忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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04 奥州桜流し 5

 

 

 その日は、夜明け前からしとしとと重苦しい雨が降り続いていた。

 

 煙るように白く霞んだ庭先。濡れ縁には雨を遮る屋根がなく、叩きつけられる水飛沫が容赦なく板を濡らしている。黒江は、ほんのわずかに開けた襖の隙間から、色のない世界をぼんやりと眺めていた。

 

「……」

 

 相変わらず、喉の奥に張り付いた沈黙は解けない。それどころか、思考の隅々まで湿り気を帯びた霞がかかったようで、意識を繋ぎ止めることすら億劫になる。このままでは、あの小田原で過ごした大切な記憶さえも、降り続く雨に溶けて消えてしまうのではないか──。募る不安が胸を圧迫し、息苦しさに黒江は身を縮めた。

 

 ここは一体どこなのか。外の世界には何が広がっているのか。

 それらを探り、確かめる術は今の彼にはない。天井裏や物陰からは、絶えず監視の視線がまとわりついて離れず、許された自由は部屋から庭までの数歩の距離に限られていた。

 たまの厠や浴場にしても、常に誰かの気配を背後に感じなければならない。結局、仮面を剥がされる恐怖に怯えながら、烏の行水で済ませるのが精一杯だった。

 

 元の世界にいた頃よりも、あるいは小田原に身を寄せていた時よりも、状況は残酷なまでに悪化している。自身の意思とは無関係に強いられた「引きこもり」。

 世間ではそれを軟禁、あるいは監禁と呼ぶのだろう。

 隙なく張り巡らされた、見えない鉄格子の包囲網。

 お気に入りの音楽に逃避して現実を忘れることも叶わず、ただ虚無的に変わらぬ景色を眺めることだけが、彼に許された唯一の娯楽だった。

 

 籠の鳥、それよりもなお救いのない、閉ざされた世界。

 見知らぬ場所へと強制的に飛ばされてから、三日。

 黒江は底知れぬ退屈と、身を削るような孤独のあまり、ただ静かに死を待つような心地でいた。

 

 

 ※

 

 

 部屋の入り口付近、畳のひんやりとした感触を頬に受けながら、黒江は力なく寝そべっていた。耳に届くのは、単調に繰り返される雨音だけだ。

 濡れ縁の先には、雨に打たれる桜の樹がある。盛りが過ぎたのか、薄桃色の花びらはすでにだいぶ散り落ち、黒ずんだ地面を寂しげに覆っていた。

 小田原の桜は、今頃どうなっているだろうか。

 栄光門の近くで一人、静かに花見を楽しんだのは、確かについ先日のことだったはずだ。なのに、今ではそれが何十年も前の、遠い前世の出来事のように感じられてならない。

 小田原城天守閣の上、風に吹かれながら小太郎と二人で見つめた、あの吸い込まれるような夜景が、今は狂おしいほどに恋しかった。

 

(爺様……小太郎……)

 

 脳裏に浮かぶ二人の姿が、霧に巻かれたようにぼやけていく。それが目に滲んだ涙のせいであることを、黒江は切に願った。ぼやけているのは記憶ではない。視界だ、と。

 

 はらはらと、無情に桜が散っていく。

 それはまるで、自分の大切な記憶が指の隙間からこぼれ落ち、土に還っていく様を見せつけられているかのようだった。

 

「──っ」

 

 記憶が、消えてしまう? 

 不意に、底知れない恐怖が背筋を駆け抜けた。黒江は考えることを強引に打ち切り、湧き上がる焦燥を追い払うように歌を口ずさむことにした。

 

 どうせこの喉からは音一つ出ないのだ。

 ならば、どれほど声を張り上げようと存分に歌ってやればいい。誰の耳にも届かないのだから、天井裏で見張っている忍の存在など知ったことではない。

 そうだ。決して、聞かれることはない。自分の放つ言葉も、旋律も、この世界の住人には何一つ伝わりはしないのだから。

 

 ここには、自分が逢いたい人は誰もいない。

 心を通わせた者は何も、誰も、やって来はしない。

 

 かつて、あの絶望的な状況から救い出してくれた、伝説と呼ばれる忍でさえも──。

 今度ばかりは、来てくれるはずがなかった。

 

 

 ※

 

 

「ん──?」

 執務に当たっていた小十郎は、ふと書き物の手を止めて顔を上げた。どこからか、人の声を聞いた気がしたのだ。

 聞き慣れぬその響きには独特の強弱があり、まるで美しく紡がれた歌のようで──。

「……何処からだ?」

 耳を澄まさねば聞き逃すほどの、微かな音。小十郎は、天井の闇に向かって声を掛けた。

「おい」

「はっ」

「アレは何だ?」

「は。……アレ、とは?」

 潜んでいた黒脛巾に問えば、意外そうな返辞が戻ってきた。小十郎は筆を置き、外を指差す。

「アレだ。ほら、歌のようなものが聞こえるだろう。何処からだ、誰が歌っている?」

「うた、……ですか?」

「あぁ? 聞こえねぇのか。耳をよく澄ませてみろ。微かだが聞こえるはずだ」

「…………」

 長い沈黙が流れた。かなり間を置いてから、小十郎が呟く。

「……聞こえねぇのか」

「申し訳ありません。……無礼を承知で申し上げますが、雨音では?」

「いや……ああ、そうか」

 

 雨音。

 いや、違う。

 今、確かに聞こえているのは──誰かの歌声だ。

 小十郎は立ち上がると、襖を開けて黒脛巾に告げた。

 

「少し出てくる。梵が来たら、小用で席を外しているとでも言っておけ」

「……承知いたしました」

 忍である黒脛巾の男にさえ聞こえぬらしい、その「声」がする方へ、小十郎は廊下を歩き出した。

 

「……こっちの方角は──まさか」

 途中で、自分が向かっているのがあの仮面の男の部屋であることに気づく。足音も気配も完全に殺し、廊下を進む。その足が止まったのは、男のいる棟の廊下に差し掛かった時だった。

 

 

 ※

 

 

「……これは」

 聞いたこともない歌だった。

 歌詞は異国の言葉なのか、意味を汲み取ることはできない。けれども不思議な旋律で紡がれたそれは酷く美しく、小十郎の心に密やかに、しかし深く染み込んでくる。

 

(あいつ、声が出るのか?)

 失声は欺瞞だったか、と腰の刀に手が掛かりそうになったが、先ほどの黒脛巾とのやり取りを思い出す。

 忍の耳は常人より遥かに鋭い。その男が「聞こえない」と言ったのだ。

 

(何かの術か?)

 特に身に異変が起きる気配はない。考え込む小十郎の耳に、歌は今も響いている。

 何を歌い、何を紡いでいるのか。語りかけるようなその声は、一体誰のために。

 

 やがて、歌が途切れた。

 それと同時に、小十郎は仮面の男の部屋へと歩き出す。その眉間には深く、厳しい皺が刻まれていた。

 

 

 ※

 

 

「よお。邪魔するぜ」

 開いた襖の影から、小十郎が姿を現した。

 黒江は寝そべったまま目線だけを上げ、少しだけ口を動かした。

 

(いらっしゃい。若頭)

 どうせ伝わらないとは思いながらも。

 小十郎は部屋を見回し、さりげなく天井を一瞥してから、黒江に鋭い視線を落とした。

 

「誰かと話していたか?」

「……?」

(誰もいませんよ、若頭。ええ、『上の人』以外はね)

 小さく首を振る黒江を見て、小十郎は顎に手を当て、何かを深く考え込んでいる。

(そんなに見つめても何も出てきませんよ。だって、自分の声すら出せていないんですから)

 心の中で毒づきながら、黒江は乾いた笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめてみせた。

 小十郎が、ぽつりと呟く。

 

「じゃあ、今のは……何だ?」

「……っ!?」

(顔、怖すぎますよ、若頭!?)

 小十郎の眼光が鬼気迫るものに変わる。彼は一瞬で片膝をつくと、寝そべっている黒江の両肩を激しく掴んだ。

 

「──お前は何者だ」

「……っ!」

 詰問と同時に、畳の上に押し付けられる。

(痛、い……痛いって!)

 突然の暴行に黒江は混乱した。ただの気分転換に、音のない歌を口ずさんでいただけなのに、なぜこれほどの怒りを買わねばならないのか。

「何の術だ。狙いは何だ。何をしようとしていた」

(何って、何が──痛い、若頭! 肩が、折れる……!)

 万力のように軋む力に、黒江の目には涙が滲んだ。覆いかぶさるように押し付けてくる小十郎の肩を、必死に両手で押し返してもがく。

 

 迷い込んだ別世界。

 戸惑い、苦しみながらも出会いがあり、ようやく馴染みかけていた。

 それなのに、また見知らぬ場所に飛ばされ、檻のような軟禁生活。時間に押し潰されそうな孤独の中、ただ息を吐くように歌っただけなのに。

 それすらも咎められ、理不尽に責め立てられる。

 

 ……もう、嫌だ。

 

「──っ!」

「痛っ……あっ、てめえ!」

 限界だった。黒江は腕を振り上げ、小十郎の頬を殴りつけた。抑え込んでいた力が緩んだ一瞬の隙を突き、彼は弾かれたように部屋を飛び出した。

 向かったのは、雨に打たれる庭の桜だ。

 

「……っ!」

 桜の根元に辿り着いた黒江は、大きく両腕を振りかぶり、木の幹に叩きつけた。

 元凶であるはずの、この樹。声の出ない喉から、絞り出すような慟哭が漏れる。

 

「……──っ!」

(帰してくれ)

(元の世界までとは言わない。せめて、あの場所に)

(待っている人がいる、小田原に)

(お願いだから、帰して。……帰せよ!)

 

 ──もう、ここから出してくれ! 

 

 握りしめた拳を何度も打ちつけ、声にならない絶叫を繰り返す。大の男が見苦しいとか、情けないとか、そんな体裁はどうでもよかった。ただ叫びたかった。この声が、願いが、誰かに届いてくれればいいと。

 

「──っ! ……っ!!」

 激しい雨が体を濡らし、仮面の隙間からこぼれ落ちる雫を洗い流していく。

(お前が連れてきたんだろう! 私が何をしたっていうんだ!)

 寒さも痛みも感じない。ただ怒りと悲しみを桜の樹にぶつける。

(還せ! 小田原に戻せ!)

 氏政や小太郎と出会い、ようやく孤独から解放された矢先に、また知らない場所へ放り出され、飼い殺しにされる。ふざけるな。正体も目的も分からぬ何かに、心底苛立ちが募る。

 怒りはいつしか深い嘆きへと変わり、黒江は力なく木の幹を叩き続けていた。

 

「……もうやめろ。血が出てる」

 背後から伸びてきた力強い腕が、黒江の手を掴んで制した。

「悪かった。お前はただ歌っていただけで……俺が勝手に勘違いしたんだ」

「……っ、──っ!」

 小十郎の謝罪に黒江は激しく首を振り、両腕でその体を懸命に押し返そうとする。

(離せ! 離せよ!)

(悪かったなんて、思ってもいないくせに。どうせまた、怒鳴りつけるくせに!)

(帰りたい。帰りたいよ、爺様。助けて、小太郎……)

 

「……俺が、悪かった。すまねえ」

「──」

 逃れようと身を捩る黒江を、小十郎は力強く抱きしめ、耳元で静かに囁いた。

 硬い胸板に顔を押し付けられる。仮面越しに見えるのは、背後で様子を伺う忍の影と、眼前に広がる渦巻くような青い気配。

 そこには警戒、動揺、苛立ち、そして──謝罪よりも深い「憐憫」が混じっていた。

 黒江はがくりと項垂れ、男の謝罪を雨音の中に聞き流した。

 

 欲しいのは憐れみではない。

 欲しいのは謝罪でもない。

 

 謝るくらいなら、この檻から自分を放してくれ。

 黒江は声なき声で、ただそう叫び続けていた。

 

 





***

ぼんやりしているように見えて結構限界だった人。
あと気配が視えるのにずっと緊張しっぱなしなのもある。
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