「お早う、こた。今日もいい天気だな!」
「(……)」
翌朝、黒江はいつものように庵の前で小太郎を待っていた。
片手を上げて笑うその顔に、二日酔いの影は微塵もない。
「昨日は、後片付けも何もかもさせちゃったよな。自分でやるって言っといて、ごめんな?」
歩きながら、昨日のことを詫びる。
両手を合わせて申し訳なさそうにしているので、小太郎は首を振り、その頭を撫で返した。すると黒江の目元に朱が差し、気配に戸惑いが混じる。小太郎は静かにその変化を眺め、眉庇の影で口角を持ち上げた。
「わっ、ちょっ……だから、いちいち撫でなくてもっ……もー!」
穏やかな春の日差しが差す中を、小太郎と黒江は今日も歩いていく。
どこからか飛んできた桜の花弁が、二人の前をひらりと通り過ぎた。
黒江は、城の屋根の上で見た夜景については口にしなかった。
酷く落ち込んだ様子で小太郎の腕の中に収まり、弱音を吐いたことなど、なかったかのように。
「(……)」
立ち直りが早いのか、それとも酔ったせいで記憶がないのか。
微かに酔っていたとはいえ、夜景を眺めたあの時には、黒江はもうすっかり正気に返っていたように思う。
小太郎としては、追及する気はない。
弱音を吐いて他者に甘える黒江を見せてもらえただけで充分だ。今はそっとしておくことにした。
※
「んー。町に来るのって何日ぶりかなー」
朝食を済ませて足を運んだ小田原城下町。小田原は城郭の中に町があるため、遠出のできない黒江が唯一出かけられる場所でもあった。
そろそろこの時代の履物に慣れてもいいだろうに、何故か慣れない。茶店の軒下で、すでに痛くなっている足を擦る。草履がどうにも合わないので足袋を履いてみたのだが、やはりこれでも駄目なようだ。
「足袋を履いててもコレか。はあー……」
黒江は草履を脱ぎ、爪先を見る。素足では擦れて痛みやすいのではないかと北条の爺様が言い、わざわざ用意してくれた上質な絹足袋。それを靴下代わりにした上で草履を履いているのに、なぜ痛くなるのか。
「足の形に合っていないのか、歩き方がなっていないのか、どっちだ!」
ええいこの軟弱者め、と自分に悪態をつきながら足の指の間を揉んでいると、くすっと笑う声がした。
顔を上げた黒江は、盆を手にした少女と目が合う。
「あ、小槙ちゃん」
「お久しぶりですね、黒江さん」
彼女は、すっかり馴染みになったこの茶店の看板娘だ。年は十四、五くらい。仮面をつけた黒江にも物怖じせず話しかけてくれるので、いつの間にか仲良くなってしまっていた。
注文を取りに来たのだろう。黒江は急いで草履を履くと、照れくさそうに頬を掻いた。
「あはは。店先で、お見苦しく」
ごめんねと頭を下げれば、小槙がいえいえと手を振って柔らかに笑う。
「見苦しいなんて、ちっとも。黒江さんはお綺麗な殿方ですから、良い宣伝になりますよ」
「あ、はは……」
黒江は仮面の下で苦笑する。
彼女が「綺麗」と言っているのは、黒江がつけている面のことだろう。この時代の面は一般に能面と呼ばれるものが主だが、黒江が作ったものは少しばかり変わっている。
元にしたのは師匠が作った男面だが、傍らに色とりどりの顔料があったせいだろう。気づけば西洋風に近い仮面を作り上げてしまっていて、師匠に「まあ、それがお前の求めた顔なんだろう」と生温かく看過されたのは、まだ記憶に新しい。
……師匠と呼んだ恩人が姿を消してから、まだ半年も経っていないのだ。
現在の生活が落ち着いたら探してみようと考えてはいるが、それが彼の迷惑にならないか気になっていて、なかなか予定を立てられずにいる。
そんな、まだ昔とは言えない過去を懐かしんでいると、小槙が顔を覗き込むようにして、にっこり笑った。
「ほんと、お綺麗ですね。黒江さんが来てくださると、その日の売り上げが上がるんですよ?」
「あはは……それは流石に言い過ぎじゃないかな」
「嘘じゃないですよ! 黒江さん目当てで、ここに通うお客さんが増えたんですから」
「あー……それは多分、この面が西洋風で珍しいからじゃないかと」
「せいようふう?」
「あ……いや、うん。南蛮風、ってこと」
このままでは余計なボロを出しかねない。
ひとまず、話の流れを変えよう。
「ところで小槙ちゃん。今日のお勧めは何かな?」
「え? えーっとですね……」
小槙は顎に指先を当てて、うーんと考える。
「今日は──……あ。桜餅があります!」
「あー……さくらもち」
黒江は、クレープ生地で餡を包んだ長巻きのようなものを思い浮かべ、視線を泳がせた。
嫌いではないのだが、無理に食べてその気持ちが顔に出てしまっては、それこそ目も当てられない。
彼女を悲しませるだけだと判断した黒江は、いつも頼む茶団子の名を言いかけた。しかし小槙が続けた。
「堺の商人さんが仕入れてきたんです。丸い桜餅もあるんですよ。あたし、初めて見ました」
「あ、それください」
瞬時にその丸い桜餅へと転んだ。
小槙がにっこり微笑み、「分かりました」と言って店の中へ戻った。
※
「お待たせしました。はい、どうぞ」
「──!」
縁台の盆の上、皿に載った丸々とした桜餅を目にした黒江は、歓喜に打ち震える。
さーくーらーもーちー!
これだよ、これ!
ああ、わざわざ西の方まで行く手間が省けた桜餅!
いや関東風も好きだよ? でも私は、このおはぎ型の桜餅が好きで! あ、桜の葉っぱは食べられるなら食べたい派です!
「……ありがとう、小槙ちゃん。はい、これ代金」
心の中の乱舞を顔には一切出さず、黒江は精いっぱいの「大人の男の顔」を作って微笑んだ。
その表情に、小槙がぽっと顔を赤らめる。
「い、いいえ! その、どうぞごゆっくり……!」
「うん。あ、そんなに慌てて走ると転ぶよー」
赤くなった顔を盆で隠すようにして店の中へ小走りに駆け込んだ彼女を、黒江は片手を振って見送った。
「走っていっちゃったけど、忙しかったのかな?」
だとすれば、引き止めて長話をしたのは悪かったな、と思う。
後で店主に怒られなければいいが、と考えながら、黒江は手拭いで手の汚れを拭う。それから、にこにこして桜餅を一つ摘まむと口へ運んだ。
もぐ。もぐ、もぐ、もぐ。
ああ……美味しい。
「……」
うっとりとした顔で、桜餅を咀嚼する。仄かな甘みと芳しい香り、桜葉の絶妙な塩加減が口内に広がり、黒江を包み込む。
オーケストラを初めて聴いたら、こんな感じになるんだろうなあ──などと大袈裟に考えているうちに、気づけば桜餅を一つ完食していた。
ああ美味しかった、と息を吐いて湯呑みを傾ければ、今度は苦みのある緑茶が口内を洗う。
「……」
駄目だ。幸せすぎて頭が溶ける。
「…………」
この間、黒江はひたすら無言である。
茶を飲み、行儀が悪いと自覚しつつも桜の味が残る指先を軽く舐めていると、何かが自分を見つめている気配を感じた。
「──ん?」
町並みへ向けていた視線を、左右に流す。
仲睦まじそうに寄り添う老夫婦が通りの向こうに見えた。魚を盛りつけた籠を乗せた両天秤を担いだ男が、速度を落とさずに通り過ぎる。
人々が行き交う大通り。いつもの光景──だが。
蕎麦屋の前、看板と暖簾の影に身を潜めてこちらを見つめている、何かの気配があった。
※
(──虚無僧!)
小袖に袈裟を身につけ、深い編笠を被ったその出で立ちに、黒江は思わず声を上げそうになったが、どうにか思いとどまる。
ここで反応したら、佐助の時と同じになる──そう考えたのだ。さるとびさすけ。あのヤンキー。
黒江は手にした湯呑みを置き、残りの桜餅にかぶりついた。もしゃもしゃと餅と餡子のハーモニーを堪能しながら、町を眺める振りをしてその虚無僧を観察する。
尺八が見えないが、腰に下げた袋の中だろうか。目の前で一本取り出して、ぼえ~っと吹いてくれたら嬉しいのだけど。
元は托鉢する人なんだっけ? 時代劇だと、大抵は人斬りになるんだけどなー。竹林を歩いていたら、後ろからついてきて、こう、ばっさりと。
あの人はそんなんじゃないよねー? ただの虚無僧さんだよねー?
もしゃもしゃと桜餅を口に収めながら、黒江は嫌な予想をして表情を強張らせていく。
(……あの人が見てるのって、明らかに私だよね? こっちの自意識過剰じゃないよね……)
佐助ではないことは、視える気配の色で分かる。
だから、あの忍とは初対面なのだ。凝視される覚えはない。
黒江は嫌な予感を抱きつつ、夜明け前の青が混じった気配を持つ見知らぬ相手をさり気なく眺める──眺めているうちに、嫌になった。
(忍者の気配がするのは気のせいですか!?)
これは黒江の認識だが、忍の色彩は通常の人間とは違い、一段階沈んだ色をしている。灰色がかったような、薄墨を刷いたような色味だ。
(どこの人たちなんだろう)
そろりと視線を外し、手にした湯呑みを見る。そこを見つめていたところで、事態が好転するわけもないのだが。
(……今日のところはもう帰ろう、うん)
残っていた茶をすっかり飲み干すと、黒江は草履を履き直して店の方へ声をかけた。
「小槙ちゃーん。帰るねー。御馳走様ー」
さーて、これからどうしようかなーとでも言いたげな態度を装いつつ、あの虚無僧の目当てが自分でないことを祈りながら、小田原城に向かって歩き出した。
※
「黒江ちゃーん。あそぼー」
「ごめーん、また今度―」
「やあ黒江様。北条様の腰痛に効く膏薬が出来たんですが」
「すみません、店主さん。お城の人に伝えておきますー」
「おや黒江ちゃん。久し振り。相変わらず肌が白いけど、ちゃんと食べてるのかい?」
「食べてますすみませんこれは光合成不足なので外に出ますー」
小田原は、親切で優しい人が多すぎる。
黒江は、店の前を一つ通り過ぎるたびにかけられる声を柔らかくいなしながら、城へ戻る道を足早に進んでいた。
すでにじくじくと足が痛みだしているが、気にしている場合ではない。痛みに耐えながら、黒江は競歩の勢いで歩く。
人通りがあるところで少し休みながら進めばよかった、と強く後悔したのは、町を抜けた先の人気のない道に出てからだった。
※
(ひ、人がっ──誰も居ないぃぃ……っ!)
あるのは、絶景の桜並木。見惚れるような光景。
涙が出てしまいそうだが、これは感動とは別の涙だ。
栄光門がいつもより遠く見えるのが、これまた切ない。
込み上げる涙を飲み込んで、競歩の速度を上げた。
ぜいぜい、はあはあ。
大きく肩が上下する。息が苦しい。足が痛い。
黒江は、日ごろの運動不足がしっかり祟っているのを痛感する。
「はあ、はっ……──!」
人気のない道に出たその時、ぞくりと寒気がした。
勢いよく振り返れば、そこには尺八──ではなく、抜いた刀を手にした虚無僧が、ゆっくりと歩いてくるところだった。
(人目がなくなった瞬間に刀抜くとか、ほんと何!? やっぱり目当ては私か!? でも何で!?)
黒江は慌てて前を向くと、大きく息を吸って──走り出した。
それを見た虚無僧も同じように駆け出したものだから、黒江の恐怖は一気に倍増する。
(嫌ああああ、虚無僧のストーカーとか嫌ああああ!)
全速力を出す。
「……つっ!」
足がもつれ、転びかける。
そのまま倒れてしまいそうになるが、辛うじて持ち直した。
遠い栄光門。まだ遠い。まだまだ遠い。桜並木が見えてきたが、今はうっとりと見惚れる余裕などない。
「は……っ、はっ、はっ──っく……!」
足が痛い。
足が……息が……!
「だっ、誰っ、か……!」
通り過ぎる桜に見守られながら、黒江はひたすら走った。
背後の冷気がすぐ近くに迫っているのを感じる。
抜き身の刀を手に、問答無用で追いかけてきたくらいだ。捕まれば、こちらの命はないだろう。
「こ、た……っ」
朝方から任務に出かけていて不在の、伝説の忍の名に縋る。
当たり前だが、望む羽は落ちてこない。
「こた……こたろう──っ……誰、かっ……!」
その時、強い風が吹いた。
吹雪いた桜は黒江を包み──風が止んだ後に残っていたのは、桜の花弁だけだった。
「──っ!?」
そこに黒江の姿はなく、追いかけてきた虚無僧は足を止めて呆然とする。
しばらくきょろきょろと周囲を見回して消えた相手の姿を探していたが、やがて刀を仕舞うと、さっとその場から立ち去った。
※ ※ ※
目の前を、桜が流れていた。
風もないのに舞い落ちる桜が、はらはらと降りかかる。
(ここは……小田原、の……?)
黒江は、自分が桜の根元に仰向けに横たわっているのに気づく。
はて、どうしてこうなったのだろう。
何だか妙に頭がぼんやりする。身体を起こそうにも、四肢に力が入らない。
空を見上げていると、自分へ向かって落ちてくる桜の花が見えた。
吸い込まれそうな光景に目を細めていると、どこからか人の声がする。
視線を横にやれば、見慣れない濡れ縁が見えた。
そしてその縁に、驚いた顔でこちらを見つめる子供が居ることにも気づく。
年は十歳くらいだろうか。
庭先に向けて足を投げ出した格好でそこに座っており、黒江を見て固まったまま動かない。
「──」
「……っ!」
軽く片手を上げて微笑んでみたが、子供は笑わず、それどころかびくりと身体を震わせた。どうやら、とった行動は間違いだったらしい。
(まあ、顔を半分隠した見知らぬ人間にいきなり笑いかけられたら、普通は怯えるよな)
黒江は仮面の奥で乾いた笑みを浮かべると、視線を子供から空へ移した。
とりあえず動きたい。現状を把握しておきたい。
それと、地味に地面が冷たくて寒くなってきた。
「……」
ぐたりとしている四肢に、力を入れてみる。手をゆっくりと握り、開く動作を何度か繰り返していると、だんだん動けるようになってきた。
(あ、もしかして起き上がれるかも)
そう考えた黒江は腹に力を入れ、両腕を支えにして上体を起こそうとした──が。
自分は思いのほか筋力がなかったらしい。
腕立てをするような形で上体を起こしかけたところで力が弱まり、がくりと肘が曲がってしまう。
「あっ!」と叫ぶ子供の声を聞きながら、黒江はバランスを崩して勢いよく地面に倒れ込んだ。
「──っ……!」
地面にぶつかる直前に顔を横にしたので、鼻をぶつけずに済んだのをせめてもの僥倖と思うべきか。
それでも、痛いものはめちゃくちゃ痛いのだが。
「だ、大丈夫か!」
子供が濡れ縁から下りて、駆け寄ってきた。
よく見れば男の子だ。しかも少し可愛らしい顔をしている──変な趣味ではなく、純粋な評価で。
彼は黒江の傍らに立つと、そろりとしゃがんで話しかけてきた。
「下界に下りてきたばかりなのだろう? 無理をするな、天女殿」
てん……。
「……っ!?」
天女!? 何が!? 何この子、どういう子!?
子供の口から思いがけない言葉が飛び出すのを聞いて、黒江は目を丸くした。
***
桜餅自体は江戸時代以降の産物だけど、そこは「戦国BASARAだから」で押し通す方向で。
砂糖が本当に貴重な時代なので、本来は甘いみたらしも羊羹もまだない。