「こたー。こたろー」
身支度を済ませて庵を出た黒江は、空を見上げて声を上げた。
すると、大きな影が目の前に舞い降りる。小さな羽根の残像が風に掻き消えるのを目の端で見送りつつ、黒江は影に向かって微笑んだ。
「お早う、こた」
片手を上げて軽く挨拶をすれば、小太郎はわざわざ長身の上体を屈めて「おはよう」と音のない言葉を紡ぎ、そして手を伸ばして──。
「……この頭を撫でるオプショ──追加行動、そろそろ止めるつもりは?」
「(……)」
小太郎は首を振り、黒江の頭を撫でるのを止めない。そのまま二、三度頭を撫でた後、最後に髪を梳いてから手を離した。
すっかり日課となった行動を、今日も黒江は受け入れる。何とも言えない顔をして。
当初は小太郎が、此方の身体検査でもしているのかと思ったものだ。
なので、ある時「髪に武器を仕込んだりしてないからな?」と言ってみたところ、「何を言ってるんだ?」というふうに首を傾げられたので、そういう意図で触れているのではないようだ。
やはり癖か。癖なのか。
(それとも人に触りたい年頃か、こた)
伝説の忍の遅い思春期か。
ならば此方も仕返しに、いつかあの銀朱の髪を同じように撫で返してやろう、と企みつつ黒江は小太郎を見上げる。
だが、悪戯を考える子供のような笑みを浮かべている為にその思考を読まれていることを、黒江は知らない。当の忍に生温かい目で見守られていることには、ちっとも気づいていやしない。
──小田原に来てから二ヶ月。
黒江と小太郎は、保護者と子供のような、友達のような、妙に親しい関係となっていた。
※
「んー。今日もいい天気だ」
暖かな日差しに目を細めながら、黒江は小太郎と共に城主が待つ小田原城に向かって歩いていた。
「はあ──……何回見ても絶景だよなあ」
栄光門を目指して、黒江はゆったりと歩く。
左右に並び立つのは、満開の桜。それらを一つ一つ眺める黒江の目が完全に蕩けているが、それは面に隠されている為に誰にも知られることはない。隣を歩く小太郎を除いては。
「目に青葉っていうけど、私としては目に桜って言葉もあって良いと思うんだよなー。なあなあ、どう思うこた?」
自分が無意識に体を揺らしていることに気づきもせず、桜道を踏みしめる。ともすれば、ふらふらとよろけそうな足取りで。
転倒を案じた小太郎が、黒江の体をさり気なく支える。
二月が過ぎて、この男は随分変わった、と小太郎は思う。
何をするにも戸惑い、躊躇い、何かしてもらうごとに身を竦め、謝罪を重ねていた黒江。
自らを不審者と言いきり、どこか一線を引いた態度で接していた男は今や小太郎の隣で寛いで、桜を眺めている。
それでも時折、目を伏せて零す溜め息は何の為か。
面で顔半分を隠してはいるものの、長い睫毛で縁取られた瞳は美しく、そう悪い造形でないことの予想がつく。
人気のない山小屋に一人住んでいた面打ち師。元々は、師と二人で暮らしていたと言っていた。
その師がある日、姿を消したと。だから一人になったのだと、見ず知らずの他人を泊めた日にそう語った。
そんな小屋の中に散らばっていたのは、どれもこれもが作りかけの面。黒江は集中力が続かなかったからだと言っていたが、今思うとあれは師の失踪により精神が不安定になっていたせいだろう。
実際、小田原に来てから黒江は既に幾つかの面を完成させていた。うちの一つを主である氏政がいたく気に入り、引き取ったことから、その技術はかなりのものと言っていい。
黒江はあまり外交的でないので、完成したものを売りに行くのは変装した小太郎か北条家に仕える下男だ。
特に売り込み文句を吐かずとも売れる上、小田原の隠れた名産になりつつあることを、黒江は知らない。
その評判を、小太郎が氏政経由で報告しようと試みたこともあったが、「聞きたくない」と拒否された。城主曰く「恥ずかしいから嫌」だそうだ。誇るべきものだと思うのだが、黒江の感覚は少しばかり理解できないことがある。
「なあ、こた」
そんなことを回想していた小太郎は、黒江が声を掛けたところで現実に返った。
視線を向ければ、相手が笑う。
「朝食を済ませたら花見に出掛けても良いか?」
「(……?)」
小太郎が首を傾げ、「どこへ?」と視線で問い返せば、黒江は、ふふふと口端を持ち上げて。
「こ・こ」
悪戯を仕掛ける子供のように笑った声音は、艶やかでいて。
とくり。
小太郎は、己の胸が鳴る音を聞く。
眉庇の奥で目を瞬かせた小太郎には気づかず、黒江はにこにこしながら会話を続ける。
「天気もいいから、ちょっとしたもの持って、花見酒でもしようと思ってさ。勿論、騒いだりしないし、後片付けもちゃんとするけど」
駄目かな? あ、それとも、ここって飲食禁止だったりする? それなら諦めるけど。
そう言って、じっと見上げる黒江に小太郎は口元を緩める。
──本当に、いちいち子供のように素直な反応を見せてくれる人だ。
小太郎は首を振って禁止されていないことを示すと、手を伸ばしてその頭を軽く撫でた。
「わっ……だから、私は子供じゃないって……っ!」
撫でられて黒江の頭は軽く揺れるも、やはり抵抗はせず、小太郎の気が済むまで好きにさせている。
けれども、あまり撫で続けると抗議が来るのだ。
「ああもう……コラ! あんまり触るとお金を取るぞ!? それか、買い出しに付き合わせて荷物持ちさせちゃうぞ!?」
僅かに頬を膨らませて、黒江が睨んできた。
伝説の忍を睨み付ける。きりっと。
──ああ、ちっとも怖くない。
それに、任務ではなくたかが個人の買い物だ。持たされる荷量など嵩が知れている。
だから小太郎が頷いてみせれば、相手が仮面越しに額を押さえて溜め息を吐いた。
「……いやいや、そこで簡単に頷くな。こたには爺様から頼まれてる仕事とかがあるんだろう? そうやって安請け合いしちゃうのはどうかと思うぞ私は」
そう言って、小太郎の腕をぺしりと叩く。
小太郎は苦笑し、軽く肩を竦めた。
黒江の護衛もその仕事の一つだと告げたら、どんな顔をするのだろう。
もっとも、この喉が声を紡ぐことは無いのだが。
※
「あー……癒されるー……」
栄光門の側から少し離れた場所にある桜の木の下で、まったり時を過ごしている男がいた。樹に背を預けるように凭れかかり、胡坐をかいて目の前に広がる景色を眺めている。
「ここの桜は早いなー。やっぱり気候の問題かなー?」
平和だー、と黒江は心の中で呟く。
どこかでは戦が起きていのかもしれないが、少なくともここは平和だと思う。
「……って、こんなこと考えてちゃ駄目なんだけどさ」
小田原に来てから、あっという間に二ヶ月が過ぎた。
目を閉じ、これまでに過ごした時間を思い出す。
黒江の一日は、主に小田原の中で終わることが多かった。
日頃は技術を磨くために面を作ることに専念しているが、集中力が切れたら小田原の城下町まで足を延ばしたり、小田原城に寄って氏政や小太郎とお茶を飲んだりもする。爺様・孫・居候の図、といった感じだ。
黒江が一日中庵にいて外に出ない場合は、逆に小太郎がやってくる。
氏政から様子を見るようにでも言われているのか、いつもちょっとした菓子を持って訪ねてくる。
実のところ、黒江は地味にコレが困っていたりするのだ。氏政の見立てか、菓子はどれもが非常に美味で、ついつい平らげてしまう。
そう、完食してしまうのだ。
小太郎は、少ししか口にしない。黒江が幾ら勧めても首を振って断ることが多く、それでも食い下がったらようやく少しは食べてくれるようになったくらいで、結局はほとんどを黒江が己の胃に収める形になる。
ある日、腰に下げた巻き鞄の帯が、きつくなった感じがした。
革製品だから縮んだかなーと首を傾げた黒江は、次にザッと蒼褪める。
(太ったぁあああ!?)
引き篭もりがちな黒江は、このせいで日常生活を見直すことになった。
一週間以上も引き篭もることがあったのを、二日に一度は確実に外に出るようにした。しっかり運動をかねたものとして。
ちなみに、草履にはいまだに慣れていないので、あまり遠くまでは出歩けない。
靴が懐かしい、と心底思うのはこんな時だ。
ああ、昔の人は偉かった。
そんな黒江だが、食事は小田原城で摂っている。
食生活を見直す為に「自炊する」と告げてみたら、氏政に却下されてしまった。
原因は恐らく、小屋に居た時に黒江が作ってみせた例の『雑草粥』のせいだろう。
あの頃は色々あって気力が低下していたから、食事も適当になっただけで、今はあそこまで酷いものは作らない……と思うのだが。
戦国だろうこの時代。
流石に、自炊くらいは出来ないと拙い気がするので氏政にそのことを伝えてみれば、「お主は心配せんでええ」と笑って、提案を却下された。
ならば、と小太郎に相談してみたところ「危ないから駄目」とばかりに強く首を振られた。
あれ。私ってそこまでダメ人間か?
「……甘やかされてるよなあ」
ぽつりと呟いて苦笑するも、良い人たちに出会えたことに心から感謝した。
「師匠ー、私、なんとか生きてますよー」
桜越しに空を見上げ、小さく笑う。
右も左も分からぬままにこの世界に迷い込んだ現代人を、怪しむことなく受け入れ、あまつさえこの手に職をつけてくれた人。
半月だけの同居人。──名乗らぬままに、消えた人。
何処に行ったのかは分からないけれど、また会いたいと思う。
まだ彼の背格好が記憶に残っている内に、探しに行きたい。氏政に伝えて、小太郎にその手伝いをしてはもらえないだろうか。
「……駄目だ。勿体ない」
伝説の忍、風魔小太郎。北条を守る、最強の傭兵。そんな彼を、ただの人探しに駆り出すのは、やはりどうにも気が引ける。
元いた世界ならば、警察や尋ね人の張り紙などして探しやすいのだが此処では何もかもが人の手、人の足が必要となる。改めてライフラインとネットワークのありがたみを、ひしひしと思い知らされるばかりである。
「……自分でどうにかするしかないよな」
黒江は嘆息ついてそう結論付けると、空になった猪口に酒を注ぎ足そうと銚子を傾けた。
「……っと」
少しぼんやりしていたのか、加減を誤り中身が勢いよく零れてしまう。
ああ勿体ない。ひとり花見をすると本日の予定を報告した黒江に、爺様がわざわざ用意してくれた上等の酒だというのに。
「あーん」
空を見上げるように喉を仰け反らせ、濡れた指先を口元へ運んだ。
「……ん」
雫を舐めとり、軽く吸う。直前まで摘まんでいたのが塩気のある肴だったせいか、舐めた酒は少しばかり甘じょっぱく感じた。例えるなら、そう、塩漬けにされた桜の葉。
(そういやここにきてまだ桜餅って食べてないな。……いや、桜餅が無いわけじゃないんだけどさあ)。
黒江が微妙な顔をして思い浮かべたのは、最近見た桜餅。
餡を生地で巻いた、クレープのような形状の関東版。
どちらかというと、餡を生地で包み込んだおはぎ型の関西版のほうを愛している黒江としては、求めるソレがこの近辺では手に入れられそうにないのを切なく思っている。
ここは思い切って、関西方面まで足を運ぶべきか。
しかしながら、東京から大阪間ほどの距離がある。人並み以下の黒江の足では、さて何日かかることやら。
それ以前に、辿り着けるかどうかも怪しいところ。
(こたに頼むか。いやいや、人探しよりもどうでもいい用件で伝説の忍を使うのは人としてどう──ん?)
着物に吸わせるのが勿体なくて指先を舐めていた黒江は、そこで気配を感じて視線を動かした。
「ん、ぁ?」
前方に、二つの影。二つの色彩。
赤い方は見たことはないが、もう一方のオレンジには見覚えが──というか忘れるわけないだろうコノヤロウ!
「──小田原に何しに来たこのチンピラァっ!」
「だから俺様そんな珍妙な名前じゃないから!」
叫んで身を起こした黒江に、迷彩柄を着こんだ男が情けない声で叫び返した。
「うるっさいチンピラ! だったらヤンキーって呼び直してやろうか!」
黒江も大人げなく、言い返す。宿に泊まった時の出来事を鮮明に思い出してしまったからだ。
人に刃物向けた上にさくっと切りつけといて反省もなしか!
あの後、こたと色々あって誤魔化すのが大変だったんだぞコラァ!
などと悪態を吐きながら、黒江はしばらく毛を逆立てた猫のように相手を威嚇するのだった。
もう一人を置いてきぼりにして。
***
史実ではまだないんですけどね桜餅。まあそこは戦国BASARAなので。