「……っ! ……っ!?」
声にならない悲鳴が、黒江の喉元でせき止められた。必死に息を吸い込もうとするが、肺がうまく機能していないのか声が出ない。
(ちょっと誰か大人の人! いや私も大人だけど、そうじゃなくて、この子の保護者は!? 誰か──! この子のお父さんかお母さんはー!)
心の中では絶叫に近い叫びを上げている。先ほどまで死の淵を全力疾走していた黒江にとって、目の前に広がる穏やかな庭園の光景と、自分を「天女」などと呼ぶ子供の存在は、あまりに現実味を欠いて見えたのだ。
白昼夢か? いやまさか。
その時、静寂を切り裂くように屋敷の奥から声が響いた。
「梵■■様! どちらに居られますか、梵■■様──!」
凛とした、芯の通った太い声。けれど、そこには隠しきれない焦燥が混じっている。不思議なことに、少年の名と思わしき箇所にだけ不自然な音の欠落が生じ、黒江の耳には砂嵐のような雑音として届いた。
黒江の前に座り込んでいた少年が顔を輝かせ、声を張り上げる。
「小十郎! 俺はこっちだ、庭に来てくれ! 大変なんだ!」
「何事ですか、そのように慌てて……ただいま参ります」
返答と同時に、ドスドスと地響きを立てるような、迷いのない足音が廊下を伝ってきた。濡れ縁の角から一人の男が躍り出ると同時に、場の空気が一気に凍りつく。
「来たか、小十郎!」
「いかが致しました梵……って、誰だ手前ぇっ!」
現れた男──小十郎の眼光を浴びた瞬間、黒江は文字通り身を竦ませた。侵入者を見つけたドーベルマンを思わせる雰囲気だ。
(うわあ、逃げたい。まだちょっと動けないけど、思いっきり逃げたい!)
慌てて起き上がろうとするが、どうしてか体が上手く動かない。
小十郎と呼ばれた青年は庭先に下り、鬼のような形相で近づいてくる。肌を刺すような圧倒的な殺気、そして有無を言わせぬ武人の気配。それを至近距離で叩きつけられた黒江は、真っ白な思考の中で直感した。
──ああ、終わった。
もはや抵抗する気力がない。冷たい地面に横たわったまま、黒江はぼんやりと空を見上げた。このまま意識が闇に溶けて、気を失えたらどれほど楽だろうか。創作ではこういう時、意識を失い暗転するのではないだろうか。
しかし、黒江の精神は皮肉なほどに頑丈だった。
緊張感が足りないのか、それとも運命の悪戯か。
期待に反して黒江の意識は依然としてはっきりしたまま、容赦のない現実を映し続けていた。
※ ※ ※
「……で? お前は何者だ。どこから入りやがった」
黒江は、冷たい畳の上に転がされていた。
手は後ろ手に拘束されているが、足はまだ辛うじて自由だ。過剰に拘束しないのは何故だろうと黒江は不思議に思ったが、それでも脱出に一条の光が見えるこの状態は希望がある。
しかし、眼前には、腰の刀の柄に手をかけたままの小十郎が、仁王立ちで黒江を見下ろしているので、迂闊に動くことは出来ないのだが。
「いつまで黙ってやがんだ。おい」
地を這うようなドスの利いた低い声が、直接鼓膜を震わせる。男の片頬に走る傷跡を見て、黒江はヤのつく職業を連想してしまう。
小太郎とそう変わらない体格だが、とにかく迫力が凄い。
(わ、若頭ぁ……!)
黒江は泣きそうになりながらも、釈明しようと口を開いた。しかし、喉が裏返ったように引き攣って固まり、漏れ出すのは掠れた吐息ばかりだ。一時的なショックによるものか、あるいはあの異常な桜の嵐に当てられたせいか、自身の声は物理的に死んでしまったかのようだった。
「お前は何処から来た」
(小田原です……)
「武田の三ツ者か? それとも上杉の軒猿か?」
(むしろ、忍者っぽい不審者に追われていた一般人です!)
「誰に雇われて此処へ来た? 目的は何だ?」
(好きで来たんじゃありません。気が付いたら居たんです!)
脳内ではこれ以上ないほど雄弁に語れるというのに、現実には残酷な沈黙が広間を支配する。黒江が返せるのは、わずかな首の振りや、仮面の奥で絶望に揺れる視線のみ。対する小十郎の眉間の皺は刻一刻と深まり、大広間の空気はさらに数度、氷点下へと叩き落とされた気がした。
「……そろそろ話さねえと、痛い目を見ることになるぜ?」
青年の大きな手が、黒江の胸ぐらを鷲掴みにした。抗う間もなく、たった片手一本の剛力で体が宙に浮く。
(この人も、めちゃくちゃ力強いな!)
死地にあるというのに場違いな感動すら覚えたが、顔が目前まで引き寄せられるにつれ、そこに宿る殺気は剥き出しの本物へと変わっていく。
「……狙いは、梵■■様か」
やはり、その少年の名を呼ぶ箇所にだけ、不快な砂嵐のような雑音が混じる。
(何だろう。「梵」という音の後に、何か言っているみたいだけど……どうしても聞き取れない)
「おい、答えろ」
(狙いも何も、その『梵なんとか』って誰ですか。人名ですか、それとも品物の名前ですか。見たことも聞いたこともないものを、どう狙えって言うんですか若頭!)
必死の抗議は言葉にならず、ただ虚しく喉の奥で消えていく。
「小十郎っ! 天女殿に無礼を働くな!」
殺伐とした空気を切り裂くように、幼くも凛とした声が響いた。
その場に割って入ったのは、小さな影──黒江の第一発見者である少年だった。彼は怒りに肩を震わせると、黒江の胸ぐらを掴んでいた小十郎の背中を、小さな拳でポカポカと叩きはじめる。
(あ、この子が『梵なんとか』くん?)
吊り上げられた状態で、黒江は呆然とその光景を見つめた。しかし、黒江の視線が少年へと向いた瞬間、小十郎の放つ気配が爆発的に膨れ上がる。彼は即座に少年を己の背後へと隠すと、抜き身の刃よりも鋭い眼差しを黒江に突き刺した。
「……なに見てやがる。やはり狙いは、梵■■様か」
(あ、また誤解された!)
あまりの理不尽さに、黒江は天を仰ぎたくなった。自分が「悪意なき迷子」であることを証明する手段は、今の黒江には何一つ残されていない。
(もう駄目だ。これ、いわゆる「咎無くて死す」ってやつだ……)
絶望に呑まれ、じわりと涙で視界が滲む。すると、それを見た少年が小十郎の影からパッと飛び出し、床に転がされた黒江の肩をがしりと掴んだ。
「天女殿、大丈夫だ! 人の言葉など語れずとも、貴女を傷つけたりはしない!」
逆光を背負い、黒江を見つめる少年の姿に、一瞬後光が差しているような錯覚を覚える。子供に守られる大の男という、客観的に見ればあまりに滑稽な図ではあったが、今の黒江の目には彼が神々しい救世主に見えた。
(やだ何この子、めちゃくちゃ格好いい……!)
少年の瞳には、迷いのない意志が宿っている。彼はきりりとした顔で頷いた。
「貴女は俺が護る故、安心してくれ。だが、そうなると、しばらくはここに滞在してもらわねばならない。それは構わないだろうか?」
「梵■■様!」
堪りかねたように悲鳴を上げたのは、小十郎だった。
「まだその者の尋問が終わっておりません! どうか離れてください。こちらを油断させておいて、隙を見て襲い掛かるつもりかもしれないんですよ!」
「小十郎、案ずるな。この方は桜花の天女殿だ。我らに害などなさぬ」
「面を付けて顔を隠した者が天女であるはずがないでしょう!」
怒号と主張が激しくぶつかり合い、議論は平行線をたどる。少年の頑固な態度に痺れを切らした小十郎が、強硬手段と言わんばかりに黒江の仮面へと手を伸ばした。
「……っ!」
黒江の心臓が激しく跳ね上がる。
(やめて、剥がさないで!)
素顔を晒される恐怖、そして「異質」として処刑される未来が脳裏をよぎり、黒江は死に物狂いで上体を仰け反らせた。
「チッ……!」
その激しい拒絶の勢いに、胸ぐらを掴んでいた小十郎の手が滑り、拘束された黒江の体はどさりと畳の上に叩きつけられた。
「天女殿!」
背後で少年の悲鳴のような声が上がる。畳に叩きつけられた衝撃など、今の黒江には痛みとして認識される暇もなかった。
(逃げなきゃ……捕まったら最後、あの怖い若頭に仮面を剥がされる!)
顔は見られたくない。醜い顔だ。更に怪しまれてしまう。
恐怖に突き動かされた黒江は必死になって立ち上がろうとしたが――。
(あああダメだ滑る! 落ち着け、落ち着いて……!)
酷い震えの中、どうにか芋虫のように身をくねらせて、なりふり構わず入り口へと這いずっていく。
みっともないだろうが、構わない。今黒江の脳裏を埋め尽くしていたのは、時代劇や小説で読んだ凄惨な拷問の数々だった。
(絶対に指を折られる! いや、爪剥ぎが先か!? とにかく、拷問なんて絶対に嫌だ!)
「天女殿、待ってくれ!」
背後から追いすがってきた少年に抱きしめられ、その進行を止められる。しかし、極限のパニックに陥った黒江の耳には、少年の必死な呼びかけなど届かない。ただ、見えぬ未来の激痛から逃れたい一心で、拘束された体を必死に暴れさせた。
(嫌だ、死にたくない……助けて。爺様! 小太郎、助けてくれ……!)
かつて過ごした穏やかな日々と、頼もしき忍の名を心の中で呼ぶ。だが、無慈悲な現実は、さらなる衝撃となって黒江を襲った。
「梵■■様、失礼を」
冷徹な響きを含んだ小十郎の声が、パニックに陥る黒江の頭上から降ってきた。
「小十郎!?」
少年の驚愕の声が重なった瞬間、黒江の鼻腔を、刺すような鋭い薬の匂いが貫いた。小十郎の手によって、薬液を浸した布が強引に口鼻を覆ったのだ。
「……っ!? ……!」
黒江は反射的に息を止めて首を振ろうとしたが、小十郎が強く押さえつけてそれを制する。その上、落ち着いた状態ではなかったため、すぐに息を吐き出し、大きく吸い込んでしまう。
薬が溶け込んだ気体が、一気に黒江の肺の奥まで流れ込む。異質な冷気はすぐに広がり、一瞬にして思考を白く塗りつぶしていく。
(毒……いや、これ、眠らせるやつ、か……)
薬の正体を認めるのに合わせて、四肢から力が抜けていく。
(何だよ、結局……こういう……だめだ……このまま、寝た、ら……拷……問……)
黒江の視界は急激に暗転していき、泥のような眠りに引きずり込まれた体は、少年の小さな腕の中へと、ずるりと力なく沈み込んでいった。
意識が、底知れぬ深淵へと落ちていく間際。
薄れゆく視界の端で、黒江は妙なものを見た。それは、小田原で目にしたあの美しくも穏やかな桜の木を無慈悲に切り裂くような、真っ白な稲妻の閃光だった。
黒江がここに来る直前に見た桜が、風に吹かれて吹雪いていたのを思い出す。
美しくも不吉な光景。
あれは、自分がいた場所──小田原に待ち受ける未来を暗示するものだろうか。それとも、混濁した意識が見せた、ただの悪夢か。
(……ちがうと……いい、なあ……)
せめて、いましがた別れてきた者たちの身に降りかかる不運などではありませんように、と。
消え入るような祈りにも似た独白を最後に、黒江の意識は完全に途絶えた。
※ ※ ※
「……天女殿を殺したのか、小十郎」
主君の幼き問いかけに、小十郎はふっと硬い表情を緩め、苦笑を浮かべた。
「いえ。黒脛巾から入手した眠り薬を少々。あまりに暴れるゆえ、お休みいただいたまで。ご安心を」
言い含めるようなその声には、主への忠義と、得体の知れない侵入者への冷徹な視線が同居していた。小十郎は膝をつくと、主が「天女」と呼び慕う男の顔へと無造作に手を伸ばす。その素性を暴くべく、男が身につけている異様なほど精巧な面に指先が掛かった──その時だった。
縁を掴み、引き剥がそうとしたその指を、小さな、だが確かな拒絶の力を持った手が掴んで止めた。
「……梵天丸様?」
虚を突かれた小十郎が視線を上げると、そこには毅然とした眼差しで己を見つめる幼き主君の姿があった。
「止めよ、小十郎」
梵天丸は、小十郎の逞しい指を握りしめたまま、静かに──しかし有無を言わせぬ口調で──告げた。そこに子供の雰囲気はない。
「天女殿は面に触れられるのを酷く怖がっていた。嫌がることを無理にいたすのは、伊達の者の流儀ではあるまい」
「何故、この者を天女だと? 見れば男ではありませんか」
「……雰囲気だな」
面を付けた男は、庭先を眺めていた梵天丸の目の前に突如出現した。
艶やかな黒髪に、上質な白足袋。着物の裾から覗く手足も絹のように白く滑らかで、その体躯もどこか華奢な男。小十郎と比較すると、余計に顕著だ。
目を引くのは、顔の上半分を覆う面とその相貌だ。見たことのない不思議な面。表情を隠すためだろうが、表面に変わった模様が施されており、無機質に見えない。
どこか浮世離れしたそれは、梵天丸には天女に見えたのだ。
「危害を加えるのはならぬ。これは命令だ、小十郎」
主の言葉に、小十郎は動きを止める。
けれど、この天女とやらが実は暗殺者であったら?
か弱い振りをして同情を引き、ここへ潜り込んだ間者だとしたら?
何かあってからでは遅い。ならば、ここは主の不興を買ってでも安全を優先して、この男を──。
「……頼む、小十郎。俺の目は片方しかないが、曇ってはいないことを証明させてくれ」
その言葉に小十郎は息を飲む。病で失った主のその目の代わりとして、己もまた存在しているのだ。
竜の右目として。
そうまで言われては、小十郎も耐えるほかない。
「……分かりました。ですが、その者が怪しい動きをした瞬間、俺は斬りますので」
「……最初は、みね打ちしてくれないか」
「なりません」
「……分かった。だが、そうはならぬさ、きっと」
気絶してなお、何かから逃れるように右手を伸ばした男の横顔を、梵天丸はただ慈しむように見つめていた。
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峰打ちも痛いと思う。
お手柔らかにお願いします!