蒸し風呂へと案内された黒江は、名残惜しそうに離れようとしない梵天丸を宥め、どうにか一人きりの時間を手に入れた。
これまでは湯の張った桶と手拭いで体を拭うのが精一杯だった身にとって、この蒸気は救いに等しい。
見張りの気配は消えていた。小十郎に頼み込み、極力こちらを遠ざけてもらった甲斐があったというものだ。
案内された蒸し風呂は、少し大きめの個室のような造りになっていた。電灯などあろうはずもなく、中は薄暗く、そして狭い。
黒江は中に置かれた木の椅子に腰を下ろすと、ようやく息を吐き出して面を外した。
この数日、片倉小十郎の態度は明らかに軟化している。梵天丸の毒殺未遂事件以来、彼が向ける眼差しには警戒の向こう側にあった気遣いが混じるようになった。
(……多分、元々はそういう人なんだろうな……第一印象がとにかく悪すぎたんだよなあ……)
そんなことをぼんやりと考える。
梵■■と小■■。
彼らの名を聞くたび、黒江の意識のどこかに常に雑音が混じるので未だに本当の名前が分からない。
その為、黒江は彼らを心の中で「梵ちゃん」「若頭」と呼び分けているが、自分が見ているこの二人はいったい何者なのか。そして、自分はどこにいるのか。
戸の向こうに誰もいないことを確信した途端、黒江は思考の海に深く沈み込んでいった。
きっと、氏政や小太郎が心配しているに違いない。
連絡を取りたい。しかし現代ならばともかく、この時代においてそれはあまりにも高い壁だった。
(手紙……は、無理だな)
不思議なことに、この世界に迷い込んでからというもの、黒江は文字の読み書きすらままならなくなっていた。機密に触れても安心という利点はあるかもしれないが、それ以上に意思疎通ができないというデメリットは致命的だ。
(小太郎、探し回ってるんじゃないだろうな)
過保護なあの男の顔が浮かぶ。せめて安否だけでも伝えられたら、どれほど心は軽くなるだろう。
熱い蒸気が肌を包み、汗で視界がじわりと滲む。
──今思い浮かべていた人たちの輪郭も、何だかぼやけ始めてきた。
長居をし過ぎているのかもしれない。
黒江は手拭いで顔を拭い、ふうと息を吐く。
(……のぼせる前にあがるか)
短くそう呟くと、黒江は再び仮面を着けて立ち上がった。現実的な悩みを抱えたまま、この静かな蒸気の世界を後にする。
※
蒸し風呂から自室へと戻ると、先客が待っていた。なぜか梵天丸が部屋に居座っているのだ。夕餉はすでに済ませたはずであり、あとは夜の静寂を待って眠るだけだというのに、と黒江が首を傾げると、若君は得意げに紙束と筆を掲げて見せた。
どうやら今日はまだ片付けるべき仕事が残っているらしい。だが一人で机に向かうのは退屈だと、黒江の傍で作業をしたいという申し出だった。
その背後には控える小十郎がおり、「どうか付き合ってやってくれ」と、無言のうちに静かな圧をかけてくる。
黒江はまだ湿り気を帯びた髪を手拭いで拭いながら、やれやれといった風に苦笑し、静かに頷いた。
※
髪を軽く乾かした後、黒江は部屋の隅に場所を移す。
そこに腰を落ち着けると、木片と彫刻刀を取り出した。小田原で制作していた、二つの桜の根付けである。対になるよう一組で彫り進めていたそれらは、完成したものと、未完成のものの計二つ。見本として完成品を傍らに置き、黒江はもう一方へと刃を滑らせた。
作業に伴う木屑や汚れが畳を汚さぬよう、その下には小十郎が素早く手配してくれた風呂敷が敷かれている。細やかな気配りに感謝しつつ、黒江は一心に刃を滑らせた。
文机に向かい、熱心に筆を走らせる梵天丸。
対して、部屋の片隅で静かに木を削る黒江。
同じ部屋にいながらも、それぞれの世界が交わるような、不思議な静寂がそこにはあった。彫刻刀が木を削る、かすかな音だけが室内に響く。黒江は面の下でかすかに目を細め、完成した見本を時折横目で見ながら、桜の花弁の曲線に刃を沿わせていった。
※
梵天丸は、黒江が削り出している桜の飾りから、どうしても目を離せずにいた。
桜の木の下で出逢った天女が、今度はその桜の花を模した小さな飾りを作っている。黒江の手元には、完成した美しいものと、まだ荒削りなものの二つが置かれていた。完成したら、是非とも一つ所望したいところだと梵天丸は胸中で密かに願う。
もしそれが叶えば、この天女と自分は、お揃いの証を持つことができるだろう。若君の胸に、幼いながらも独占欲に近い昂揚が広がる。早く完成しないかと、筆を動かす手も疎かに、梵天丸はただただ待ち焦がれていた。
対する黒江は、時折刃を止めては思案に耽り、また少し削っては完成品と形を見比べ、集中した面持ちで歪な花弁を整えていく。
こりこりと木を削る、乾いた単調な響きが不思議とこの場の空気を穏やかに調和させていた。
黒江の指先から、少しずつ理想の形へと近づいていく桜の花。その一刻一刻の変貌を、梵天丸は一瞬たりとも見逃すまいと、じっと見つめ続けていた。
※
作業は、さほど長い時間を要さなかった。
元より大まかな形は出来上がっており、あとは細部を整え、角を丁寧に落とし、目の荒い布で磨き上げて艶を出すだけの工程だったからだ。
(んー……とりあえず、こんなものかな)
黒江は完成したばかりの桜を、既にある見本と並べて見比べた。仕上げたばかりのそれは、少し削りすぎてしまったせいか、元の一回り小さい形に収まっている。だが、その華奢な造形はまた別の味わいがあり、決して悪くはない。
(まあ、大きい方を小太郎にあげて、こっちのは私のだからいいか)
そんなことを思いながら、指先で優しく撫で、完成した小さき桜を慈しむように眺めていた。その時だった。
「……天女殿。お願いがあるのだが」
ふいに耳に届いた硬質な少年の声に、黒江は顔を上げた。いつの間に近づいたのか、視界には梵天丸の姿がある。彼は黒江の手元にある飾りと、面で覆われた黒江の顔を、交互に射抜くような真剣な眼差しで見つめていた。
梵天丸の願いは、直球だった。
──そのどちらか一方を、俺にくれないだろうか。
黒江は面の下で目を丸くした。
反射的に「いや、これは」と言葉を紡ぎそうになり、己が声を失っている事実を突きつけられて喉を詰まらせる。身振り手振りで辞退の理由を並べようとしたが、目の前の若君が見せるあまりに切実な表情を前にして、拒絶の言葉を飲み込むほかなくなった。
梵天丸もまた、黒江の動揺を読み取ったのか、今にも泣き出しそうな顔で胸の前で拳をきゅっと握りしめている。
(……知人に渡すために作ったものだから駄目です──とは言えない雰囲気だなぁ)
これはただの桜の根付けだ。材料さえあれば、いくらでも作ることはできる彫刻品。
だが、梵天丸が欲しがっているのは他でもない、今ここで黒江の手によって削り出された「これ」なのだ。
思えば、この屋敷での日々を平穏に過ごせているのは、梵天丸が黒江を求めてくれたからこそだ。その恩に、少しばかり報いておくのも悪くない。
黒江はふうと小さく息を吐くと、完成していた大きい方の根付けを、差し出した。
梵天丸はそれを受け取ると、少し不思議そうな顔をした。今作ったばかりの小さい方ではないのか、という問いがその瞳に宿っている。黒江は面の下で苦笑し、身振り手振りを交えて懸命に説いた。
すくすくと、大きくなあれ。
そんな願いを込めたのだと。
その身振りがどこまで正しく伝わったのかは分からない。しかし、梵天丸は涙で潤んだ瞳を輝かせ、花が綻ぶような明るい笑みを浮かべてくれた。その表情を見れば、言葉など不要だ。幼い若君は、きっと自分なりの理解でその願いを受け取ってくれたのだと、黒江はそう思うことにした。
「何だか取り上げちまったようで悪いな」
木屑を片付けていると、傍らに立った小十郎が低い声音でそう囁いてきた。まるで秘密を共有するかのような、微かな気遣いに満ちた口調だった。
黒江は即座に首を振り、否定した。面越しではあるが、その瞳には「喜んでいただけたなら、なによりです」という柔らかな色が宿っている。
黒江は言葉の代わりに、穏やかな笑みを浮かべてみせた。そして、風呂敷の端を器用に操り、集めた木屑を小十郎が差し出した入れ物の中へとさらりと放り込む。小十郎がその木屑を、零れないよう受け止めていく。
その最中、ふと顔を上げた際に目が合ったので──黒江は仮面越しに小十郎を見て──お互いに、軽く笑い合った。
二人の間に流れるのは、どこか心地よい連帯の空気だった。
その場に漂う微かな木の香りと共に、穏やかな夜の時間が静かに過ぎていく。
※ ※ ※
真夜中のことだった。
ふと覚醒した黒江は、厠へ行こうと寝所を抜け出した。
月明かりが、静まり返った屋敷の廊下を白く染め上げている。用を済ませ、自室へと戻る道すがら、黒江は不意に足を止めた。
視線の先にあるのは、かつてこの屋敷へ迷い込んだ際、力尽きて倒れ伏した桜の木だ。あのとき、その枝越しに見上げた空の色彩を、黒江は今も微かに覚えている。
華やかに咲き誇っていた花はすっかり散り、今は瑞々しい葉を繁らせていた。季節は容赦なく移ろい、木々は淡い桃色の衣を脱ぎ捨てて、深緑の生命を謳歌している。風に揺れる葉桜が、まるで去り行く季節を惜しむように、さらさらと柔らかな音を立てていた。
(……そういえばお花見、出来なかったなあ)
そんな感慨が、胸をよぎった。誰かと約束していた気がする。三人で、この桜の下でお花見をしようと。
……しかし。
……その二人の顔も、名前も、どうしても思い出せない。
(……あれ? 誰と約束したんだっけ?)
記憶の彼方へ手を伸ばそうとするが、まるで深い靄がかかったように思考がぼやけていく。最近、こうして不意に大事な何かが霧散してしまうことが増えていた。
まさか若年性の健忘か。
それとも、単なる物忘れが過ぎるのか。
黒江はしばらく、夜風に揺れる葉桜を見つめ続けた。しかし、どれほど思考を巡らせても答えは浮かばず、胸に小さな焦燥だけが残る。一度だけ、己の右手に視線を落として何かを掴むような仕草をした。掴むものなど何もないのに。
不意に、黒江は月を見上げた。何かに呼ばれたような気がしたからだが、周囲には隠れた見張りの忍たちを除いて、誰もいない。
気のせいか、というふうに黒江は首を捻る。虫の鳴き声でも聞き間違えたのかもしれない。
これ以上考えても無駄だと悟り、黒江は短く溜め息をついた。夜の冷気が肌に染みる。黒江はふらりとした足取りで再び部屋へと戻り、眠りの中へと逃げ込むことにした。
※ ※ ※
漆黒の衣を纏った人影が、小田原の城下を連日駆け回っていた。
何かを探し求めているかのような、執拗で焦燥に満ちた足取り。朝から晩まで、その歩みが止まることはない。
それは、風魔小太郎であった。
人混みをすり抜け、路地を駆け、町行く人々の視線すら置き去りにしてゆく。小太郎は鋭い眼光で周囲を射抜き、音を持たない喉の奥で、名を呼び続けていた。
『黒江』
叫びは、虚空に溶けていく。誰の耳にも届かぬその響きは、ただ自らの内側を削るだけの徒労のように思えた。
『黒江』
小太郎は何度もその名を胸に抱き、町の隅々を穿つように捜索を続ける。ただひとりの青年を、己の視界のどこかに捉えるその時まで。
心の奥が冷えている。ぽかりと空いた喪失感に胸を焼かれながら、小太郎はその頑強な肉体を苛むようにして、ひたすらに黒江という存在を探し求めていた。
その胸元の懐には、黒江が丹念に彫り上げた八咫烏の根付けが収められていた。
本来ならば対となる二つを、互いに一つずつ持つことで分かち合った片割れである。小太郎は時折、無意識にその硬質な感触を指先で確かめてしまう。
かつて黒江から贈られたその小さな烏は、小田原の空を象ったかのような繊細な彫りが施されている。それは彼にとって、言葉を持たぬ自身の魂を黒江と繋ぎ止める、唯一にして絶対の楔であった。
だが、今の小太郎の手元にあるのは、持ち主を失ったかのような冷たい質感だけだ。
彼は城下の喧騒を背に、ふと懐に手を滑り込ませた。指先に触れる木肌の感触が、かつて黒江が温かな掌でそれを作っていた時の微かな温度を思い出させる。その温もりを追うように、小太郎の瞳からは焦燥が消えることはなかった。
ただこの小さな彫り物だけが、黒江がこの世界のどこかに確かに存在していたという、消え去りそうな証明となっていた。
※ ※ ※
――黒江が眠りについた頃。遥か遠方にある小田原城天守閣の最頂に、漆黒の衣を纏った人影が立っていた。
静まり返った夜空を見上げたその瞳はどこまでも暗く、ただ一人の気配を求めて虚空を射抜いている。漆黒の衣が夜風に激しく翻り、彼の周囲だけが凍てつくような静寂に包まれていた。
彼は答えを乞うように、ただ黙して月を仰いだ。
『どこに行った、黒江』
しかし、遥か頭上で冷ややかに銀光を放つ月は、何も語らず、ただ無機質な輝きを投げかけるだけだった。問いかけは誰の耳にも届くことなく、冷たい夜気に溶け、ただ深い虚無となって彼の胸へと降り積もっていった。
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きっと全力で捜索しているだろう忍。