その日を境に、黒江の意識はさらに深い霧の中へと沈んでいった。
自分は何者で、どこから来たのか。
過去の輪郭は薄れ、記憶の海は日に日に濁りを増してゆく。
胸の奥で常に焦燥と不安が渦巻いていたが、黒江はそれを懸命に押し殺した。傍らにいる幼い梵天丸に余計な気苦労をかけまいと、努めて何でもない風を装い、穏やかな日々を演じ続けた。
そして、今。
黒江の眼には、世の理とは少し違うものが視えていた。
変わらぬ日々の合間に時折、梵天丸の膳に漂うどす黒く澱んだ色彩を見つける。それは食材から立ち昇る毒の気配であり、黒江にはそれが禍々しい墨を流し込んだかのように明白に映り、その視界を汚す。
「……」
黒江は、あどけない少年の箸がその料理に触れる直前に、すっと手を伸ばして制した。そして不安な顔をする梵天丸を宥めつつ、小十郎へ視線を向けて事の次第を知らせるのが役割となりつつあった。
いうなれば自分は無音の毒物検知器、といったところだろうか。……愉快な表現だが、目の前の現実はちっともそうではない。
(子供なのに……なのに、こんなに何度も……)
血の色の穢れを見つけて報告する度に、黒江は面の下で表情を曇らせる。
この幼い身に降りかかる、大人たちの殺意。その無慈悲な色彩が少年の食膳に現れる度に、黒江は胸を締め付けられる思いがした。
そんな黒江の動揺を察したのか、小十郎は静かに歩み寄ると、その華奢な背中を軽く叩いて声を掛けてくる。
「お前には助けられている……あまり気に病むな」
無骨だが、確かな温もりを含んだその言葉だけが黒江にとって、ぼやけていく日常の中での慰めとなりつつあった。
※
一方、小十郎にとって黒江の存在は、図らずも窮地を救う大きな助けとなっていた。
配膳までの幾重もの毒見をいとも容易く擦り抜けてくる仕込み毒を、黒江はいつも淀みなく指摘し、報告してくる。黒江は最初『匂いで分かる』などと身振り手振りで答えていたが、小十郎は早々にその説明が嘘であると見抜いていた。
おそらくは、視覚によるものだろう。
黒江の瞳が料理の特定の箇所を凝視し、わずかに眉を寄せる。そこには必ず殺意が潜んでいた。
冷静に考えれば、素性も知れず、言葉を交わすこともままならぬ黒江は、本来であれば即座に排除すべきただの「不審者」でしかない。
にもかかわらず、その不審者が、たびたび命を狙われるこの幼き主を護る盾となっているという皮肉。
その度に見せる黒江の背中はどこか気落ちし、今にも霧のように消えてしまいそうな危うさを孕んでいる。
小十郎は気遣うように、その背を優しく叩いて労った。
梵天丸が幼い瞳を輝かせながら「天女だ」と呼ぶその言葉に、小十郎は苦笑を噛み殺す。
天女などという高尚な存在ではなく、ただの得体の知れない男。
素性も明かさぬその身でありながら、なぜ若君を助けるのか。
小十郎は鋭い眼差しで黒江を観察しながら、警戒と信頼の間で揺れつつあった。
※
奥州の屋敷において、黒江という存在は徹底して秘匿されていた。その名は屋敷の表舞台には一切出ず、真実を知る者は、若君である梵天丸と、その側近である片倉小十郎、そして屋敷の影に潜む黒脛巾組の精鋭たちのみに限定されていた。
その理由は二つ。
一つは、黒江の素性が一切不明である以上、不用意に公にすれば無用な混乱を招く懸念があること。
そしてもう一つは、現実的かつ切実な理由だった。
黒江は、梵天丸の膳に仕込まれる毒をいとも容易く看破する。この「毒を見抜く」という類稀なる才能が敵に露見すれば、黒江はたちまち最大の排除対象となり、同時に梵天丸を守る防波堤としての機能も失われてしまうからだ。
そうした事情もあり、黒江の行動範囲は極めて限定されていた。
部屋と庭先、そして厠と湯殿。
屋敷内での生活は、図らずも地味な軟禁状態と化していた。
しかし、当の黒江本人はその不自由をさして気に留めてはいなかった。
衣食住が完全に保証された今の環境は、黒江の目から見れば贅沢といえるほど恵まれている。日中の大半は誰の干渉も受けない自由時間であり、戦国の世にありながら、これ以上の平穏を求めるのは望みすぎだろう。唯一の不自由があるとすれば、退屈という名の影がつきまとうことくらいだ。
そういう時は決まって、若君が顔を見せてくれる。忙しい公務の合間を縫ってやってくる梵天丸が、何をするでもなく傍らに居座り、黒江を構い倒していくのだ。
「天女殿、膝を貸してくれ」
断りもなく言うが早いか、梵天丸はするりと黒江の膝に頭を乗せてしまう。今日はどんな稽古があったのか、どんな小言を食らったのか、そういったことは一切語らず、ただ黒江の膝の上でうとうとと微睡むのが常だった。
たまに気まぐれを起こしては、文机の隅に積まれた絵草紙を持ち出してきて、「これは読めるか」と黒江の手に押しつける。
声の出ない黒江は仕方なく、指先で挿絵をなぞりながら物語の筋を伝える真似事をするのだが、梵天丸はそれで十分満足そうな顔をするのだった。
その無邪気な時間に巻き込まれていると、あっと言う間に日暮れが訪れることも珍しくない。
時折、小十郎が刻限を告げにやってくるが、梵天丸は決まって膝の上から動こうとせず、「小十郎の番は後だ」とにべもなく言い放つ。そのたびに小十郎は額を押さえるのだが、以前のような剣呑さはもうそこにはなく、代わりにどこか困ったような苦笑がその口元に浮かぶようになっていた。
黒江の乱れた襟元や解けかけた帯に気づくと、小十郎は何も言わずに手を伸ばし、慣れた仕草でそっと直してくれる。指先が肌をかすめる一瞬、黒江はいつも小さく息を詰めるのだが、小十郎の方はまるで何事もなかったかのように、すぐに視線を逸らしてしまうのが常だった。ただ、その耳の端がわずかに赤らんでいることに、黒江はまだ気づいていない。
「……お前はどうにも無防備過ぎる。気をつけろ」
ぼそりと零される小言にも、以前のような刺々しさはない。
黒江はその声に、面の下でひっそりと笑みをこぼす。
己の自由な時間を、若君という名の鮮やかな色と、忠臣の不器用な優しさが、少しずつ侵食していく。この不思議な出会いを、黒江は幸運なことだと感じていた。
けれど。
けれど時折、何かが意識の端をすうっと掠めて過ぎ去っていくのだ。
銀朱の髪。
大柄な忍の影。
舞い散る黒羽。
そして――桜。
「……?」
思考の海に漂う断片を、黒江は咄嗟に掴み、引き留めようと手を伸ばす。しかし、その残像は捉えどころのない霧のようで、指先の間を何事もなかったかのようにすり抜けていく。
それらが一体何であるのか、言葉を紡ぐことも、輪郭を確かめることもできない。
最近、どうにも記憶の糸が解けていくような感覚に囚われている。自身の内側に確かなはずの過去が、まるで砂細工のように音もなく崩れ落ち、あやふやな霧の中へと溶け出しているのだ。黒江はぼんやりとしたまま、虚空を掴んだ手をそっと下ろした。その胸には、正体不明の喪失感と、抗いがたい焦燥だけが静かに澱のように溜まっていく。
ふと気づくと、黒江は泣いていた。
仮面の下が濡れる。頬を伝い、顎先から畳へと零れ落ちる水滴の温度に、ようやく自身の変化を悟る。なぜ涙が流れているのか、その理由を問うても、胸の奥にはただ静かな空虚が広がっているだけだった。
何が悲しいのか、何が苦しいのか。その答えすらも記憶の霧の向こう側に隠されている。自分の中にあるはずの感情が、まるで借り物のように実感を伴わない。黒江は言葉もなく、ただ静かに、瞳から溢れ続ける透明な雫を指先で拭った。その手の動きさえも、どこか遠い他人の行いのように、ただ滑らかに繰り返された。
※ ※ ※
梵天丸は、奥州の屋敷の廊下を早足で歩いていた。走れば小煩い目付役の叱責が飛んでくるという理由もあるが、何より向かう先にいる相手を驚かせたくなかったからだ。
今日は朝から一度も顔を見ていない。
今はもう黄昏時だ。学問に礼節、武芸と、今日も詰め込まれた予定をこなしてきた。いつもならば心底うんざりするような過密な日々なのに、ある一人がこの屋敷に来てからというもの、不思議と苦にはならなくなっていた。
天女殿、天女殿、天女殿。
声を持たない代わりに、毒を見抜くその慧眼。いや、ここは神眼とでも呼ぶべきか。
最近、その天女殿は庭先の縁側でぼんやりと過ごしていることが多いと耳にしていた。退屈を抱えているのだろうか。それとも、どこか体の具合が悪いのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥が騒がしくなる。梵天丸は、目付役の機嫌を窺うことすら忘れ、自然と足を速めていた。
そして縁側に。
その人はいた。
薄暮の光を背負い、気配を消して佇むその背中は、あまりにも儚げで今にも霧散してしまいそうだった。黒江は面を被ったまま、頬を濡らしていた。
静かな歌を紡いでいた。
それは誰かを想うような、あるいは遠くの誰かを希うような、この世のものとは思えぬ調べだった。
風に溶けゆく旋律は、聴く者の魂の深淵に触れ、切ない震えで満たしていく。
梵天丸は廊下の角で足を止め、その美しい調べの前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
※
黒江は、自分では無音であると思い込んでいるその旋律をひとしきり歌い終えると、仮面を指先でわずかに浮かせて手拭いで静かに目元を拭った。
張り詰めていた心が、歌という名の吐息とともに少しだけ軽くなったのを感じる。
ふう、と小さく息を吐いて縁側に深く座り直したとき、廊下の角、その柱の陰からこちらを窺う小さな人影に気がついた。
(梵ちゃん?)
口には出さぬ言葉を、その仕草と眼差しに込める。
その呼びかけに反応したのか、梵天丸の瞳が揺れた。彼は今にも泣き出しそうな、それでいて何かを必死に堪えているかのような複雑な表情を浮かべていた。己の感情を隠す術を持たない少年は、それでも気丈に背筋を伸ばし、一歩、また一歩と、沈みゆく夕日の光を背にした黒江の方へと歩を進めた。
梵天丸の足音は、静まり返った屋敷の廊下で、まるで心臓の鼓動のように響いた。一歩歩くごとに、先ほどまで漂っていた寂寥感とは異なる、濃密で張り詰めた感情がその場を満たしていく。
黒江は、少年の表情に宿る深い哀しみを認め、面越しにその小さな瞳を見つめ続けた。
やがて間合いを詰めた梵天丸は、黒江の隣でふっと立ち止まると、何かを確かめるように小さく息を吸い込んだ。
その幼い横顔には、天女と崇める存在がこのままどこかへ消えてしまうのではないかという恐怖が滲んでいる。
黒江がその態度に奇妙なものを感じて手を差し伸べようとすれば――梵天丸は躊躇いを捨てるようにして、飛びついてきた。
不意を突かれた黒江は勢いに押されてぐらりと後ろへ仰け反ったが、体幹をなんとか踏ん張って、小さな体をしっかりと受け止める。
黒江は「どうしたんだ」と問いかけるように、子供の華奢な背中をポンポンと優しく叩く。
しかし、梵天丸は黒江を一瞥しただけで、すぐさまその膝元に顔を深く埋めてしまった。
(思春期……というには、まだ少し早いか。何か嫌なことでもあったのかなあ)
黒江はそんなことをのんびりと考えながら、膝にしがみつく若君を労るように、ゆっくりと背中を叩き続けた。
自分でもなぜ泣いていたのか分からぬような虚ろな時間を過ごした直後だったせいか、この子供の体温は冷え切った黒江の心に染み入るように温かかった。
……誰かにこうして抱きしめられた記憶が浮かんだが、それは風のように通り過ぎて消えてしまった。
※ ※ ※
その光景を、小十郎は廊下の曲がり角で見ていた。
庭先の縁側で一人静かに涙を流す、黒江の姿。その背中はあまりにも小さく──元々、男にしては細身な方だが──今にも奥州の空気に溶けて消えてしまいそうな頼りなさがあった。
普段は梵天丸の盾として冷徹に立ち回る小十郎だが、今はその足が地に根付いたように動かない。
(……ギヤマン細工のようだな)
誰の目にも触れさせぬよう隠してきた「桜花の盾」。その名もなき者の泣き声を聴くたびに、小十郎の胸の奥で不可思議な感情が渦巻く。
自分は「盾」だ。
若君を守り、屋敷を守るために、己を厳しく律しなければならない。
しかし、あの霧のように掴みどころのない男が、一人で抱え込んでいる孤独の深さを覗き見てしまった今、鋼の鎧の隙間から、小十郎の心臓をひやりと撫でていく。
(もし俺が、あの男の肩に手を置けば……)
もし今、歩み寄ってその涙を拭ったとしたら。
それは若君の側近としての慈悲になるのか、それとも己の私欲のためか。
小十郎は自分の指先を見つめ、微かに震えるそれを力強く握りしめた。
すでに、不審者の涙に心を乱している時点で、自分は忠義という名の規律を汚している。
あの仮面の男を、誰にも触れさせぬまま守り抜きたいという、盾にあるまじき独占欲。
小十郎は、黒江に声をかけることを止め、ただその場に立ち尽くす。
やがて黒江が歌を紡ぎはじめると、背後から梵天丸が近づいてくる気配がした。
小十郎は音を殺して身を引き、若君がその不思議な調べに吸い寄せられていくのを、影の中から見守る。
やがて梵天丸が黒江に飛びつき、その体温を分かち合う光景を目にした。
二人の間に流れる穏やかな空気。小十郎は遠くから眺めながら、喉の奥から込み上げる獣のような唸りを押さえなければならなかった。
(……俺には到底入り込めねえ場所だな)
主君が天女と呼ぶあの男は、奥州の冷たい風の中で、ようやく安らぎを見つけたのだ。それさえ守れればいい──そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残るどろりとした澱のような感情は消えない。
小十郎は黒江の細い肩と、それにしがみつく若君の姿を焼き付けるように一度だけ見つめ、廊下へと背を向けた。
守るべき者のために、己の心に鍵をかける。
影で支える男が抱いた、あまりに熱く切ない焦がれ。
それは誰にも知られることのないまま、闇に溶かして。
***
奥州主従を溶かしていく天女殿。