──夜。
何かの気配を感じて、ふと目が覚めた。
(んー……?)
まず見えたのは囲炉裏。火が絶えず燃えていて、ぱちぱちと小さな音を立てている。
ああ、いつもより暖かいのはこのせいか……と納得して寝直そうとした──そこで目が覚めた。
(いやいやいや、不自然だから!)
まどろみを振り切った黒江は、対面にある布団の膨らみを見た。そこに居るのは、この小屋に迷い込んできた例の爺様一人だけ。相手はぐっすりと眠っているようで、布団が小さく上下しているのが見える。
だが囲炉裏の火は消えていない。
つまり、自分の知らない第三者がこの空間のどこかに居る──と、そこまで考えたところでギクリとした。
火が燃えているのに部屋が暗すぎる。
黒江は静かに息を吐いて、その薄暗闇を見る。
(これ──『気配』だ)
部屋一面に黒い羽根が舞い上がったような一瞬があった。
視線をゆっくりと流していけば、薄暗い室内、その中心。暖かい光源を受けて揺らめく影の中に、明らかに静物ではないものを黒江は見つける。
なんだろう、と面の奥で目に力を入れて注視しようとすれば、ふっと頭上に影が差した。
近くに棚は無い。
なのに、急に影が落ちてきたというこの状況。
何ともホラーな展開に、黒江はぎゅっと身を竦ませて心の中で叫んだ。
(いっいつの間にか後ろにいるー!)
背を向けている壁のある方から、冷気に似た気配が伝わってくる。ひやりとしたそれは着けている面の増幅効果も手伝ってか、一層冷たく感じられた。
これには覚えがある。夕食時にも感じた殺気だ。
黒江は考える。
(……見なかったことにしといた方が良いかなー)
目を閉じて寝直そうとしたが、すうっと背筋を伝う何か──悪寒ではなく、風に触れられたような感覚を受けた為に反応してしまう。
ハッとして風の触れたほうへ目を向けたそこで、覗き込むようにして此方を見つめている人物と目が合った。
──気づかれてしまった。
「……あ」
「(……)」
互いに視線を合わせたまま、固まる。
覆うようにして掛かる影の大きさから分かる、相手の体格。
黒と白の衣装を身につけたこの男は忍だろうか?
深く被った黒い鉄兜と眉庇の影に顔が隠されている為、表情は分からない。
けれど気配は読み取れる。
その色は影を思わせる漆黒。それがまさしく『忍び人』といった風体だったので、黒江は恐怖よりも興味が湧いた。──好奇心が勝ってしまった。
(これが上にいた人かあ……なんか恰好とかが徹底してて忍びみた──いや、忍者だ! 忍者だよこれ!)
黒江は思わず感動してしまい、驚きよりも嬉しさでへにゃりと笑ってしまう。
「(……っ!?)」
その微笑が男を少しばかり驚かせたのを、当人は知らない。ただただ影より出現した男を凝視し、きらきらした目を向ける。
(うわー格好いい……触りたい……っと。じっと見てたら失礼か)
緩みかけた顔を元に戻すと、黒江は忍を思わせる人影に小声で問いかける。
「あの、こんばんは。……火の番をしていてくれたんですか?」
「(……)」
近くで眠る彼の主を起こさないようそろそろと上体を起こしつつ、人影に向かって囁いてみた。
が、相手は答えず、無言で姿勢を正すと黒江から距離を取るようにして壁際の方へ寄ってしまう。
黒江が目を覚ますまでそこに居たのだろう。
となると、この人物の役割は見張りだ。護衛としての。
(んー……話しかけるのはまずかったかな?)
薄闇の中で相手に視線を留めたまま、黒江は考える。
面越しに視える相手の気配から読み取れるのは、強い警戒。
けれども、そこに食事の時に見た殺気は無い。
どちらかというと、相手も此方に興味を抱いている感じに視える。
会話の続行は可能だろうか?
少し前までは、自分からは他人に関わらないでおこうと決めていた。それをこの場で破棄する気分になったのは、関心を覚えたからかもしれない。
この世界に存在しているのは面打ちの師匠だけでは無いのだという当たり前のことを、今更に気づかされたのだ。
ようやくこの世界に関心が持てた雛鳥は今、自ら殻を破ろうとしていた──といえば格好がいいが、実のところは相手が本物の忍者かもしれないと思ったので好奇心が疼いただけだったりする。
※
(やはり此方に気づいていたか)
小太郎は目の前ではにかむ男を凝視する。
顔の上半分を面で隠した奇妙な風体でいるが、武術に長けているようには見えなかったので何の脅威もないと判断して気にも留めなかった。
ああ、見くびっていたのだ。
よもや影に潜む此方を最初から気取っていようとは!
(もしや忍びか──)
すっと背後に手を回し、隠した忍刀に手を掛ける。
主君の手前、この室内を血の匂いで充満させるのには幾らかの躊躇いはあるが仕方ない。
妙な動きをしたらその時は──。
そんな考えで身構えていた小太郎に、しかし向けられたのは奇妙ではあるが理解しがたい反応だった。
※
「……っ?」
何か冷たい風が通り抜けたような感覚がして、黒江はビクッと肩を揺らした。
肩口を見るも、何もない。戸口を見るも、何も……いや、隙間風がここまで届いたのかもしれない。
(戸がちょっと開いてたかな?)
悪寒の正体について考え込んでいれば──ぱきり、と木の爆ぜる音がした。
静かな空間の中で特によく響いたそれは、黒江を我に返らせる。
(──そうだ、上の人!)
今の音を切っ掛けにするかのように忍めいた男に目を向けると、そっと声を掛けた。
「あっあのっ……交代、しましょうか?」
そう言って腰を上げようとすれば、薄闇の中で相手がふるふると首を横に振るのが見えた。遠慮しているのだろうか。黒江は首を傾げて言い返す。
「あー……えと、私、怪しいですけど、火の番くらいは普通にします、というか出来るんで……あ。勿論、爺様には何もしませんから。だから私と交代して、護衛さんは少し眠りませんか?」
「(……)」
老爺を起こさぬよう声量に気を付けて喋っていた黒江だったが、語る内に気分が盛り上がり過ぎてしまう。
もしかしたら忍者を相手に交渉しているかもしれないのだ。ここは是非とも自分が役に立つところを見せて、友好度を稼ごう。あわよくば握手の一つでもしてもらえるかもしれない。
そんなことを考えたらもう止まらなくなった。
黒江は畳みかけるように言葉を繋ぐ。
「護衛さんが休んでいる間、きっちり火の番してますから。というか、元々は私がしないといけないことですし。あ、あと、おにぎりのお礼というか、恩返しというかそういうのをしておきたいなと」
「(……?)」
相手が「何のことだ」というふうに首を傾げるのが見えたので、黒江は言葉を繋ぐ。
「おにぎりを作成した方ですよね?」
「(……!?)」
「美味しかったです、ありがとうございます。なのでここは礼を言うだけじゃなくて行動で示そうと思いまして、えっと、ですから火の番を代わりますよ護衛さん! って──あぁぁ……」
ここで黒江は、男が何も言わずに冷静に──ともすれば冷めた目で──自分を見つめていることに気づいたらしい。不意に言葉を止めると、両手で口を覆って俯いた。
「……なんか、一人で勝手に盛り上がっちゃってすみません」
「(……)」
その声は、最終的には囁きよりもずっと小さくなっていた。
仮面をつけた黒江が頬を染める姿に、男が鉄兜の庇の影で目を細める。冷酷な忍であるはずの男がその目に滲ませたのは慈愛にも似た柔らかな光であったが、眉庇の奥に丁度隠されている為に黒江が気づく筈もなく。
黒江は羞恥に身を丸めるようにして呻く。
「聞かなかった事にして下さい……お仕事の邪魔をして、すみませんでした……」
「(……)」
情けない声で謝罪して頭から布団を被った黒江は、男がゆるりと口元を緩めたのを知らない。無言で表情を全く変えないその男がほんの少しだけ微笑んだのを、布団の中で耳まで赤くしている黒江が察する余裕はなく。
※
(変な男だ)
蓑虫が如く布団に丸まった男を見下ろしながら、小太郎は胸中で失笑する。「てんしょんが」「じちょうしろ」などといったくぐもった声が布団越しに聞こえてきたが、南蛮語、だろうか?
真相はともかく、何故だか相手は勝手に反省しているらしい。
不審人物にしか思えない筈なのだが、警戒心がいまいち湧かないのはどうしたことか。眠る際にも仮面をつけたままでいる男だというのに、話していると可笑しくて堪らない。胸の奥を柔らかく掴まれているような気分になる。
感情を殺せと言われて育ってきたのに、どうしてこうも相手をしたくなるのだろう。──構ってやりたくなるのだろう。
小太郎は己の胸中に生じた無自覚な好意に気づかぬまま、仮面の男の側に寄る。
更なる接触を自ら求めるようにして。
※
男は笑みを消すと、黒江に近づいてその場で片膝をついた。
そして、こんもりした布団越しに黒江の肩があるだろう辺りをトントンと軽く叩く。もぞりと布団が揺れた。
「……護衛さん?」
呼びました? と素直に顔を出した黒江に、男は鉄兜の庇の影で口元を緩める。
「そうだ」とばかりに頷くと、スッと囲炉裏の方を指差した。
「……? あ、やっぱり交代──」
「(……)」
ふるふる、と男は横に首を振る。そして首を傾げる黒江を見ながら、囲炉裏を指した指を戸口のほうへ流して視線を誘導する。
「囲炉裏、と……入口? ──ああ!」
そこで黒江が得心顔で頷く。
「──焚き木ですか」
こくり、と男が頷いた。
「じゃあ──」
私が集めてきますね、と身を起こそうとした黒江だったが、男に肩を押されてその動作を止められてしまう。
「あれ。なんか間違えました?」
すると、今度は男がこくりと頷いてから首を振った。
『はい』と……『いいえ』?
対極の反応を見せた男に、黒江は混乱する。
その微細な感情の揺れは相手にも伝わったらしい。男は自分の口元に手を当てると、胸の前で両腕を組んで考え込む素振りを見せた。
やがて黒江に視線を戻すと、今度は「囲炉裏、戸口、男自身」の順で指を差す。
黒江は眉間を寄せて暫く考え込んでいたが、やがて「あ」という顔をした。
「焚き木集めは護衛さんが自分で行く、と?」
「(……)」
そうだ、というように男が頷く。黒江に意見が伝わったのを確認すると、膝立ちの姿勢から腰を上げて戸口のほうへと歩き出した。
それを見て、今度は黒江が口を開く。
「あ、護衛さん!」
ひそっ、と声を潜めて呼び掛ければ、男が足を止めて振り返った。
黒江は部屋へ視線を走らせて就寝している老爺を気に掛けながら、自分の声量に注意して言葉を続けた。
「あの、ですね。土間の隅に木屑とか紙屑があるんで、良かったら使ってください。あ、使えないようなら、放っといてくれていいんで」
失敗作の成れの果て。
面用の木屑とはいえ、集まれば大樹。資源は大切に。
黒江の申し出に、男は「土間の隅の屑山、火のついた囲炉裏、そして黒江」の順に視線を流してから暫く何の反応も見せなかったが、やがてこくりと頷いた。分かってくれたようだ。多分。ともあれ、黒江は安堵する。
「じゃあ、遠慮なく全部使ってくださいね」
──今はただの屑でしかないので、と付け加えれば、男が不思議そうに首を傾げて黒江を見る。
けれどその時にはもう黒江は背を向けて寝床に横たわり、肩口まで布団を被り直していた。
「おやすみなさい」
囲炉裏の火が爆ぜる音に黒江の声が混じって消える。
なんだか良い夢でも見られそうな気分だな、と思いながら黒江は温かい気持ちで眠りについた。
***
実際問題、寝起きに自分の側に人が立っていると叫んでしまうかもしれない事態ではある。
驚きすぎて声も出なかった説。
なお、粗相はしておりません。