夜の帳が下りた、とある部屋。
小田原の城とは異なる嗅ぎ慣れない匂いがする。耳を圧迫するような静寂のなかで、黒江の意識は緩やかに浮上した。
(……ここは……?)
目覚めた黒江の体は、冷たい処刑台──ではなく柔らかい布団の上で、肩透かしを食らうほど丁重な「客人」としての扱いが待っていた。
傍らに控えていたのは、小十郎と呼ばれる男だ。彼は黒江の目の前へ、食事の乗った盆を無造作に置いた。荒々しい外見とは裏腹に、丁寧な動作で。
「俺はお前を認めてねえからな」
地を這うような低い声でそれだけを吐き捨てると、男はさっさと部屋を後にする。
黒江はその威圧感あふれる背中をぼんやりと見送った後、取り残された丸盆へと目を落とした。
そこには、素朴な握り飯が二つと、白湯の入った湯呑みがひとつ。黒江は盆の縁にそっと指先を掛けると、それを自分の方へと静かに引き寄せた。
(これは……食べても大丈夫なのかな?)
なんとはなしに天井を見上げれば、仮面越しに視える世界に、スモークブルーの色彩がゆらりと揺れている。
天井裏の住人──忍の気配だ。
その色彩は、小田原で自分を執拗に追い回したあの虚無僧が放っていたものと酷く似通っていた。
本人か、それとも同種の人間か。
逃げている最中に桜吹雪に包まれた辺りで記憶が飛んでいるが、結局あの後、当の虚無僧に捕らえられてここへ運ばれたのだろうか。
だとすると、自分は無造作に見知らぬ庭先に転がされていたことになるのだが、どうにも合点がいかない。
(ここがどこだか分かれば、少しは予想できるんだけどなぁ)
答えの出ない疑問を抱えたまま、黒江は天井裏に潜む気配の色彩をじっと見つめていたが、向こうからの反応はない。当たり前だ。相手は「隠れている」のだ。その気配を色彩で察知されているなど思ってもいない。
だから、こちらから声を掛けるのもまずいだろう。誰もが小太郎や佐助のように優しい忍者である保証はないのだ。
そして、ここは小田原ではない。
(……自分で判断していくしかないか)
仕方ないので、再び視線を握り飯へと戻す。
天井裏で見張っている忍は、これが毒であることを知った上で、自分が悶え苦しむ最期を確認するために潜んでいるのだろうか。そんな邪推をしようと思えば、いくらでもできた。
だが、もう考えること自体が面倒になっていた。
空腹は理性を削り、極限の疲労は恐怖すら麻痺させる。黒江は躊躇うことなく握り飯を手に取ると、その白い塊を迷わず口へと運んだ。
もぐもぐと咀嚼すれば、絶妙な塩加減と、米そのものが持つ柔らかな旨みが口いっぱいに広がっていく。
(……美味しい)
こんなに美味しいものを最後に食べて死ねるなら、それもまた本望かもしれない──そんな投げやりな感想を抱きながら、黒江は二つの握り飯をあっさりと完食した。不安の中にあっても食欲は健在のようだ。
(毒って速攻性かな、遅効性かな……あんまり苦しくないものだといいけど……)
そんなことを考えてしばらくじっとしていたが、いつまで待っても身体に異変が起きる気配はない。
腹痛も眩暈もなく、拍子抜けするほどそれは「ただの食事」だった。それなりに覚悟を決めていただけに、少し、気まずい。
平常心を取り戻すべく、黒江は温かな白湯をゆっくりと飲み干し、両手を合わせて「ごちそうさま」と小さく呟いてみた。しかし、やはり喉から音が出ることはなく、空気の抜けるような気配が微かに響くだけだった。
(声は出ないままかぁ……)
腹が満たされたことで眠気が来るかと思ったが、逆に神経が研ぎ澄まされてしまった。少しの間横になって目を閉じていたが、神経が張り詰めているのもあってか寝付けそうにない。
古典的手段として羊を数えてみたが、不発に終わった。眠ろうと意識すればするほど逆に目が冴えていく。
(……よし。ちょっと外の空気を吸おう)
黒江はふらりと立ち上がると、外へと通じる襖にそっと手を掛けた。
※
襖を滑らせた先に広がっていたのは、月光に照らされた静謐な庭園だった。
庭の一角、淡い月光を浴びて立つ一本の桜の木には、はっきりと見覚えがある。ほんの数時間前、意識を取り戻した際にその根元へと倒れ伏していた、因縁の木だ。
「……」
黒江は濡れ縁に腰を下ろし、冷え込み始めた夜気を感じながら、薄明かりに照らされる庭を眺めた。
手入れの行き届いた景観、そして天井裏に潜む忍の気配。どうやらここは、相応の権力を持つ者の屋敷であるらしい。
黒江が知っているのは小田原城くらいしかないが、それでもここが武将か大名の城郭の一部であることは疑いようもなかった。
(ここは一体、誰の家なんだ……?)
自分を天女と呼び、無邪気に笑ったあの子供。
小十郎は彼を「梵」と呼んでいた。その名の後ろに奇妙な雑音が混じっていて正確には聞き取れなかったが、その一文字には覚えがあるような気がしてならない。
黒江は懸命に記憶の海を手繰ってみたが、頭に霞がかかったようで考えがまとまらなかった。小十郎に嗅がされた薬の影響が、まだ残っているのだろうか。
(……駄目だ。これ以上は頭が痛くなってくる)
思考を放棄した黒江は、重い溜め息をついて夜空を見上げた。
幾千の星々が瞬く空は、息を呑むほどに美しい。けれど、小田原の天守閣で小太郎と共に仰いだあの温かな夜空に比べると、今の星の瞬きはずいぶん遠く、突き放すように冷ややかに感じられた。
氏政の爺様は、そして小太郎は、突如として姿を消した自分を案じているだろうか。
こんなとき、文明の利器があればと切に願わずにはいられない。どれほど遠く離れていても一瞬で声を、存在を知らせられる、あの便利な発明品。この時代に来る前は、単なる生存確認の道具に成り下がっていたはずの携帯電話。それが今は喉から手が出るほど愛おしく、孤立感を埋める唯一の希望のように思えてならなかった。
「……」
黒江は、腰に下げた胴乱にそっと触れた。面作りの道具を収めたその鞄は、丸盆と共にいつの間にか枕元へ戻されていたものだ。
革の蓋を押し上げると、使い慣れた彫刻刀や工具類に混じって、戦国の世にはあまりにも不釣り合いな電子機器が鎮座していた。
(携帯音楽プレイヤー……そっか、胴乱に入れっぱなしだったっけ)
気が滅入った時や落ち着きたい時の支えとなった、友人であり戦友ですらある文明の利器。
しかし今は、その友の声を聴くことも叶わない。
気心の知れた小太郎であればまだしも、天井裏で監視している見知らぬ忍にまで異国の道具を晒してしまうのは、さすがに精神的に堪えるものがあった。
黒江は未練を断ち切るように、静かに鞄の蓋を閉じた。
「……」
気が滅入り、夜風に何度目かの溜め息を零したときだ。不意に、ざわめく桜の向こう側から、確かな重みと鋭さを持った気配が近づいてくる。
「逃げる算段か?」
任侠すら感じさせる、低く地を這うような男の声。驚いて視線を向ければ、月明かりに照らされた回廊の柱に背を預け、悠然と腕を組む男の姿があった。
髪を隙なく後ろへ撫でつけた風体は、戦国というよりは極道の若頭を彷彿とさせる。昼間、あの少年が「小十郎」と呼んでいた男だ。
(忍の人がいない……この人に知らせたのか!)
仮面を通した世界を視れば、彼が放つ雷のような鮮烈な色彩が網膜を刺した。
意識を奪われる直前、力ずくで面を剥がされそうになった恐怖が鮮明に蘇る。黒江は瞬時に青ざめ、縋るように仮面を押さえながら、濡れ縁の上を無様に後退った。
その怯えきった様子を見た小十郎が、数歩手前でぴたりと足を止める。気難しそうに眉根を寄せると、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「あー……今はその面をどうこうするつもりはねえ。安心しろ」
「……」
「そう言われても難しいか? だが、差し入れた飯には何も入ってなかっただろう。それで納得してはくれねえか」
小十郎の言葉に、黒江は先ほど喉を通った握り飯の、素朴で優しい味を思い出した。
仮面越しに視る彼の纏う色彩は、今は凪いだ海を思わせる穏やかな青だ。敵意も害意も、今の彼からは感じられなかった。
黒江は強張らせていた肩の力をゆっくりと抜くと、相手の目を見つめたまま、小さく一度だけ頷いてみせた。
素直な反応を見て、小十郎は毒気を抜かれたように、意外そうな苦笑を漏らした。
「いや、さっきの発言の後でなんだが……ちっと警戒を解くのが早くねえか、お前?」
「……」
つい数刻前まで、鬼のような形相で胸ぐらを掴み、力ずくで面を剥ごうとしていた男の言葉とは思えない。あれほど容赦なく脅しておきながら、今度は「そんなんで大丈夫か?」とでも言いたげな、妙に保護者じみた心配顔を見せる始末だ。
そのあまりの落差に、黒江は声にならない深い溜め息をついた。呆れを通り越して、もはやどこから突っ込んでいいのかも分からない。
(──散々脅かして気絶までさせた本人が、それを言うな!)
胸中で叫び、じろりと睨みを利かせる。小十郎は黒江の言いたいことを察したのか、居心地が悪そうに視線を夜の庭園へと逸らした。
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お米とお酒とお餅が美味しいイメージ。
絶妙な塩加減の塩むすびは最高。