忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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02 小田原の日々2-2

 

 

 小田原城の深奥。

 日の当たらぬ影の底では、数人の風魔衆が膝を突き合わせ、冷や汗を流していた。

 

 彼らの任務は、北条の客人──眞条黒江の監視だ。

 しかし、最近その報告書に記される内容は、忍の任務とは程遠い「色恋沙汰」の色を帯び始めていた。

 

「……報告せねばならんのか、これを」

「事実だ。放置したとて頭領の耳にいずれ入る。そうなれば我らの首が飛ぶぞ」

 

 意を決した一人の忍が、頭領・風魔小太郎の待つ闇へと足を踏み入れた。

 そこには彫像のように微動だにせず、壁に背を預けて気配を断つ小太郎の姿があった。

 風の悪魔とも呼ばれる伝説の忍然とした振る舞いは、そこに在るだけで畏怖を呼ぶ。黒江には見せない冷気の中で、小太郎が微かに口を動かした。

 

「(……報告を)」

 

 小太郎の、声なき声が空間を威圧する。

 報告役の忍は震えて耐えながら、頭を垂れたまま口を開いた。

「はっ。彼の者、眞条黒江について……城内の女中らとの接触が急増しております。さらに、近頃は『伊東様らの好みを握り、女心を自在に操る仮面の策士』──通称『女誑しの黒雛』なる異名が広まりつつあり……」

 

 言い終えるや否や、パキリ、と。

 周囲の空気が凍りつくような音がした。

 

「(……)」

 

 刹那、部屋を満たしたのは戦場ですら滅多に見せぬほどの、苛烈で濃密な殺気だった。

 物理的な衝撃を伴うその重圧に、報告役の忍は息が止まり、その場に平伏する。床板がミシリと鳴り、天井裏で待機していた他の忍たちも、その「とばっちり」を受けて体を震わせた。

 小太郎の双眸が、闇の中で銀色に鋭く光る。

 己が少し目を離した隙に、あの「美しく脆い雛」が他所の女たちに愛嬌を振りまき、あまつさえ『女誑し』などという肩書を背負いかけているという。

 

「(……好奇心が強すぎるのも問題だな)」 

 小太郎は音もなく立ち上がると、報告役の忍を一顧だにせず、影に溶けるように消えた。

 

 残された忍たちがようやく肺に空気を送り込み、冷えきった指先を揉みながら互いの無事を確認し合ったのは、それから数分後のことだった。

 

 

 ※

 

 

「(ふふ……やっぱり、喜んでもらえると嬉しいなあ)」

 

 今日も今日とて、城内の女中たちに囲まれていた黒江。入手した情報を、惜しみなく女中たちに与えていく。

 伊東たちの好物──『意外と辛いものが苦手』『実は酒より甘味を好む』といった、他愛もないが確かな「情報」を伝えれば、大層感謝された。

 情報代として貰ったのは、金平糖の小袋。

 この時代では砂糖自体が貴重なので、非常に高級品となる代物だった。

(金銭だと気が引けるけど、こういうのは良いなあ)

 喜びながらそれを懐にしまい、足取りも軽く自室への廊下を歩く。

 

(私も意外といけるんじゃないか? 忍者の才能、あったりしないかな……!?)

 そんな根拠のない自信に胸を躍らせ、鼻歌交じりに廊下の角を曲がった、その瞬間──。

 

「わっ……!?」

 

 視界が急反転した。

 背後から伸びてきた剛腕に二の腕を掴まれ、引き寄せられた──と理解する間もなく、壁際の暗がりに押し込められる。

「いっ……!」

 背中に走る鈍い衝撃。それと同時に、目の前には漆黒の装束を纏った「本物の忍者」が立ちはだかっていた。

 

 そのまま、ドン、と。

 耳元で鈍い音が響き、黒江の視界は小太郎の腕によって完全に塞がれた。

 

「こ、小太郎さん……!?」

「(…………)」

 見上げる先、鉄兜の奥で光る双眸はいつになく冷徹で、それでいてひどく熱を帯びている。

 面越しに視える気配の色は蘇芳。

 黒江が先程まで抱いていた「諜報員ごっこ」で浮ついた気分は、一瞬で霧散した。

 

「ど、どうしたんですか。何か、ありました? あの、急にこんなことをされると驚くんですが!」

 精一杯の抗議を口にするが、小太郎は微動だにしない。

 それどころか、空いている方の手が黒江の腰を引き寄せて己の方に密着させる。それは親鳥が雛を羽で包み隠すような仕草を思わせた。

 

「(……)」

 小太郎の体から放たれる気配は、もはや「大型犬」のそれではない。獲物を追い詰め、他の何者にも触れさせまいとする飢えた獣のそれだった。

 黒江は知らない。自分の監視役たちが、つい先程までこの男の放つ殺気に当てられ、半死半生で平伏していたことを。

 そして、自分が女中たちに囲まれて「女誑し」などという異名を賜っていることが、この伝説の忍の逆鱗に触れたのだということも。

 

「……あ。もしかして、また迷子になったと思って迎えに……」

 来てくれたんですか、という言葉は飲み込んだ。面越しに視える小太郎の気が、この時代の夜よりも深い漆黒であったからだ。

 

(こんなに艶のある黒って、なかなか見ないぞ!?)

「(……)」

 

 小太郎は答えない。代わりに壁についた腕の力を強めると、逃げ場を失った黒江の首筋に冷たい鉄兜の縁が触れるほど顔を寄せた。

 声なき詰問が、重圧となって黒江の肌を刺す。

「……っ。な、なにを……言いたいんでしょう、か?」

 黒江は、小太郎の凝視から逃げるように顔を横に背けるしかできない。

 壁に押し付けられたまま、至近距離から見つめられることしばし。不意に小太郎が動いた──かと思うと、懐に忍ばせていた金平糖の袋を掠め取られた。

 

「え? あっ」

 ──返して、と。

 言う暇もなかった。

 

 小太郎は袋の中から一粒の金平糖を摘み上げると、それを躊躇いなく自分の唇の高さまで持ち上げて見せつけるように軽く噛んだ。

「え、あの……小太郎、さん……?」

 黒江は、小太郎が金平糖を食べたがっているのだと思った。鉄兜の奥で、銀色の瞳が昏い熱を孕んで黒江を見下ろす。懐こい大型犬ではなく、捕食者としての獣の瞳で。

 

「わ……うぇっ!?」

 次の瞬間、黒江の顎が強引に押し上げられた。半開きになった唇の隙間に、硬い粒と──それを押し込む熱い指先が割り込んできた。

 

「ぐっ……!? ぅ、あ……んっ」

 三島の宿場町で、無理やり解毒薬を流し込まれた時の記憶が鮮明に蘇る。

 口内に広がるのは金平糖の無機質な甘さだが、それ以上に、敏感な粘膜を蹂躙する小太郎の指の感触が、黒江の思考を真っ白に染め上げた。

 

 純粋な砂糖の甘みが口の中に広がるが、黒江にそれを味わう余裕はない。

 舌の根を押し込み、まるで「女たちから貰った毒」を掻き出そうとするかのような、執拗で情欲を孕んだ検分。逃げようと身を捩れば、空いている方の手で腰を強く引き寄せられ、逃げ場を完全に塞がれる。

 

「(……誰に、これを貰った。その口で、誰と笑い合った)」

 

 声なき詰問が、指先を通じて直接脳内に響いてくるようだった。

 黒江は涙目で小太郎を見上げ、必死にその手首を掴んで止めようとするが、伝説の忍の筋力に敵うわけもない。

 

「ん……ぁ、こた、ろ……っ……」

 苦し紛れに漏れた掠れ声が、余計に小太郎の加虐心を煽ってしまったらしい。

 そのまま、鉄兜の縁が黒江の額に押し当てられ、吐息がかかるほどの至近距離で重い殺気と独占欲が交互に叩きつけられる。熱を計るような仕草に似ていたが、どちらかというと他から与えられた熱を奪うような接触だった。

 それは紛れもない、自分を差し置いて他所に愛嬌を振りまいた「雛鳥」への、苛烈な叱咤。

 息苦しさを覚えて黒江がぎゅっと目を閉じれば、その目尻に涙が滲む。

 

(いやいやいや、痛い痛い痛い! 口の中の金平糖が刺さる! 噛み砕こうにも小太郎の指が邪魔ー!)

 

 静まり返った廊下の隅、壁際に押し込められた黒江は、けれどもうそのまま蹂躙される雛ではなかった。涙目になりながらも小太郎の指を引き抜くと、喉の奥に残る溶けかけた金平糖をバリバリと豪快に噛み砕き、強引に飲み込む。

 

「……っは! ──小太郎! 幾らなんでも酷すぎるだろう!」

 ぜえぜえと肩で息をしながら、黒江は面の下で顔を真っ赤にして小太郎を睨みつけた。

 目の前の小太郎からは、常人ならば気絶してもおかしくないほどの、凍てつくような漆黒の殺気が立ち昇っている。

 しかし黒江はその禍々しい色彩を全く無視して、理不尽な「検分」に対する強い怒りを爆発させた。

 

「なんなんだよ、拷問紛いのことをされる筋合いなんて、どこにもないはずだろう! この金平糖、せっかく貰ったのに! 貴重なのに! 一粒ずつ、じっくり、大事に楽しむはずだったのに! ……なのに、こんな使い方するなんて!」

 

 悲痛な叫びを上げながら、黒江は拳を振り上げると小太郎の胸元を「ぽかっ」と、叩いた。

 伝説の忍の胸当てを、あろうことか素手で、しかもお仕置きでもするかのように叩く男。蛮勇と言わずして何といおう? 

 

「何だよ、仕事で嫌なことあったのか知らないけど、八つ当たりするな! 幾ら風魔小太郎でも、やっていいことと悪いことがあるんだからな、もう! 馬鹿! 馬鹿小太郎!」

「(……)」

 ぽかぽか、と。ちっとも痛くない殴打を受けている当の本人は、毒気を抜かれたように動きを止めていた。

 鉄兜の奥で、獣じみた光を宿していた瞳が戸惑ったように揺れる。あれほど鋭利だった殺気が、黒江の純粋すぎる「食い意地」と「理不尽への抗議」に霧散させられ、所在なげに漂い始めていた。

 

 その光景を、天井裏から息を潜めて見守っていた風魔衆の監視役たちは、文字通り言葉を失っていた。

 

(あの頭領の殺気を受けて動じぬどころか、拳で叩いて「返して」いる……!?)

 

 小太郎の放つ威圧感は、並の忍であれば動悸が止まらなくなるほどの圧力だ。

 それを黒江は、子供が駄々をこねるかのような勢いで蹴散らしている。いや、ぽかぽか叩き返している。

 感心を通り越し、もはや畏怖に近い感情が監視役たちの胸を去来した。あの眞条黒江という男、実は底知れない手練れなのではないか──。

 

(……いや、単に恐れを知らぬ痴れ者なのやもしれぬ)

 

 そんな疑念すら抱いてしまう忍たちの視線の先では、黒江が相変わらず彼らの頭領を叩いている。

「もー! 小太郎には今まで色々と助けられてきたから大人しくしてたけど、こういうのは駄目だろ! 私は意思疎通できる君の部下じゃないんだぞ!」

「(……)」

 小太郎は「悪かった」とでも言いたげに頷く。妙に弱々しい気配を纏い始め、黒江の拳を両手の平で包むように受け止めていた。

 黒江の「ぽかぽか」攻撃は止まる様子もなく、小田原城の物陰で、なんとも形容しがたい奇妙な時間が流れていく。

 

 この後、すっかり不機嫌になった黒江の後ろを、伝説の忍が所在なさげに付いて回るのが幾人かに目撃されたのだが、貴重な金平糖を台無しにされた黒江にはちっとも関係のないことだった。

 

 

 ※ ※ ※

 

 

 黒江の自室の片隅で、小太郎は影に溶け込むように佇んでいた。視線の先には黒江がいて、むっつりと不機嫌な顔をしながら手を動かしている。

 その手には彫刻刀と、木の塊。その木を彫る際に出る木屑を掃除しやすいように筵を敷いた上で胡坐を掻き、黙々と木を彫っていた。

「(……)」

「……」

 面を打っているのではないことは、木の大きさから窺える。手の平ほどの塊が、どんどん小さくなっていくのを、小太郎は静かに見守っていた。

 

 黒江が手を動かし、彫刻刀を走らせるたびに木の塊が形を変え、命を宿していく。その横顔は面で上半分が隠れているが、美しいものとして小太郎の目に映った。

 

「……」

 黒江は何も話さない。だが、それは怒っているのではなく己の作業に集中しているせいだからだと小太郎は理解していた。

「(……成程。それなりに腕はあるのか)」

 小太郎は、山奥の小屋に一人でいた黒江を思い出す。片隅にあった木屑、削りかけの木、作りかけで破棄された面。

 しかし、一体何を作っているのだろう? 

 興味を引かれ、作業中の双眸に惹かれ、小太郎は静かに黒江の傍で形を変えていく木の塊を眺めていた。

 

 

 ※

 

 

「……こんなものかな」

 出来上がったのは二つの根付けだった。よく見るとそれは鳥の形をしている。

「小太郎」

 顔を上げた黒江が振り返り、名を呼んだ。小太郎は息を飲み、瞬時に近づく。

 

「……その……遅くなったけど、お礼──になるか、わかんないけど」

 小太郎を一度見上げ、視線を逸らして黒江は片手を差し出した。手の平には例の鳥の木彫りが一つ。

「……根付け? になるのかな。うん、まあ、そういうのだけど……良かったら、どうぞ」

「(……)」

 それは黒江なりの、仲直りの提案でもあった。

 小太郎は、差し出された黒江の手の平からその鳥の形をした根付けをそっと受け取った。もしかすると指先が震えていたかもしれなかったが、そっぽを向いた黒江には見られずに済んだ。

 

 それは鴉だった。三本足の。

 小太郎が黒江の肩を、ちょんと軽く──丁寧に叩いた。

 

「……なに?」

 視線だけが小太郎に向けられた。

 声はまだ、少しだけ硬い。

 小太郎は鴉の足を指差して、首を傾げた。

 

 ──これは? 

 そう問われていることに気づいたのだろう、黒江が答えた。

 

「……八咫烏。小太郎って、なんか普通の鴉っぽくないから。大袈裟すぎたかもだけど」

「(……)」

 は、と小太郎が軽く口を開いて閉じる。

 それから黒江の手元にあるもう一つを指差して、それに対しても首を傾げた。

 

 ──それは? 

 これも、黒江に伝わったらしい。苦笑を浮かべた黒江が肩を竦める。

 

「こっちは最初に彫ってちょっと失敗しちゃったから、自分のものにしたんだ。まあ、久し振りに彫ったせいなのもあるんだけど」

 つまり、黒江が作った八咫烏の根付けは二つあり、片方は黒江のものらしい。

 

「(……俺と揃いになるのか)」

 小太郎は、ぶるりと震える。──心が震えた。

 両手でそれを包み、己の胸に押し当てるような仕草をした小太郎を見て黒江が困ったように笑う。

 

「あまりいい出来じゃないのに、大袈裟だな。嬉しいけど……照れるだろ、もう」

 甘やかな声。小太郎は緩く首を振ると、根付けを己の懐の奥に丁寧にしまい込んだ。

 そして黒江の傍に片膝を着くと、その手を取って顔を寄せた。

 

「ちょっ……こた──」

 何をされるのか感づいたらしい黒江が、ぎょっとして手を引こうとするが、敵わず──抗えぬままに、それらの行為を受け止める羽目になる。

 

 指先にまず小太郎の唇が触れ、次に手の甲へ流れ、最後に手の平に押し付けられたところで止まった。羽が触れるような唇の愛撫に、黒江が顔を真っ赤にする。

 

「な、ばっ、なに……──もう! 小太郎!」

 

 黒江の叱責が飛ぶ。

 けれども小太郎は涼しい顔をして、再び「ぽかっ」とぶつけられた黒江の拳を優しく包み返すのだった。

 

 





***

この時代、砂糖が貴重なのもあって甘いものが久しぶりだったのもある。
ぽかぽか。多分、全然効いてない。
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