鹿な、と言いきれないものがあることを、小太郎は既に知っている。

 

 人気のない山奥の庵で出会った当初から、黒江には気配を察知する能力があるように見えた。小田原に帰還する途中に立ち寄った宿場町でも、小太郎と共に町見物をしている時に商人に扮装した他国の忍を見つけている。

 当人は忍を見つけたのを誤魔化していたが、その当日に泊まった宿で湯を使った帰りに当の忍と接触したらしい。人気のない廊下でぼんやり佇んでいるのを発見した時には既に忍は居らず、何があったのか頬と首筋に刃物傷を作っていた。結局、詳細は聞けないままだが。

 身分も素性も不詳。顔を隠した奇妙な男。危険かもしれない存在だというのに、妙な頼りなさと弱さがあるせいか、敵意よりも先ず庇護欲を掻き立てられて仕方がない。

 

「(……)」

 流れる黒髪を梳き、軽く指に絡めて流し、また梳く。

 それを何度繰り返しただろう。小太郎は、己の腕の中で黒江がすっかり項垂れていることに気づいた。

 ポンと肩を叩けば相手が無言で顔を上げたので、「どうした?」というように首を傾げれば黒江が何とも言い難い顔をして口を開く。

 

「……もう宜しいでしょうか、風魔小太郎さん」

「(……)」

 何のことだ、と──考える間も無く、得心がいった。

 髪を梳いていただけだったのが、無意識に黒江を抱きこんでいたのだ。

 ゆっくりと手を離して解放すれば、黒江が息を吐いて後ろへ下がる。顔を上げると、小太郎に言った。

 

「髪を触ってくるのは、乱れや寝癖を直してくれてるんだと思って考えないようにしてますけど、抱きしめてくるのはちょっと理由が見つからなくて困りますよ?」

「(……)」

 小太郎からの反応はない。だんまりを決め込まれるのもまた困るのだが、風魔小太郎が非常に寡黙な人間だというのは、このひと月で理解できていたので黒江はそれ以上の追及を諦める。

 代わりに口にするのは、別の言葉。

 

「……朝ご飯の支度ってもう出来てますよね。行きましょうか」

「(……)」

 そう言えば、ようやく小太郎が微かに頷きを返してくれた。黒江は安堵して、小太郎と並んで廊下を歩いていく。

 

(でも……抱き癖のある忍者って、珍しいよな……?)

 

 そんな感想を、ふと抱いてしまう黒江だった。

 

 





***

道に迷わない人は本当に凄いなあと思います。(地図を見ても迷う人間)
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