かちゃ、かちゃ、と陶器が軽くぶつかる音がした。
人の気配と、気を遣っているつもりなのだろうが隠しきれていない足音が近づいてくる。
(あー、今日も来たなあ)
それらを襖越しに聞きながら、黒江は苦笑を浮かべる。足音と気配が部屋の前で止まり、声がした。
「天女殿、天女殿、お目覚めか」
「……」
はいはい、お目覚めですよー、と襖に近づいて開けてやれば、そこには膳を手にした子供が立っていて、黒江を見て微笑む。
「食事をお持ちしました。さあ、頂こう!」
にこにこと元気いっぱいに笑う梵天丸。その背後には、眉間に皺を寄せて難しい顔をした男が立っている。彼は器用にも両手で二人分の膳を持っており、黒江をチラと一瞥して口を開いた。
「……悪いが、今日も付き合ってやってくれ」
馴染みとなった口上を、うんざりした声で言う。
見知らぬ場所での生活、十日目。
黒江は自分の部屋で、梵天丸と小十郎と共に食事を摂るようになっていた。
※
そもそもの切っ掛けは何だったのか。
食の細くなった黒江に最初に気づいたのは、意外にも梵天丸ではなく小十郎だった。
「お前、ちゃんと食べてないだろう」
濡れ縁に腰掛けて時間を磨り潰していた黒江は、そんなことを言われて驚いた。当たっていたからだ。
それでも、「何のことですか?」と誤魔化すように首を傾げつつ話の先を促せば、頭を掻きながら小十郎が言った。
「女中たちが心配していたぞ。俺の方に、わざわざ報告してきたんだ。天女殿は、どこか具合が悪いのでしょうかってな」
「……」
それを聞いた黒江は、申し訳なさそうに眉を下げる。
確かにこのところ、黒江は供された食事に箸をつけていない。味が悪いとかではなく、食が進まないのだ。
しかも、あまり空腹を感じなくなっているのだから、少々性質が悪い。
自分のことながら「これはマズイんじゃないか?」と一人悩んでいたが、とうとう小十郎から指摘されてしまったので気まずくなった。
思い当たる節はある。
食欲がないその原因は──。
(十中八九ストレスです、ありがとうございました)
どうやら、思っていた以上に参っているらしい。今のところ胃痛はないが、時間の問題ではないかと思う。
しかし、それを説明することが黒江には出来ない。小十郎が怖い顔をして見つめてきているが、それが不信からのものではないのだと、仮面越しに視える気配が伝えている。これは某日の夜、黒江が桜の木に取り縋ってみっともなく泣いて以来の変化だ。
もっとも、黒江自身も「いい大人がアレは無いだろう、アレは」と落ち着いたころに布団の中で大変に身悶える羽目になった出来事でもあったので、無かったことにしてもらいたくもある。
そのような経緯があってから、小十郎は少しだけ優しくしてくれるようになった。
猜疑の念はあるだろうが、それをうまく隠して付き合ってくれている。
そんな譲歩を見せてくれた相手に「食欲が無いのはストレスで、貴方たちが原因です」──などと言えるわけがない。
故に黒江は説明できず、苦笑のみを浮かべて固まっていると、それを見ていた梵天丸が言ったのだ。
「天女殿はお寂しいのだろう。よし、これからは俺も膳を共にしよう!」
「……!?」
子供の元気な発言に、ぎくっとしたのは黒江。
(えっ。寂しくないよ。天井裏にいつも人がいるから寂しいどころじゃないよ!?)
「梵天丸様!」
「何だ、小十郎。心配なら、お前も付き合えばいい」
俺の部屋で、と言いたいところだが、それでは貴方に妙な疑いがかかるかもしれない。だから、俺が貴方の部屋に失礼させていただく形となるのだが、構わないか? と、若君が仰せになる。
その場を押しとどめようとする小十郎をよそに、彼は黒江に目を向けて微笑みかける。
「構わないか?」と意思を訊ねてはいるが、この若様は押し切ってくるだろう。
何というか、表面上は丁寧に扱ってくれるのだが、彼は時々、こう、ぐいぐいとくる時が多々ある。
黒江は、この若様が大人になったら超強気な俺様人間になるんじゃないかと思っている。あくまでも、予想だが。
「……」
内心で溜め息を吐き、梵天丸の隣に居る小十郎に『どうします、これ』という風に視線を向ける。
すれば、小十郎はこれ以上ないほどに深い皺を眉間に刻んでいたが、やがて諦めたように言った。
「……俺も同席する。だから、お前も付き合ってやってくれ」
──以上が、黒江が三人で食事を摂ることになった経緯である。
※
「ふむ。今朝は鰹があるな。美味そうだ!」
「……」
嬉々として椀の蓋を開ける梵天丸を横目に、黒江は本日も乾いた笑いを浮かべる。
(朝食に鰹とアワビって、本当にココってどういうレベルのお宅……!?)
そして、これらの椀の豪奢なこと。
黒塗りの漆に金の模様が装飾されている。これ一つで幾らぐらいなんだろう、と庶民の黒江は考える。
これで桜餅が何個買えるかなーとか、そういえばそろそろ彫刻刀を新しく買い替えなきゃなーとか。
軽く現実逃避してから、小十郎に「おい、ぼうっとしてないで食え」と声を掛けられるまでが日課だ。
今日も食べきれるよう、頑張ろう──と。
食膳に目を向けた黒江だったが、椀に伸ばしかけた手をぴたりと止めた。
「……」
小鉢の一つに、赤黒いものがベタリと貼りついている。
血でも汚れでもないソレを、黒江はじっと見る──視えているものが示しているのは警告に他ならない。
「どうした?」
小十郎が声を掛けてきた。黒江が顔を上げ、彼らの食膳に視線を移す。すると、小十郎のものには無かったが──梵天丸が手にしている椀にはソレが視えた。
鉄錆の匂いがするような不吉な赤い色。
何だか分からないが、背筋がぞわりとした。
「……っ!」
「天女殿? なに──っ……!」
椀の中身に手を付けようとした梵天丸を見て、黒江は思わず飛びかかってしまう。
立ち上がった際に自分の膳に足が当たってしまい、がちゃんと大きな音を立てて、ひっくり返った。
「お前、何して──っ」
小十郎が、血相を変えて駆け寄った。そして、畳の上に尻もちをついた梵天丸に倒れ込む格好となった黒江の襟首を掴んで引き剥がす。
「血迷ったかっ!」
子猫のように片手で襟首を持ち上げられた黒江は肩で息をして首を振りつつ、力無く自分の膳と梵天丸の膳を指差した。
「あぁ? 何だってんだ」
「……」
小十郎が、黒江から手を離す。ずるりと畳の上に座り込んだ黒江は、畳の上にぶちまける形となってしまった椀の中身──嫌な赤い気配が貼りついていたもの──を手に取ると、それを小十郎に差し出した。
「……」
「だから、それが一体何だと……──っ!?」
黒江と、黒江が差し出した煮物の中身を訝る眼で見ていた小十郎だったが、不意にハッとした顔をして近づくと、剣呑な目つきをして。
「……おい。いるか」
「──ここに」
受け取った煮物を見つめながら、小十郎が上を見もせずに呼びかければ、彼らの側に黒い影が降りたった。控える忍に、黙って煮物の欠片を差し出す。
「──調べてくれ」
忍は少し驚いた顔をしたが、頷いてそれを受け取り、また姿を消した。
「小十郎、何が」
呆気に取られていた梵天丸が、ようやく口を開いた。それに苦笑を返して、小十郎が答える。
「少々お待ちください。間違いかも知れませんので」
穏やかな声でそう告げながら、小十郎は側の畳に目を向ける。そこには飛び散った煮物があり、申し訳なさそうな様子でせっせと拾い集めている黒江が居た。
それを半ば呆れた顔で見つめていれば、先程姿を消した忍が戻ってきて報告する。
「片倉様」
「おう。どうだった」
「……検出されました」
「……そうか。分かった。──おい。片付けは他の奴に任せるから、お前は俺と一緒に梵天丸様の部屋に来い」
「……?」
ひっくり返った膳を戻し、落ちた煮物や小鉢の中身を片付けていた黒江が顔を上げる。
「小十郎?」
「梵天丸様、後でご説明いたします。今は、ここから退出してください」
状況に追いつけずポカンとしている梵天丸と、煮物で手をべたべたにした黒江に、この場を離れるよう促す小十郎。
部屋から追い出すように二人の背を押して、小十郎は忍に「後は任せたぞ」と呟いた。
※
「あれは、確かに毒見がされたものだった。……なのに、何故分かった?」
梵天丸の部屋に移動するなり、小十郎が口を開いた。黒江を睨みつけ、ドスを利かせた低い声で問う。
小十郎の胸の前で組まれた両腕は、小刻みに震えていた。恐らく怒りを押し殺しているのだろう。だが、その怒りの矛先は別のものに向けられていることを、黒江は仮面越しに知る。
「小十郎、そう怖い顔をするな。天女殿が怯えている」
黒江の手を清潔な手拭いで拭きながら、梵天丸が諌める。黒江は毒が入った煮物に直接触れていたので、解毒薬を溶いた湯でしっかり洗わねばならなかった。
これくらいなら自分で出来ると身振りで伝えて遠慮したのだが、どういうことか梵天丸は世話をすると言い出したのだ。貴方は命の恩人だからと言って。
下男のように甲斐甲斐しく黒江の手を清めつつ、小十郎には主人たる態度で諌める若君。
窘められた従者はというと、苦虫を噛み潰した顔をして咳払い一つ。
「……。あー、その……梵天丸様を助けてくれた恩人に、掴みかかったり睨んだりして悪かった」
申し訳なさそうに頭を下げた小十郎に、黒江は首を振って苦笑する。客観視したら、小十郎の反応も無理もないと思えたからだ。
かといって、「なんで分かった?」の問いに答えを返せないのには困惑する。
ジェスチャー……身振り手振りでどうにかできるだろうか?
黒江は悩んだ末、手話のような動作で再び語ってみることにした。
「……」
「おう。何だ。また、それか?」
小十郎に頷いて、黒江は手を動かしはじめた。
両手で椀を持ち、中を覗き込んで、匂いを嗅ぐ。そして、最後に首を振った。
「……匂いで分かった、って言いたいのか」
「……」黒江は頷く。本当は身につけている仮面が教えてくれたのだが、それを話したら今度こそ有無を言わさず剥がされるだろうと思ったのだ。
騙すのは気が引けたが、この面が剥がされるほうが一大事です。
昔の人は言いました。嘘も方便って大事よね、と!
小十郎は、何も見逃さないという眼で黒江を見つめていたが、やがて、ふうっと息を吐いた。
「……救われたのは事実だ。その説明で我慢しといてやる」
そう言って、黒江の頭をぐりぐり撫でた。よくやったな、というように。
「俺からも礼を言う。感謝するぞ、天女殿!」と胸の中に遠慮なく飛び込んできた梵天丸を、黒江は仰け反りながら受け止める。その際、咄嗟に小十郎が後ろから背を支えてくれたので、どうにか畳に頭を打ちつけずに済んだのは幸いだった。
黒江が顔を上げ、小十郎に感謝の仕草をすると相手が肩を揺らして笑う。
「それくらいじゃ借りは返せていねぇけどな。……さて、と。じゃあ、仕切り直しといくか」
黒江の頭をぽんと叩いて横を通り過ぎ、小十郎は廊下に出る。刹那、鋭い視線を物陰に向けて低い声を投げた。
「……」
「御意」
影から声が答え、気配が消える。毒見を擦り抜けた毒。これからは、警戒をもう一段階引き上げねばなるまい。
ともあれ、考えるのは後だ。背後では、小さな主君と毒探知の功労者が台無しになった食事を待っている。
「──良いぜ。入って来い」
ぱん、と小十郎が手を打ち鳴らせば、開いた襖から万全な環境下で作られた料理が運ばれてくる。
新たに運ばれてきた膳は湯気が立ちのぼり、漆器から伝わる温かみが手に心地いい。先ほどの鉄錆のような澱みは消え去り、今度は季節の食材が持つ正しい命の匂いがした。
(これは大丈夫みたいだな)
黒江は、今度こそ楽しく食事を始められるなと思った。椀を手に取り、煮物を口に入れれば地味ながらも出汁の香りが口内に広がる。喉を通る料理の味は、先ほどよりもずっと温かかった。
同じように煮物を頬張り、満足そうな梵天丸と、その様子を険しい雰囲気で、けれど表情はどこか穏やかに見守る小十郎。
仮面の下の口元を緩め、黒江はそっと息を吐き出す。
毒が消え去った後の空気が、やけに澄んで美味しく感じられた。
少し──ほんの少しだけ、この光景をもう少しだけ見守っていたいと思った。
***
結構、間一髪。
小十郎さんは気苦労多そう。