忍遠矢と風の檻   作:黒環ななし

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04 奥州桜流し 9

 

 

 梵天丸の食膳に混入された毒を黒江が察知し、間一髪で未遂に終わらせたその一件は、屋敷の空気を根底から変える転換点となった。

 若君である梵天丸の黒江に対する眼差しは、特に解りやすかった。

 

「天女殿、今日も俺の側にいて見守っていてくれ!」

 それまでは天女という神秘的な偶像として見ていた梵天丸だったが、己の命を守るために迷いなく飛び込んできた黒江の姿に、今度は「自分を救い出してくれる唯一の存在」という熱烈な敬愛を抱くようになったらしい。

 書道の最中にふと見せるその視線などは、もはや好奇心ではなく、絶対的な信頼が宿っている。

 

 一方で、片倉小十郎の硬質な態度も、驚くほどに軟化していた。

 

「おう、天女殿。今日も梵を頼むぜ」

 あれ以来、小十郎は黒江を単なる「正体不明の捕虜」として扱うことをやめたのか、態度が幾分柔らかくなった。梵天丸を命懸けで守り抜いたその行動が、何よりも雄弁に、小十郎の警戒心を解いてしまったのだ。

 かつてのように黒江の挙動に鋭い視線を投げつけることは減り、代わりに、食事の際に見せる小十郎の横顔には、まるで身内を見守るかのような眼差しが混ざるようになっていた。

 

「……」

 黒江自身は、相変わらず言葉を発さぬまま、ただ仮面の下で苦笑を浮かべている。

 当初は監視の檻でしかなかった見知らぬこの屋敷が、梵天丸の無邪気な熱と、小十郎の無骨な気遣いによって、次第に黒江にとって抗いがたい「居場所」へと変貌しつつある。それに気づいた黒江は、気持ちをうまく整理できずにいた。

 

 ただ、どれほど周囲が温かくなろうと、黒江の心の奥底には常に消しがたい郷愁が沈殿している。

 ふとした瞬間に訪れる静寂の中で、黒江は、声にならぬ吐息を小さく漏らした。

 思い出すのは、小田原での日々。

 時々、遠い夢のように霞むことがある。それでも、あの空や懐かしい湯の感触を思い出す度に気持ちが込み上げてくるのだ。

(……帰りたいなあ)

 氏政や小太郎は、今頃どうしているだろう。騒ぎになっていないと良いのだが。

 

(と、いうか……そろそろお湯に浸かりたい!)

 

 ──実のところ、これが一番切実な叫びだった。

 

 この屋敷にも風呂はあるのだが、それは黒江の知る「湯浴み」とは似て非なるものだ。

 熱気を閉じ込める、あの蒸し風呂の感覚。

 それは、現代にあるサウナのようだった。

 元々、この時代にとっての入浴は薪を大量に消費する贅沢品であることは理解しているし、それがどれほど貴重なものかも分かっている。──分かってはいるのだが、やはり肩まで浸かって体の芯まで温まる、あの湯の感覚が恋しくて堪らない。

 ちなみに、今は監視の目があるのでずっと「水浴び」しか出来ていない。水で濡らした手拭いで身体を拭くだけ。これが今の黒江の入浴だった。

(温かいお湯が恋しい……)

 胸中で小田原への望郷に浸りつつも、黒江は膝の上で静かに座る子供の肩口を、ちょんちょんと軽く叩いた。

 

「ん? なんだ、天女殿」

 梵天丸がくるりと振り返り、不思議そうに黒江を見上げる。

 その無垢な瞳を前にして、黒江は少しばかりの躊躇いを抱いた。

 実は、この近くに温泉がないか尋ねてみたかったのだ。もし徒歩で行ける距離にあるなら、これ以上の喜びはない。

 とはいえ、自分には声を出す術がない。

 結局のところ、身振り手振りという極めて不自由で、かつ非常にもどかしい手段を使って意思を伝えなければならないのだった。

 

(……よし、ここはどうにか頑張ってみよう!)

 黒江は意を決して、梵天丸の視線の前で両手を動かし始める。

 まずは空中で大きな円を描き、自身の体を抱きしめるようにして「温かさ」を表現する。それから、地面から湯気が立ち上る様子を手で模してみせた。

「うん? 一体何を……」

 梵天丸は首を傾げつつも、黒江の仕草に目を凝らす。

 果たして、この拙い伝達は若君の心に正しく届くのだろうか。黒江は面の下で微かに息を潜め、相手の反応を待った。

 梵天丸は難しい顔をして首をひねり、しばらく思案したのち、ようやく合点がいったのか、ぽつりと応じた。

 

「ああ……貴方は、湯浴みがしたいのか」

 梵天丸の言葉には、どこか悔しげな響きがあった。

 天女である黒江の望みであれば、どんなことでも叶えてやりたいという純粋な願い。

 しかし、屋敷における水や薪の消費は馬鹿にならないことを、彼は子供なりに理解していた。

 どうして湯を張ることが難しいのか、その理由を丁寧に、そして申し訳なさそうに説明する若君は代替案を出してきた。それが先程の「蒸し風呂」だった。

 黒江は内心で自らの軽率さを恥じた。落ち込みそうになった若君の背中を叩いて慰めた後、唇を噛んだ。

 

(……大人が、子供にこうも気を遣わせてどうするんだ)

 ただ自分の欲求を満たすためだけに、幼い若君を悩ませてしまった。黒江は、己の贅沢さを厳しく諫める。

 

(そうか、小田原の時は温泉が近かったから喜んでたけど、よく考えたら湯を沸かす作業が大変なんだよなこの世界って)

 当たり前だったものが、ここでは通用しない。

 あの小田原で過ごしていた日常は大変に贅沢な代物だったのだな、と強く実感する次第だ。

 

(……まだちょっと、現代の贅沢さが残ってたな。反省しよう)

 黒江は息を吐き出すと、きっぱりと入浴の望みを諦めた。

 ここはもう、この地にある風呂を心から堪能してやろう。

(うん。蒸し風呂って珍しいし、これはこれでいいよな! これも一応、お風呂なんだし!)

 気遣わせてしまったという罪悪感から、黒江はそっと梵天丸の頭に手を置き、ポンポンと軽く叩いた。

 そのまま無意識に手を繋ごうとして、梵天丸の小さな手を取った瞬間、黒江は指先に違和感を覚えた。

 

(──あっ。この子、指先がひび割れてる!)

 

 視線を落とした先で梵天丸の幼い指先が目に入り、黒江は言葉を失った。そこにはあちこちに痛々しいひび割れやあかぎれがあったのだ。梵天丸の日常が、黒江の知る現代の子供と違うことの証拠でもある。この子供は、ちょっとした「お稽古」ではない毎日を過ごしているのだ。

(これはちょっと見過ごせないな)

 そんな子供の手荒れを目の当たりにした黒江は、迷わず懐に手を伸ばした。

 衣の合わせ目から取り出したのは、掌よりも一回り小さい桐の小箱。蓋を開ければ、ほのかに甘い香りが漂う。

 それはかつて小田原の城で、乾燥によって荒れた己の手を見かねて、あの大柄な忍が作ってくれた蜜蝋の軟膏だった。

 

(……小太郎って、ほんと、色々してくれるよなあ)

 不意に脳裏をよぎった銀朱の髪と、無言で差し出された大きな手の感触。

 懐かしさに目の奥が微かに熱くなり、視界が滲む。黒江は慌てて気持ちを落ち着かせ、二人に気づかれる前にさり気なく袖で拭った。

 

 ともあれ、これさえあれば若君の柔らかな肌もすぐに癒えるはずだ。

 その小さな手を指先で包み込もうとしたところで、黒江はふと動きを止めた。

 

(──待てよ。まずは保護者の許可を取ってからにしたほうがいいよな?)

 

 途中で思いとどまり、黒江はそっと箱を握り直した。

 ここは小田原ではない。

 自分は素性すら明かさぬ、この屋敷の怪しい居候なのだ。見ず知らずの人間が持ち込んだ正体不明の塗り薬など、何を疑われるか分かったものではない。毒でも仕込まれているのではないかと、あらぬ疑いをかけられる可能性だってある。不信の芽は、できる限り最初から摘み取っておくべきだ。

 黒江は首を巡らせ、キョロキョロと周囲を見回した。

 しかし、普段なら必ずと言っていいほど梵天丸の近くに控え、警戒に目を光らせているはずの、あの厳つい青年の姿が今回は見当たらない。

 

(あれ。ついさっきまでそこにいたのにな)

 

 心の中で密かに『若頭』と呼んでいる男、片倉小十郎。この屋敷における立ち位置からして身分は相応に高いはずだが、あの男には神出鬼没なところがある。初めのうちは黒江を毒虫でも見るかのように警戒し、ずっと視界の端に存在していたものだが、最近は監視の紐が緩むことも多くなっていた。

(まあ、ずっとこっちに構ってられないよなあ、若頭も)

 忙しい身なのだろう、と黒江は軽く納得する。梵天丸の幼い手に軟膏を塗ってやりたいというささやかな願いは、どうやら目付役不在のために一時不発となるらしい。

 

 黒江は改めて、膝の上で遊ぶ梵天丸の手を見下ろした。

 所々に赤く切れた跡があるその肌は乾燥して荒れ、子供のものとしてはとても痛々しい。

 

(いや、やっぱり手当てしてあげたいな)

 今度は、ゆっくりと視線を天井へと向けた。

 そこには、この主君の護衛であり、同時に黒江の監視役でもある忍たちが常に潜んでいる。

(……こっちに聞いてみようか)

 黒江は膝上の梵天丸を抱え直しつつ、天井の暗がりを見つめながら、控えめに手招きをするような仕草をした。

 すると、天井裏に潜む忍たちの気配が、一瞬だけ鋭く波打つ。黒江の眼には、彼らの動揺と困惑が、まるで水面に投げ込まれた石が作るさざ波のように、色彩のうねりとなってはっきりと視えていた。

 

 

 ※

 

 

 天井裏で忍たちの気配が激しくせめぎ合っている。どうやら誰が降りるかで相談し合っているらしい。

 やがて決着がついたのか、ひとりの忍が音もなく滑り降りてきた。

 忍は身構え、黒江を射抜くような鋭い眼差しを向けた。

 黒江はというと、こちらに敵意など微塵もないのだということを示すように、ゆっくりと両手を上げて見せた。

 降伏の仕草。それから静かに懐へ手を入れると、先ほどの桐の小箱を忍へと差し出した。

 忍は疑わしげに黒江と箱を交互に見た後で受け取ると、指先に少量の膏薬をとり、鼻を近づけて確かめた。

 瞬間、男の表情が変わる。

「ほう」と小さな感嘆の声が漏れるのを黒江は聞いた。

 

「これは……練り薬か。このような上質なものは見たことがない」

 その呟きを聞いて、黒江は心の中でふわりと花が咲くような嬉しさを覚えた。

 

(でしょ? それは伝説の忍、風魔小太郎のお手製なんですよ。凄いでしょー!)

 そう自慢気に語りたくなる衝動を抑える。声が出せないというもどかしさが焦れったくなるが、いま優先すべきはそれではない。

 忍は箱を恭しく黒江へと返すと、「それで?」と顎をしゃくって先を促した。

 黒江は短く頷くと、梵天丸の痛々しく荒れた手に目をやり、これを塗ってやりたいのだと身振り手振りを交えて懸命に説明を試みる。

 言葉はなくとも、慈しむようなその動作から、黒江の意図は伝わったようだった。

 

「……」

 忍は無言で、梵天丸の手と黒江の顔を見比べる。少し間を置いた後で、短く首を縦に振った。薬を使用して構わないらしい。

 読み取りの鋭い男で良かったと、黒江は胸を撫でおろす。

 

 許可を得た黒江は、膝の上の若君へと顔を向けた。その小さな肩を軽く叩いて塗り薬を見せれば、状況を察した梵天丸が、いたずらっぽく笑って頷いた。

 黒江は梵天丸の手を引いて縁側に腰を下ろす。自分の胸元へ軽く凭れさせて安定した体勢を作ってから、その小さな手を取った。

 手元の小箱から指先で蜜蝋の軟膏を取り、丁寧にかさついた肌へと塗り伸ばしていく。

 黒江は梵天丸の指先から掌にかけて、冷えた肌を温めるようにゆっくりと円を描く。指の動きに合わせて、荒れていた皮膚が次第に潤いを取り戻し、子供特有の柔らかさへと戻っていく。

 

 黒江は面の下で満足げに口元を綻ばせた。

 梵天丸もまた、自分の手を見つめていた。さっきまで痛々しくひび割れ、強張っていた指先が、信じられないほど滑らかでしっとりとした質感に変わっている。その魔法のような変化に、若君は目を輝かせ、感動に震えるような吐息を漏らした。

 

 

 ※

 

 

 黒江の応対をした忍とは別の者が、報告へ走ったのだろう。静寂を破り、廊下の向こうから小気味よい足音が近づいてきた。縁側に座していた黒江と梵天丸は、示し合わせたように揃って音のする方へと顔を向ける。

 

「あれは小十郎だな」

 梵天丸が楽しげに呟き、黒江もまた同意するように小さく頷いた。

 果たして予想通り、その男が姿を現す。

 小十郎は部屋の入り口で足を止めると、主である梵天丸に軽く会釈をし、そのまま黒江たちの傍まで歩み寄った。

 その鋭い眼光が、黒江の手の中に収まる梵天丸の手へと真っ直ぐに注がれる。不自然なほど滑らかに輝くその肌に、小十郎は眉をわずかに寄せた。

 梵天丸は小十郎の視線に気づくと、まるで宝物を見せつけるかのように誇らしげに両手を差し出した。

 

「見ろ、天女殿のご加護だ!」

 

 その無邪気な声に、小十郎の視線がすうっと梵天丸の手から黒江へと移る。

 黒江はここに来た当初、小十郎に尋問めいたことをされていたので思わず身を固くし、慌てて首を横に振った。

 

(加護じゃないです。軟膏です、小太郎の薬なんです。ほら、これ!)

 心の中で必死に弁解しながら、黒江は先ほど使用した桐の小箱を小十郎へと差し出した。

「これは……」

 小十郎は、天井の一角へ視線を流す。そこにいる忍から何か合図を受けたのだろう、「成程、これがそうか」と小さく呟くのが聞こえた。

 小十郎は慣れた手つきで箱を開ける。中身に目を落とし、鼻先を寄せただけでその質の高さを即座に看破した。

 

「……なるほど。確かに見事なものだな」

 彼は深く感心した様子で、小さな箱を見つめた。その薬効の高さと、混じり気のない上質さに、小十郎としても非の打ち所がないと認めたらしい。

 

(そうでしょう、そうでしょう。小太郎は凄いんですよ)

 黒江は、あの大柄な忍が作ってくれたものだという事実に改めて密かな矜持を感じ、少しだけ胸を張った。そして、膝の上に乗った梵天丸と目を合わせて共犯者のように頷き合う。

 

 

 ※

 

 

 小十郎の目に映ったのは、共犯者のように顔を見合わせる二人だった。小十郎の中で、得体の知れない感情が渦を巻いている。

「……」

 あの男は、奥州の地において完全なる異分子だ。

 どこからともなく現れ、身元も知れず、表情すら面の下に隠している。本来であれば、主君の側近として即座に排除すべき対象であり、今なおその本性は霧の中にある。

 

 それにも関わらず、今の己はどうだ。

 

 主君である梵天丸の心を柔らかく解きほぐし、書道に打ち込む無邪気な笑顔を引き出し、更には命を救う献身を見せる黒江。その姿を目の当たりにするたび、小十郎の中にあったはずの氷のような警戒心は、いつの間にか音を立てて崩れ去っていた。

 

(……こいつは一体、何者だ)

 

 小十郎は自問する。

 黒江が時折見せる遠くを見つめるような瞳と、ふとした瞬間に漂わせる静かな気配。それは、自分たちが決して踏み込むことのできない、遠い場所から持ってきた孤独の残り香を纏っていた。

 そのくせ、梵天丸の手を包むその所作は、まるで長年の身内がするそれと変わらない。その光景はあまりに無防備で、とてつもなく平和だった。

 

 主君を守るための盾としての矜持。

 それを揺るがしかねない存在を、自らもまた受け入れてしまいつつある。

(俺はこいつを信じていいのか?)

 小十郎の胸の奥に、言葉にできない澱のようなもどかしさが生じる。悩む小十郎の視線の先には、親子か兄弟のように穏やかな時間を共有する、梵天丸と黒江がいた。

 

 





***

ぼやけていく思い出と、馴染み始めていることにそれぞれが少し焦燥している。
それはともかく、伝説の忍の塗り薬はちょっと欲しい。
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