『黒江』
ここ連日、小太郎は小田原周辺を飛び回っていた。
目的はただ一つ。
『黒江』
声を持たない喉で、必死にその名を呼び続けて探すこと三日。黒江はまだ見つからない。影すらも見当たらず。
(何故こうも見つからない……?)
黒江は、顔の上半分を隠す変わった面を付けている。
だからただの町人にしては異質で、一度見れば記憶に残りやすい人間だ。
なのに──手掛かりが見つからない。
小太郎は苛立ちを隠さぬまま変装して町へ赴き、すれ違う者たちへ聞き込みを続けたが、黒江の足取りはことごとく町外れで途絶えていた。
町の外れを走っていたところを目撃されたが、下忍が追いついた先には誰の姿もなく、ただ茫然と佇む虚無僧が一人、ぽつんと残されていたという。その虚無僧からは、忍特有の淀んだ気配が漂っていたとの報告だった。
黒江は、長距離を走れるような体ではない。草履が足に馴染まず、すぐに靴擦れを起こして歩けなくなることを、誰よりも小太郎が知っている。だから、自分の足で遠くまで行けるはずがないのだ。
それなのに、どこへ。
走っていった、その先は──。
報告にあった虚無僧とやらに攫われたか?
だが、その虚無僧自身も茫然と立ち尽くしていただけで、黒江を連れ去った様子はないという。ならば、黒江を攫ったのは別の何者か、あるいは未知の術なのか。思考が堂々巡りを繰り返す。
顔を半分隠していても、瞳や仕草で感情が痛いほど読み取れる。そんな青年の、素直な声が聞きたい。
いつものように、自分の名を呼ぶその声が。
(……どこに行った、黒江。──どこにいる)
小太郎は、夜の小田原城における最も高い場所へと辿り着いていた。
眼下に広がる城下町を一望し、闇を睨みつける。まるで雛を見失った親鳥のように、彼はただひたすら姿を消した黒江を探し続けていた。
※ ※ ※
その日の朝。
梵天丸は朝餉の膳を囲みながら、今日は多忙ゆえに貴方と過ごす時間がないのだと律儀に告げてきた。
(いや、うん……私は大人だから、別に放っておかれても大丈夫だけどね?)
黒江は内心で苦笑しながら、懸命に報告してくる子供の頭を撫でつつ深く頷いてみせた。
なにせこの若君は、朝から夕暮れに至るまで、学問に武芸にと分刻みの予定をこなしている。傍らに控える小十郎もまた同様に忙しく、重臣たちの補佐や兵たちの指導に追われていた。
黒江は一度だけ遠目に覗き見たことがあるが、あれはただの鍛錬などではない。紛れもなく、血の匂いのする軍事訓練だった。テレビの向こうの現実がここにある。
(そうか。そういう時代なんだっけ……)
小田原で迷い込んだ折にも戦の影は見たはずだが、ここまで気鬱になることはなかった。あの時は、常に小太郎が傍にいてくれたからだろう。あるいは、自分が無意識のうちに軍事色の強い区画を避けていたせいかもしれない。
そんなわけで、黒江はこの屋敷へ来てから初めて、誰にも干渉されない時間を迎えていた。
天井裏には気配を殺した見張りがいるものの、人の気配そのものは希薄だ。
小十郎が気遣うために置いていったのは茶菓子と、ずっしりと重い丸太が一本。……この丸太は、間違いなく黒江の暇潰し用だろう。これで彫刻刀を使い、好きにしろという無言の配慮だ。
(また大きな塊で持ってきたな若頭。……いやこれ結構重いよ? わざわざ切り出したとかじゃないよね?)
黒江は部屋の中央に鎮座するその丸太を前にして、腕を組んだ。
あいにく、今は特に作りたい造形が浮かばない。小田原ならいざ知らず、この不慣れな土地で闇雲に木を削り、ゴミを増やすことにはどうにも抵抗があった。
しばらく思案した末、黒江が意識を向けたのは身に着けている面。
これならば、今の自分の手持ち無沙汰を埋めつつ実用的な細工が施せるかもしれない。
方針が決まると、黒江は天井裏へ向けて視線を上げ、作業の間だけ監視を控えてほしいと身振りで訴えた。見えない相手への、ささやかな願いだった。
天井裏の忍たちは、小十郎からあらかじめ何らかの命を受けていたのか、黒江の意図を察するや素直に応じた。
しかし、完全に気配を消すわけにはいかないらしく、彼らは特定の場所を指し示し、そこまで距離を取ることで黒江に作業の余白を与えてくれた。
(無茶ぶりに応じてくれて、ありがとうございます)
黒江は礼を示すように軽く頭を下げると、手拭いで口元から鼻先にかけて顔の半面を覆った。そうして顔が隠れたのを確認してからようやく面を外し、膝の前の畳に置く。
飾り気のない、ベネチアンマスク型の半面。
その無機質な肌に、彫刻刀の刃先で命を吹き込んでいくのだ。
(さて、どうしようかな)
熟考の末、黒江が選んだ図案は、頬の上、目元のあたりに散る桜の花弁だった。大きさをわずかに変え、重なり合うように三つの花弁を刻む。無骨な面が、少しずつ黒江の意匠へと染まっていく。
作業は没頭のうちに夕刻まで続き、彫刻刀が木を削る乾いた音が部屋を満たしていた。
やがて廊下に響く、聞き覚えのある足音。梵天丸が戻ってきたのだ。黒江は完成したばかりの面をそっと手に取り、再び顔へと装着した。
黒江はその新しい面を付けたまま、何も変わらぬ静かな佇まいで、戻ってきた少年の帰還を出迎える。
※
襖を勢いよく引き、今日あった出来事を語ろうとしていた梵天丸の動きが、ぴたりと止まった。
黒江は、朝に別れた時と何ら変わらぬ姿でそこに座している。だが、いつもの静謐な空気に、わずかな違和感が溶け込んでいた。面をよく見れば、その目より下の部分の右側に細かな意匠が施されている。
それは、桜の花弁であった。
ただ、それだけのこと。
ほんの些細な彫り物が加えられたに過ぎない。にもかかわらず、梵天丸を穏やかに迎える黒江の姿は、いつにも増してひどく儚く、そして息を呑むほどに美しく見えた。
まるで、今この瞬間にでも風に吹かれて消えてしまいそうな、繊細な芸術品のように。梵天丸は言葉を飲み込み、ただ呆然とその顔を見つめ返していた。
(なにこれ。どうしよう、急に動かなくなったよこの子)
動きを止めた梵天丸を前にして、黒江は大いに戸惑っていた。
一応、彼が飛び込んでくることを想定して両手を広げ、受け止める仕草を見せてみる。しかし、若君はまるで時が止まったかのように固まったままだ。
(……ちょっと硬直が長いよどうした梵ちゃん!?)
黒江は広げた腕をどうしたものかと持て余しつつ、天井裏の監視役がいる方へと視線を流した。
求めたのは救い。
(見張りの人ー! 保護者の方をどうか、あの若頭を呼んできてー!)
小十郎か、あるいは誰でもいいからこの奇妙な沈黙を打破してほしい。
そんな切実な願いが、黒江必死な素振りから滲み出ていた。
※
忍からの急報を受けたのか、小十郎がいつものように慌ただしく部屋へと飛び込んできた。彼は梵天丸と黒江を交互に鋭い眼差しで見やり、最後に黒江へと厳しい視線を向ける。もはや見慣れた光景ではあったが、黒江は内心で訴える。
(私は何もしていません、違うんです!)
冤罪であることを主張するように、黒江は緩く首を振った。小十郎はなおも訝しげな面持ちを崩さなかったが、まずは梵天丸の肩に手を置き、何があったのかと静かに問いかけた。
その言葉に、梵天丸はハッとしたように表情を変化させ、ようやく現実に引き戻された。彼は小十郎を真っ直ぐに見据え、確信に満ちた声でこう告げた。
「やはり天女殿だ!」
その唐突な宣言に、小十郎と黒江は揃ってきょとんと首を傾げた。
部屋の空気が、困惑と静寂に包まれていく。
※
不可解な宣言の真相が明かされたのは、夕餉の席でのことだった。
もっとも、それは謎解きと呼ぶには稚拙で、梵天丸による一方的な感動の発表会に過ぎなかったのだが。
「素晴らしい。……とても美しいぞ、天女殿」
彼は膳を挟んで向かい合う黒江の面を、食事中も幾度となく見つめては、目を輝かせている。小十郎が呆れ半分に箸を動かす横で、若君は桜の花弁が刻まれた面がいかに天女の如き神秘性を宿しているか、その情熱を嬉々として語り続けていた。
黒江は面の下で苦笑を浮かべながら、手際よく膳の料理を口に運ぶ少年の話に冷や汗を流す。
(しまった、桜のデザインはやりすぎだった……!)
湯気の立つ膳を前に熱弁を振るう梵天丸の横顔を眺めながら、黒江は心の中で深く溜め息をついた。
ただの暇潰し。そう思って彫ったはずの桜の花弁が、これほどまでに少年の想像力を刺激し、彼の中の「天女」という幻想を補強する火種になろうとは。ああ、少し考えれば分かることだったのだ。
(花びらの意匠がいいなあと思ったら桜になっちゃったけど、この子が私を天女呼ばわりしている時点でもうちょっと考えるべきだったよなあ……)
今さらながら、黒江は自身の軽率な細工を猛烈に後悔していた。
隣で苦笑交じりに見守る小十郎の視線が、時折チクリと黒江の面に向けられる。
黒江は、まるで針のむしろにでも座っているかのような居心地の悪さを覚えつつ、梵天丸の弾む声を右から左に聞き流しながら飯を口へと運ぶしかなかった。
「冤罪です!」と力強く言おうにも、今の黒江は声を持たないためどうにもならない。
子供の熱弁が続く中、小十郎からの鋭い視線が刺さってくる。黒江は諦念を込めて椀を手に取ると、熱い味噌汁を静かにすすった。
鼻先をくすぐる出汁の香りに、ほっとしたような安堵感が込み上げてくる。
(はぁ……今日も出汁が効いてて、本当においしいなー……)
料理の味に意識を強制的に集中させ、黒江は懸命に現実逃避を図った。
ここは戦場ではない。そして、自分は平和な時代から来た平凡な人間だ。
この状況から物理的に逃げ出すことはできずとも、精神的な逃亡くらいは誰にも咎められまい。そんな自己弁護を胸の内で繰り返しながら、黒江は目の前の騒ぎとは無縁の顔で、二口、三口と汁を飲み干した。
味噌汁の滋味深い味わいが、昂ぶった感情をゆっくりと鎮めていく。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、椀を啜るわずかな音だけが黒江の耳を満たしていた。激動の日々や、不明瞭な状態の不安さ、そして少年の無邪気な熱狂。そうしたすべてを脇に置いて、黒江はただ静かに目前の膳と向き合った。
食事は温かく、そして美味い。
その事実は、何よりも雄弁に今の平穏を物語っていた。
(とりあえず、今日もご飯が美味しいのは幸せなことだな)
黒江は面の下で小さく目を細め、そう一言、心の中で呟いた。
明日にはまた新たな騒動が待ち受けているのかもしれない。けれど、この椀から立ち昇る湯気と、噛み締める糧の味わいだけは、何者にも邪魔されることのない確かな幸福として、黒江のささやかな日常を支えていた。
※
満ち足りた気分を抱えて、黒江が食事をしていた時だった。
『黒江』
唐突に響いたその音は、聴覚を超えたところから届いたように思う。脳の奥底に直接刻み込まれるような、鋭くも切実な残響だった。現に黒江は対面を見たが、何かを気にした様子もなく、小十郎は茶を淹れ、梵天丸はそれを飲んでいた。味噌汁の椀を置こうとした黒江の手が、ふと空中で止まる。
『黒江』
幻聴だろうか。そう思って首を巡らせるが、部屋の中には食事を終えて上機嫌な梵天丸と、彼を呆れながら見つめる小十郎がいるだけだ。天井裏の忍たちも、気配を変えてはいない。
その声の主は誰だったか。
記憶の端を掴もうとした瞬間、黒江の意識は急速に霧に包まれていく。
声の響きは覚えているのに、顔や名前、どのような関係性であったのか──その決定的な輪郭が、砂の城のように崩れ去り、ぼやけていく。
なぜ、これほど胸がざわつくのか。
なぜ、この呼び声に、名付けようのない痛みを感じるのか。
黒江はそっと面を指先でなぞる。桜の花弁が刻まれた無機質な木肌に触れながら、正体の見えない不安だけが、黒江の中で濃い影となって渦巻いていた。
──ひゅう、と。
少し開いた襖から流れ込んできた風が、黒江の側を通り抜けた。それは頬を撫でるような風で、黒江は無意識にもう一つの桜の根付けのある胸元をきゅっと掴んだ。
妙に胸が詰まる。
ただの風の音が、どうしてこんな。
誰かの叫び声のような音だった。
黒江は何だか泣きたくなって、両手で仮面を覆う。
「……」
生憎と、声は出ない。けれど、声があっても何を言おうとしているのか分からないから意味がなかっただろう。
──そういえば、声を持たない誰かが側にいたような気がする。
過保護のきらいがあるが、黒い鴉のような優しい長身の影。
あれは……。
「天女殿?」
子供の声がした。
黒江はハッとして顔を上げる。心配そうな顔をした梵天丸と、小十郎が黒江に視線を向けていた。
小十郎は黒江の指先が胸元を掴んだ動作を見逃さず、瞬時に黒江に何か「決定的な欠落」があるのではないかと、その瞳に影を落とした。
しかし黒江にはそれを読み取る余裕はない。
「……」
黒江は弱く微笑むと、何でもないというように首を振って食事を再開した。
(なんか色々考えすぎて、脳が疲れてるのかもしれないな)
そんなことを考え、味噌汁を飲む。胸につかえた何かはそうして共に飲み込み、胃の腑へと落とし込んですっかり消してしまった。
***
ぼんやり、ふわふわ。
そしてここで面に、桜の意匠が追加。桜花の天女殿。