(んー。酒は美味いし肴も美味いしで幸せだなー)
黒江は、体内の熱が上昇しているのを感じて薄く笑った。
いい感じに酔いが回って来たな、と思う。
「黒江殿は酒にお強いようですな」
「んー?」
同じ体勢でいた為に肩が凝ったので、黒江が首を右へ左へと倒していたところ、幸村の笑う声がした。
幸村の視線を追いかけた黒江は、自分の右に並ぶ空になった銚子を見る。
その数、三本。
一本百八十ミリだから、三本だと──。
「三合ちょっと、か。あー、徳利にした方が本数少なくて済んだな。面目ない」
「そんな謝ることじゃないでしょ。片付けるのはあんたじゃないんだから気にしないで飲めば」
「いやいや、自分で片付けるよ? これは散らかした本人が片付けないと駄目だろ」
だからこうして纏めているんじゃないか、と黒江は笑って横を指す。そこには種類ごとに分けられた小皿や向付鉢が重ねられて一まとめにされており、運びやすい状態で置かれていた。
幸村が、訊ねる。
「あれを黒江殿が片付けるのでござるか? ……おひとりで?」
「うん? そうだけど。散々飲み食いしといて、後片付けヨロシク~なんて、居候如きがしていいことじゃないだろう」
あははと笑い、猪口の中身を呷る。そんな黒江を真田主従は驚いたような──感心したような? ──顔をして見つめていたが、黒江は美酒に夢中で気づかない。今の自分では確実に手が届かないであろう清酒を飲み、ふうと息を零してから……ふと、何かを思い出したような顔になった。
「あ。そうだ」
猪口を煽って中を空にすると、それを脇に置いて幸村を見た。
「あの、真田サマにお願いがあるんですけど」
「某に? 何でござろう」
訊ね返した幸村に、黒江はふらつく身体を正して正座すると、片手を差し出して言った。
「握手して下さい」
「は……某と、でございますか」
「それがしサマと、でござる」
幸村の口調を柔らかい声で真似て、へらっと笑い返す。
「あんたね、この人が誰だか分かって」
「こうでござるか?」
「って旦那ぁ!?」
警戒した佐助が制するよりも早くに、彼の主君は差し出された手をアッサリと握り返してしまう。
その躊躇いのなさに、黒江がますます嬉しそうに笑う。
「ははっ。ありがとう……うはー。武人の手だ」
感心した声で呟いた黒江に、幸村が照れくさそうに笑う。
「ええ。某、日頃の鍛錬を欠かしておりませぬ故」
「うん分かる。凄くしっかりしてるから──」
床についていた手も幸村の手に重ねて、黒江は言葉を続ける。
「骨格、筋肉、関節……ふはは、何だコレデッサン人形みたいだ凄い……あ、剣だこも出来てる。さすがぁ」
「くっ、黒江殿……!?」
輪郭をなぞり、筋肉を確かめるように黒江は幸村の手に触れる。その仕草には妙な緩急があり、絡むように撫で上げるので幸村はすっかり戸惑い顔を赤くする。
「ちょっと、あんた! いい加減に──」
「あ、猿飛さんの手も触りたい!」
「え?」
それは流れるような仕草だった。
幸村から離そうと佐助が肩を掴んで引っぱってきたので、黒江は勢いそのままに佐助のほうを振り向くと、肩を掴む手を柔く掴み返して──きゅ、と握ったのだった。
「ははは。猿飛さんの手も硬い!」
そう言って、ふわふわした笑みを浮かべる。
佐助はその反応に虚を突かれ、息を飲んだ。
「あ、んた、何、やって」
「いやあ、有名人を見ると握手したくなってさあ」
笑いながら、今度は佐助の手を探るように撫で始める。
「っふ……わあ骨格が良い感じー。指も長いし、いいなー、こういうのー」
「……何がイイの。忍の手だよ?」
「うん。忍者の手ー。ははは、カッコいい忍者ー」
握った佐助の手ごと、ぶんぶんと上下に振って喜ぶ男。
かと思うと、意外とあっさり離した。気が済んだらしい。目を丸くしている佐助と幸村を交互に見て、にへりと笑う。
「ん、満足したー。ご協力感謝でした。あはははは」
「あ……ああ。満足されましたか」
「うん……あんたの気が済んだんなら、もういいけどさ」
「(……)」
子供のように笑った黒江を見て、真田の主従は互いに顔を見合わせ、頭を掻く。
黒江の側にいた小太郎だけが、深々と溜め息を吐いた。
※
「──よし。握手も出来たことだし、飲むか!」
有名人との接触を終えて一息ついた黒江は、銚子を傾けた……が、中身が出てくることはなく。
「あれ。ない。こた──」
「(……)」
「お。ありがと」
黒江が顔を上げるのと同時に、小太郎が黒江の猪口に酒を注いだ。
「相変わらず気遣いが素敵だなあ」
酔いが回ったせいで黒江の口調は舌足らずになり、次第に崩れが目立ち始めていた。
「だ、大丈夫でござるか黒江殿」
「んー? ああ、自分が酔ってるのは自覚してるから、だいじょうぶ」
そう答え、にへりと笑う。
蕩ける微笑。幸村は目を瞠り、さっと目を逸らす。その顔を赤くして。
「そ、そうでござるか。ならば……良いのです、が」
「っふふ。うん。気遣ってくれてありがと、真田サマ」
「──幸村、とお呼びくだされ」
「んん?」
(幸村って、本当は真田信繁じゃなかったっけ?)
黒江は内心で首を傾げたが、この世界は幾らか史実とは違うようなので気にしてもしょうがないのだろう。
幸村に頷き、言葉を返す。
「分かった。じゃあ、私も敬称は要らないです。むしろ、砕けた口調でどうぞ」
「いえ、そのようなことは」
「だって幸村サマのほうが身分が高いんですし。なあ、猿飛さん?」
「俺に敬称は要らないよ。忍なんだから。あと、佐助で良いよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「格好良いのに?」
「……その理屈は分かんない。取りあえず俺のことは呼び捨てでいいから。あ、旦那の事はきちんと敬称つけて──」
「某も呼び捨てで構わぬ!」
「ちょ、構うよ!? 何言っちゃってんの旦那!」
「某だけ身分で驕ってはならぬ。ここは場に合わすべきだ」
「合わすも何も、旦那は驕ってないでしょ。駄目だよそんな気安いこと言っちゃあ!」
「……幸村サマは意外とお茶目さん?」
漫才じみたやり取りをし始めた真田主従を肴に、黒江は静観を決め込んで酒を飲む。
「佐助の言い分ももっともだけど、幸村サマをさりげなく応援したい気持ちもなくはない。堅苦しすぎると気疲れしそうだし」
「聞こえてるよ黒江」と佐助。黒江は悪びれず笑みを返す。
「あはは聞かれちゃった。忍者は耳も良いもんな。素敵ー」
「素敵ー、じゃないよ。もう。楽しんでくれちゃって」
「うん、見てると楽しい。主君と忍者の主従関係最高ー」
「……あんたも風魔がいるでしょうに」
「ん? 小太郎の主君は爺様で、私じゃないぞ?」
「え。嘘」
「やー、嘘じゃなく」
「さっきからそれだけ世話焼かれてんのに?」
「これは優しい伝説の気遣いが発動してるだけかと」
「……俺様、風魔が主君変えたのかと思ってたよ。違うんだ」
「私に仕えても一文にもならないからなあ。そもそも只の一般人だから、仕える意味も価値もないし。なあ、小太郎?」
「(……)」
しかし小太郎は頷かない。ただ黒江の頭をぽんと叩いて、新しく入れた銚子を差し出した。
「ん──。ああ、ありがとう」
否定の反応がないことがやや気になったものの、酒と肴に意識がいってしまった黒江はそこで考えるのを止めて再び飲むことにした。
※
「さっきから私ばっかりが飲んでる気がするな。そうだ、幸村サマもどうぞ」
「む。サマは要らぬでござるよ黒江殿」
「んー、じゃあ私も敬称は不要で。幸村、どうぞ」
「だが」
「──どうぞ、幸村?」
微笑み、銚子を差し出した黒江に、幸村は赤い顔のまま、うむむと唸って……観念した。
「では、御一献いただくことにしよう。すまないな、黒江」
「あはは。うん、どうぞー」
黒江は上体を伸ばして幸村に近づくと、その猪口に酒を注ぎはじめた。
面紐が、俯いた拍子に髪を伝ってさらりと流れる。
「っと」
紐が前に落ちてきたことに気づいた黒江は、それを小指の先で掬い、耳の後ろに掻き上げた。
「……っ」
幸村は、その仕草に息を飲む。
仮面の隙間から覗いた瞳とその睫毛の長さに気づいてしまった心臓が、どくりと跳ねた。
「っ」
「あっ、幸村。いま手を動かしたら零れ──」
「え──あっ!?」
黒江が忠告するも、遅かった。
幸村の持つ手が揺れ、猪口と銚子が軽くぶつかりがちりと音を立てる。
零れる雫。跳ねた少量の酒が、黒江の右手と頬を軽く濡らした。
「も、申し訳ないっ! 佐助! 何か拭くものを!」
「はいはーい……って、早っ!」
「(……)」
「お」
幸村に命じられて、手拭いを手にした佐助。その手が黒江に触れるより早く小太郎が動き、頬の雫を拭き取った。
(相変わらずの超反応。凄いなー)
ぽんぽん、と丁寧に手拭いを当てて頬を拭いてくれる小太郎に、黒江はほろ酔い全開で微笑む。
「本当に優しいな、こたは。ありがと──」
小太郎の頭を撫でようと手を伸ばしたところで、黒江は何かに気づいたように固まった。
「(……?)」空中に止まった手を見て、首を傾げる小太郎。
「どうした?」と口を動かせば、黒江が眉を下げて笑う。
「あっはは。手も濡れてるの忘れてた」
いやいやこんな手で触っちゃ駄目だろ、べったべたになるっての。
そんなことを一人呟きつつ佐助のほうを見上げて片手を差し出す。
「猿飛さ……えーと、佐助? 悪い、その手拭い貸して」
「ああ。はい──」
「ありが──」
佐助に向かって差し出された手は、しかしそちらへ届くことは無かった。
横から伸びた黒い影が黒江の手首を掴み、引き寄せ──引き寄せられた指先は、小太郎の口の中へ──。
「え?」
呆気にとられた顔をする黒江。
佐助は「珍しいものを見た」と驚いている。
「はっ破廉──!」そして幸村は例のごとく叫ぼうとして──「はいはい、旦那、余所のお城で騒いじゃ駄ー目」その口は後ろから近寄った佐助の両手で塞がれた。
そんな真田主従を余所に、その場に片膝をついた小太郎は口に含んだ黒江の指を舐めはじめる。
「……うん。勿体ない精神が出ちゃうのは分かるけど、安易に人の指を舐めるのはどうかと思うのですよ小太郎くん」
説教口調でそう言った黒江に、動揺している様子は見られない。
「(……)」
何も思わないのだろうか?
小太郎が目を上げて首を傾げるも、黒江は動じない。
「そんな目をしても駄目です。ダメダメです。ほら、ぺってして。ぺって」
諌める言葉とは裏腹に、優しい声と苦笑を返して黒江はそっと指を引き抜いた。つっ……と細い糸が引き、小太郎の唇と黒江の指先に橋を掛けて消える。
淫猥な光景に、呟いたのは佐助。
「うっわ何かいやらしい」
「コラコラ、茶化さない。佐助、それ渡して」
「んー? ああ、はい手拭いね」
「さんきゅー」
「さんきゅ?」
佐助が首を傾げ、片眉を上げる。
「ううん、いやいや、ありがとう、ってこと」
思わず口をついて出た異国語を、黒江は曖昧に笑って誤魔化して、受け取った手拭いで指先を拭く。
「こた。君は後で口をゆすいどくようにな。汚いから」
「(……)」
ふるっと首を振る小太郎。
「駄目」と黒江。
「(……)」
小太郎はもう一度首を横に振ってから立ち上がると、黒江の頭をさっとひと撫でして姿を消した。
「あ、こた!」
叱ろうと声を上げかけた黒江は、ふと側にあった空の銚子がすっかり無くなっていることに気づく。
「いま風魔が持って行ったんだろうねえ」
のんびりとした声で告げたのは佐助。
黒江は仕方ないなあという顔をして、座り直す。
その間、佐助の腕のなかで、もごもごと何かを叫ぼうともがいている幸村は、一時忘れられていた。
***
耐性がついちゃって、ちょっとの淫らな接触では動じなくなっている。