大広間での顔見世を兼ねた騒がしい食事会は終わり、以降の朝餉は黒江の私室で摂ることになった。
そもそも、風魔小太郎は北条に雇われた忍──傭兵という立場だ。氏政の温情はあっても、重臣たちと肩を並べて膳を囲む身分ではない。
それは黒江も同じこと。だからこそ、個室での食事ということになった。これは黒江としても静かな方がありがたく、この二人きりの空間は精神的に助かっていた。
それはそれとして。
(……さっきから視線が熱いというか、痛い)
黒江は顔に着けている面が汚れないよう気をつけながら、朝餉である麦飯や味噌汁を口に運んでいた。
目の前に座る小太郎は、驚くほど静かに、流れるような動作で膳の料理を己の胃の腑へ納めていく。……が、その間も、小太郎の視線は黒江に注がれており、一度も逸らされていない気がした。
正直、手元を見て食べろと言いたい。
だが、これは常に周囲を警戒する忍の習性だとでも言われれば、それまでだ。(もっとも、この忍は声を持たないので言うも何もないのだが)
「……えっと……私の顔に何かついてます? それか、無作法なところがあったり?」
「(……)」
小太郎は首を横に振り、食べ終えた箸を置いた。
それから、じっと黒江が口を動かす様を見つめている。
先程まで廊下で感じていた、あの刺すような漆黒の気配はどこへやら。今の小太郎から漂うのは、陽だまりのように柔らかで温かい色だ──その銀朱の髪を思わせるような、淡い色彩。
(いやー……ちょっとこれは居心地悪いぞ。ここは小太郎に遠慮してもらうよう言おうかな──)
「(……)」
不意に、小太郎が黒江の傍にやってきて手を伸ばした。
また髪を触られるのか──と思いきや、その指先は黒江の頬──仮面の縁に触れ、そのまま耳元へと滑っていく。
「え、わ、ちょっ──今食事中だぞこたろ……っ」
逃げる間もなく、小太郎の大きな掌が黒江の後頭部を包み込むようにして、ぐい、と引き寄せられた。
抱きしめるというよりは、大切な獲物を囲い込むような、あるいは雛を羽の中に隠すような、静かすぎる独占の仕草。
黒江は複雑な表情をして、それを受け入れる。
(……これって多分、じゃれてるんだよなあ)
黒江は咀嚼していた麦飯を飲み込み、されるがままに小太郎の胸元に顔を埋めた。
鉄兜の冷たさと対照的な、驚くほど高い体温。忍といえば冷徹で孤独なイメージがあったが、この風魔小太郎という男は、一度懐に入れた相手にはとことん距離が近くなるらしい。
(出会った当初は無機質だったのに。……実は寂しがり屋さんなのかな。意外と「わんこ系」というか……小太郎って猟犬型っぽいから、そうほのぼのしたところはない……なかった筈なんだけどなぁ)
そんな失礼なことを考えながらも、黒江は空いた手で小太郎の腕をぽんぽんと叩いた。
「……落ち着きました?」
「(……)」
小太郎は答えない。ただ、腕に込める力が僅かに強まった。
黒江からすれば「人懐っこい忍のスキンシップ」だが、小太郎にとっては、先程伊東に向けられた黒江の笑顔を上書きするための、必死で無自覚な占有時間であった。
「あのー……そろそろ勤務時間なんですけど、小太郎さん」
「(……)」
「……六十数えるまでですからね」
そう言って溜め息をつく黒江の気配が、呆れつつもひどく甘やかであることを感じ取り、小太郎は口角を僅かに持ち上げ、目を伏せた。
それは甘える幼子にも、獲物を捕らえた獣にも似ていたが、黒江が見ることは遂になく。
※ ※ ※
「今日も独楽鼠か、黒江」
「お早うございます伊東さん。そうです、独楽鼠です。行ってきます」
「おう。頑張って来いよ」
成田に頼まれてよく立ち寄る書庫で、伊東と顔を合わすことが多くなった。
黒江は以前に成田から、伊東の役職である馬廻衆というのが大名の護衛だけでなく、事務的な取次といった、官僚的な仕事もあるという説明を受けているので、彼が書架に居ても気にならなくなっていた。
しかも彼らの多くは将来が有望な出世頭であるのが確定しており、女中の間で人気がある御仁として時々名前が挙がっている。
そのような男たちと接触がある為か、黒江は女中たちに呼び止められ、情報の横流しを頼まれることが多くなった。
「ね、黒江様。伊東様、今日はどんな様子でした?」
「石巻様は」
「狩野様は」
「ちょ、聖徳太子じゃないんで一人ずつ順番にお願いします!」
「しょうとく……? 高名なお坊様ですか?」
「あ。……いや忘れてください、それよりも、ええと、伊東様のことが聞きたいんでしたよね!」
彼女たちは強引だったが、それでも週に一、二回ほどであり、仕事が片付いた合間を縫ってくるので大きな迷惑にもならない。
また、ちょっとした礼もあるので適度に引き受けることにしていた。
それに、彼女たちが聞いてくる内容は彼らが好みそうな食べ物や異性に関する情報といった、機密にちっとも触れていない他愛のないものばかりだ。
だからだろう。『天井裏の人』からも小太郎からも注意を受けることはなかった。
ただ、一度だけ。
小太郎に袖を軽く掴まれて、引き止められたことがある。口を動かして何かを言ってきたが、残念ながら黒江は忍でも何でもない平凡な人間なので、彼の言葉は分からない。
首を捻って戸惑う黒江に、小太郎も諦めたのだろう。緩く首を横に振ると、黒江の頭を軽く撫でてから己の任務へと戻って行った。
あまり『外』へ愛嬌を振り撒くな、と言いたかったのかもしれないが、伝わらないままで良かったのだろう。
一人残された黒江はというと、小太郎の部下が居る天井の方へ問いかける眼差しを向けたが、そこからは戸惑うような気配が視えただけで相手が降りてくることも翻訳してくれることもなかったので、黒江もまた諦めて自分の仕事へと戻るのだった。
※
そのように、代わり映えのない日常を過ごしていたある日のことだった。
「最近、女中たちと仲が良いようだな?」
「え?」
ある夜に開かれた、すっかり顔見知りとなった北条の重臣たちが集まる酒宴にて。
なぜ自分が呼ばれたのか分からない黒江が端の方でひっそり静かに酒を飲んでいれば、上座の方から話を振られたので顔を上げた。
話しかけてきたのは石巻で、まだ幾らも経っていないのに赤い顔をしている。
酔っ払いに絡まれると面倒くさいんだよなあ、などと考えながら黒江は相手に言葉を返した。
「ええ、はあ……まあ、仲が良いと言いますか、普通ですけど」
「そうか? それにしては度々女どもに囲まれているのを見かけるけどな?」
「ああ。あれは──」
気になっている貴方たち殿方の情報を得たいが為に、話しやすい私が引き止められているんですよ──などと、言えるわけもなく。
「お茶請けで出た余りものを、私が頂いているだけでして」
これは本当だ。情報代金として、だが。
「それにしては随分と親しげな雰囲気に見えたがな?」
「はい。こんな不審者に良くして下さいますのでありがたいです」
「いや、俺は親密だと言っているのであってだな」
「石巻様も時折、茶菓子をくれますよね。ありがとうございます」
「う、……お、おう」
わざと話の方向をずらしつつ、にっこり微笑んで日頃受けている感謝の意を示せば、石巻の顔の赤みが少しだけ増したように見えたのは、気のせいだということにしておく。
ここで質問が止んで静かになったので、黒江は安心して酒を飲もうと猪口に口をつけようとしたが、今度は別方向から声が掛かった。
「ところで眞条。お前、どういう女が好みなんだ?」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。声のした方を見れば成田が居て、黒江は顰めかけた顔をすんでのところで苦笑いに変える。
「……その質問は何ですか、成田様」
「いやな。親しげにしている女中の中に、お前の好みが居るのかと気になってな。……で、どうなんだ」
生真面目だと思っていた人物からの意外な質問に、黒江は苦笑いを深くせざるを得ない。伊勢や石巻といった若者勢ならまだしも、まさか壮年の成田から斯様な質問をされようとは。
日頃、非常に世話になっているだけに無碍にしにくいのが難儀な所。
黒江は零れかかる溜め息を酒と共に飲み込んでから、答えた。
「好みも何も、そういうことには興味が無いので特には」
「む。眞条は衆道だったか」
「ぶっ……!」
成田の言葉に、黒江は飲みかけていた酒を噴き出した。
隅の方にいたので、誰の被害も無かったのが幸いか。ごほごほと咳き込んでいれば、背中を軽く叩かれる感触がした。
「げほっ、あー……すみませんありがとうございます小太郎さん……ごほっ……けほっ」
「(……)」
「なんだ。図星か眞条」
「違います。それだけで衆道扱い……げほっ、されたから、むせたんですよ」
「女に興味が無いのだろう? だから男が好きなのかと思ったんだが」
「極端すぎです。そっちのケもございません」
「しかし、お前は下男や小姓連中から関心を持たれているようだぞ」
「顔隠してて怪しいからでしょう。そんなの、直ぐに話題にも上らなくなりますよ。……あ、すみません」
「(……)」
そう言って小太郎から手渡された手拭いで口元を拭い、畳の上もついでに拭きながら話を続けていれば、脇から小太郎が手を伸ばして黒江から手拭いを取り上げた。
そして代わりに畳を拭き始めたので、黒江は微苦笑して礼を言う。
「ありがとうございます。……そうだ。興味を引くっていえば、小太郎さんもそうでしょう」
「(……?)」
名前を出された当人が、手を止めて顔を上げた。
成田が不思議そうな顔をして訊ねる。
「風魔殿が? 何故だ。お前に興味を抱いていると?」
「違いますよ。何言ってるんですか。興味を引く対象として、です!」
小太郎は、仮面の下で黒江が目を輝かせるのを見る。黒江は手にしていた猪口を一気に呷って脇へ置くと、まくしたてる勢いで話し始めた。
「だって風魔小太郎ですよ? 有名な忍者なんですよ? これで気にするなっていうほうが無理でしょう!」
「う……む? だが、忍だぞ? それのなにが──」
「そうです、忍です。諜報・破壊・暗殺その他諸々をやってのけるんですよ。何その一人何役的な存在。しかも夜目は利くわ耳は良いわ素早いわで一家に一台、いや一家に一人忍者が欲しくなる案件ですよ」
「お、おう……?」
「(……)」
急に饒舌になって語りだした仮面の男に気圧されて、成田は短い相槌しか打てない。
それには構わず、黒江は嬉々として話を続ける。
「それなのに、たかが忍とか忍風情とか、そういう立ち位置なのが解せない。敬えとまでは言いませんけど、せめてもうちょっとこう優しくというか丁重に扱っても罰は当たらないと思うんですよ!」
「いや、忍を丁重に扱うのはどうかと思うぞ? 忍んでいるのだからな」
「(……)」
「何でですか。寝首掻かれたらどうするんですか。むしろ労いましょうよ。朝昼晩と一日中頑張っているんですから」
「落ち着け眞条。あのな、忍も人間だ。交替して幾らかの休憩はしているし、始終動いているわけではない」
「あ、そうか。なんか二十四時間働いてる印象があったんで、つい」
「(……)」
「……見ろ。風魔が呆れているじゃないか」
「え。呆れ顔の風魔小太郎とか何ソレちょっと見たい」
「(……)」
成田に言われて黒江が振り返るも、そこにはいつもの無表情な忍がいるだけだった。
微かに苦笑している気配はするものの、表情に変化はない。
「……小太郎さん、ちょっとだけ表情変えてみてくれません?」
「(……)」
当然ながら、小太郎の首は縦に振られることもなく。
じっと見上げる黒江の頭をぽんと叩くと、空になった銚子と汚れた手拭いを手にして姿を消した。
「……呆れ顔は見れませんでしたけど、なんか生温かく笑われたような気はします」
「だろうな。伝説の忍も、あのように突飛なことを言われてはどうしていいか分からんだろう」
「笑えばいいと思うんですけど。あ、嘲笑とかではなく」
「忍の笑顔など見て何がしたいんだ」
「やー……貴重なので?」
「お前の性格も価値観もよくよく分からんな」
「忍者って意外とないがしろにされてるんだなぁ……」と、小鉢の煮物を摘まみながら、黒江は少し切ない気持ちになるのだった。
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小太郎からの接触は大体「じゃれてるなあ」で済ませるのが基本。