忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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04 奥州桜流し 7

 

 

 文机に頬杖をつき、上半身を凭れかけて目の前で勉強に励む子供を眺める。

 時々、子供が顔を上げ、黒江を見て「どうだ、頑張っているぞ」とばかりににっこり笑うので、「いい子だな。頑張れ」と苦笑気味に頷いてやるのを何度か繰り返していた。

 

(この子は、側に人が居た方が捗るタイプか?)

 小十郎に言われた時はあんなに嫌そうだったのに、今は黙々と半紙に何かを書きつけている。字の練習だろうか、それとも勉強しているのかは黒江には解らない。

 傍らに、書きつけたものがどんどん溜まっていく。

 ざっと目で数えたところ、二十数枚ほど。その表面には、文字らしきものが、びっしり書かれていた。黒江が見ても読めないので、解読は諦めている。

 

(今日も張り切ってるなあ、梵ちゃん。いま書いてるアレ、何だっけ……草書体、だっけ?)

 一筆書き宜しく繋がって書かれている為に読めないものの、その書体は流麗で、達筆なのだということが見て取れた。

 筆先が迷いなく半紙を走る。乾く間も惜しむように次の一枚へ手を伸ばすその仕草は、子供のものというより、もっと年上の、何かに憑かれた者のそれに近かった。黒江はふと、この子がどんな気持ちでこれだけの枚数を書いているのだろうと思う。焦りなのか、意地なのか、それとも単純な喜びなのか。

 

(この年で、しかも男で綺麗な字が書けるのって凄くない?)

 集中している子供に感嘆し、心の中で凄いなと呟く。

(やれば出来る子、っていうか……将来、良い男になるの確定したなコレは)

 黒江は微笑ましい目で梵天丸を見つめ、それから襖のほうへと視線を流した。

 監視の目を行き届かせる為に少しだけ開け放たれている襖。昨日までならそんなことすらも神経に障っていたところが、今は心が乱れない。

 それは、目の前で熱心に勉強する子供が居るせいか。

 それとも、僅かに開いた襖の間から日の差す庭が見えているせいか。

 縁側の向こう、陽光が庭石の苔を照らしている。どこかで鳥が鳴いている。

 こんなふうに穏やかな午後が、この屋敷にもあるのかと、黒江は思った。少し小田原に似ているかもしれない。

 

(ま、どうでもいいか)

 口元に笑みを浮かべて、黒江は目を閉じる。最早おなじみとなった天井裏にいる人も、気にならなくなりつつあった。

 

 

 ※

 

 

「……」

 梵天丸は手を止めて、黒江を見つめていた。

 見惚れ、聞き入るのは不思議な旋律の歌。

 

 初めは書道に集中していたのだが、ふと何か聞こえた気がして顔を上げた。

 見れば、文机に肘をついた黒江が目を閉じている。眠ってしまったのかと思ったが、少しばかり様子がおかしい。

 よく見れば、黒江の唇が微かに動いている。梵天丸が聞いた音は、そこから零れていたのだ。

 

 旋律、と呼ぶには頼りない。声量などというものはほとんど無く、吐息に近い。それなのに、耳の奥ではっきりと形をなして響く。音というより、直接胸の内に落ちてくるようだった。筆を持ったままの手が、いつの間にか膝の上に下りていた。

「……」

 何の歌だろう。

 紡ぐ言葉は聞きとれないが、どこか胸を打つのはその調べが美しいからか。

 それは、誰かの為に歌っているような気がした。

 梵天丸は、初めて黒江の歌を聞いた後、小十郎に報告した際に彼から聞かされたことを思い出す。

 

 それは、黒江の「歌」が一部の人間──今のところ、梵天丸と小十郎だけ──にしか聞こえないということだ。

 原因はわからない。小十郎は渋い顔をしていたが、梵天丸はそれで黒江はやはり天女なのだとすっかり思い込んでしまった。

 顔を半分隠した、声を持たない正体不明な男。本来ならばお抱えの黒脛巾に引き渡し、地下牢にて尋問しているところなのだが──それは梵天丸が断固として許さなかった。「俺の天女殿に無礼は許さぬ」と言って。

 

 小十郎が言った──「何故そこまであの者に執着するのです?」

 梵天丸は答えた──「分からない。ただ、桜の下に居たあの人は、俺に優しく微笑んでくれたのだ」

 

 母と弟の事について考えていた。

 差し伸べられない手。掴んでもらえない己の手に視線を落とし、落ち込んでいた。優しく名を呼ばれたのはいつだったか、もう思い出せない程に遠い。

 弟の手は繋がれて、自分は手放されて──離されて。

 そのせいかもしれない。

 不意に出現した見ず知らずの人間に、柔らかな笑みを向けられたあの瞬間、心の臓がきゅうっとなった。

 仰向けに横たわった彼の人の上に、桜の花が舞い落ちて、それがまた幻想的で……ああ、この人は天女なのだ、と思った。

 

「あの人は、俺を慰めようとして空から落ちてしまったんだ、だから俺が責任を持つ。頼む、小十郎!」

 ──そんな事を必死になって伝えれば、小十郎は渋い顔をしたが、それでも幼い主君の言葉に従って黒江の身柄を一時預かりにしたのだった。

 

 そんな事情が密かに動いていたことなど、黒江は勿論知らない。文机に頬杖をついて目を閉じつつ、無意識に小さく唇を動かして声無き調べを口ずさんでいる。相手に聞かれているとも知らないで。

 

(俺の為に歌ってくれているのだろうか)

 梵天丸は、一瞬そんなことを考える。

 けれども、静かな声で歌う黒江の姿は梵天丸には遠いものに見えた。

 それはまるで、散り終わる桜のようでいて。

 

 遠い、と思う。

 同じ部屋に居るのに、触れれば届くはずの距離に居るのに、その人はどこか別のところに居るような気がした。目を閉じて唇だけ動かし、誰かを──梵天丸には知る由もない誰かを──思っているような。そう気づいた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。

 羨ましいのか、寂しいのか、自分でもよく分からないまま。

 

「……っ、天女殿っ!」

 思わず、大きな声で話しかけてしまった。

 止まる歌。黒江が目を開けて、梵天丸を見る。

 

「……?」

 急に声を上げてどうした? というように黒江が首を傾げる。

(あ、別に寝てたわけじゃないから。ちょっと目を閉じてただけで。気に障った?)

 黒江がそんなことを考えながら手を合わせて苦笑すれば、梵天丸が足早に近づいてきた。

 

「天女殿っ!」

「……?」

 突進する勢いで飛び込んできた小さな体を受け止めて、黒江はその頭を撫でてやる。

 思いのほか重く、熱い。子供の体はいつでも体温が高いのだと、黒江はぼんやり思う。ぎゅう、と力を込めて背中に回された腕が、さっきまでの達筆と同じ手のものだとは少し信じがたかった。

 

(んん? どうした梵ちゃん。急に抱き着いてきて。勉強は済んだのか?)

 黒江は、梵天丸が居た文机の上を覗いてみたが、書き付けが数枚ほど増えている他は変わったものはない。

 つまり、まだ仕事は終わっていないはずなのだが、疲れたのだろうか? 

 袖が破れそうなほどの力でしがみつく子供の背を撫でてやりながら、黒江は天井に視線を向けた。

 気配を察知できることを隠すのをやめて、天井に居る人に向かって手招きすれば、相手から驚く気配が視えたのは、まあ予想の範囲内。なかなか降りてこなかったが、いつまでもしがみついて離れない梵天丸を指し示したことで、ようやく姿を見せてくれる。

「──。──」

 無言で目の前に立った監視役の忍に、茶を飲む仕草をして見せれば、相手は少し考える素振りをした後でこくりと頷き、天井裏に消えた。

 

 そのまま待つこと、しばし。

 梵天丸は何も言わなかった。ただしがみついたまま、黒江の袷に顔を押し当てている。時折、鼻を啜る音がした。泣いているのか、それとも単に顔を埋めているだけなのか。黒江には判断がつかなかったが、どちらにせよ、急かすようなことはしなかった。背を撫でる手を止めないまま、ただ待った。

 部屋に近づく気配と足音がして、襖をスパンと開いた男は部屋の中を見るなり呆れた声を出した。

 

「それは何の勉学でしょうか、梵天丸様?」

 地を這うようなドスの利いた声に、梵天丸が顔を上げた。

 

「小十郎!?」と血相を変えるなり、黒江からぴやっと離れる。黒江は、やや皺くちゃになった襟元を軽く整えると、小十郎に向かって身振りで「なんでもない」と片手を上げた。

 小十郎はちらと黒江を見た。何かを確かめるような、短い視線だった。

 黒江はそれを受け止めて、軽く肩を竦める。別に、ただ子供が飛び込んできただけだ。問題ない。そういう意味を込めて。

 伝わったかどうかは分からないが、小十郎はそれ以上何も言わなかった。

 やれやれと溜め息を吐いて、小十郎が部屋の中へ入ってくる。そして、畳の上に盆を置きながら「休憩の時間です。少しお手をお休みくださいませ」と言った。

 盆の上に乗せられた茶と茶菓子を見て、梵天丸が目を輝かせる。いそいそと小十郎の元に駆け寄るその背を微笑ましげに眺めていれば、小十郎と目が合った。

 

「何やってる。お前の分もあるんだ。来い」と手招きされて、ええっ!? となった。

 

 

 ※

 

 

(……あ、ずんだ餅だ)

 

 目の前に置かれた茶菓子を見て、黒江は心の中で小さく歓声を上げた。

 鮮やかな緑色の餅菓子。懐かしさが胸の奥に灯り、自然と表情が綻ぶ。

(わー。美味しそう!)

 黒江は手を合わせ、「いただきます」と言葉の形だけ唇でなぞってから、餅に齧りついて……ひた、と動きを止めた。

 

「どうした? 口に合わなかったか?」

 突然動きを止めた黒江を見て、小十郎が話しかける。

 だが黒江は反応せず、口の中のものを咀嚼しながら手にした餅に視線を落とした。

 

「……」

 これは確か、東北地方の名物だったような。

 ずんだ餅。芋煮。

 料理をするのが好きな武将がいたはずだ。

 確か、名は──……。

 

(あれ……誰だったっけ……?)

 思い出そうとするのだが、途中で頭がぼんやりして思い出せない。

 まるで靄の中に手を伸ばすようだった。指先に触れる気がするのに、掴もうとした瞬間にするりと抜けていく。

 名前だけでなく、輪郭も、声も、温度も──何もかもが霞の向こうに引いていく。

 記憶が霞む感覚に、眉を顰めたその時だった。

 

「おい、大丈夫か? ──おい!」

(お、おおおおお!?)

 小十郎がその肩を掴んで、軽く揺すってきた。

 それで、思い出しかけていた記憶が消し飛んでしまう。

 おまけに、驚いた勢いで餅が喉奥に滑り込み、息が詰まりかけた。

 

「……っ! ~~っ!」

 胸を叩き、側にあった湯呑みを掴むと一気に飲み干した。

「……っ、……っ」

 はー。死ぬかと思った。

 黒江が、仮面の奥で涙を滲ませた目を瞬かせていれば、小十郎の笑う声がした。

「ハハッ。天女も餅を詰まらせるんだな」

「小十郎、それは失礼だろう」

「……」

 誰のせいだ、と黒江は言いたくなる。

 

 死の淵に立ちかけた人間を茶化さないでください若頭。

 あと、いきなり肩を掴んで揺さぶるの勘弁してください、あなた地味に力強いんですから。

 それとなく肩を擦り、黒江は食べかけの餅に再び齧りつく。

 

 思い出しかけていた『何か』は、完全に忘れてしまっていた。

 

 口の中にずんだの甘さだけが残っている。

 懐かしく思ったあの感情の正体が分からない。

 

 それが何だか、妙に寂しかった。

 

 





***

何かに気づく度に雑音が走り、思い出そうとする度に靄がかかる。
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