──翌朝。
黒江は、味噌汁の良い香りと優しく肩を叩かれる感触とで起こされる。
「勝手に食材を使わせてもらったが、構わんかったかの?」
「あ、はい。そこはもう、全然問題ない……です、けど」
目の前には、良く焼けた焼き魚と炊き立ての白米、それから少量の漬物が置かれていた。
黒江は、昨日自分が作った粗末な食事を思い出す。
(天国と地獄……は言い過ぎか)
しかしながら、喉の奥がきゅっと苦くなるくらいには差がある。まるで月とスッポンだ。
卑下しているのではない。少しの工夫でこうも変わるのかと思っただけだ。……決して自分の家事能力の低さに嘆いているわけじゃない。
それなりに補充していたとはいえ、この庵には黒江の無気力も相まってやる気のない食材しか残っていなかった。菜っ葉や蕪の野菜屑、牛蒡に似た木の根の端っこ、熟れきっていない果実。
辛うじてまともなのは、棚の側に置いた米櫃にある少量の粟と米くらいだろう。
そんな食材を──何をどうしたらこうなった?
(つやつやの白米が出てきた! 炊きたてでピッカピカの!)
ご飯茶碗をしげしげと眺めながら、黒江は興奮する。一人分あるかないかの量だったのに、きちんと人数分出てきたのだ。麦や粟を混ぜて嵩増ししたというレベルではない。
(……よもや米俵を担いで来たとかじゃあるまいな)
摩訶不思議な変容を遂げた材料に首を捻るも、それよりも別に気になるものがあった。
ここで黒江は、ちらりと前方に視線を移す。
その瞳が見つめるは、老爺……ではなく、その背後に立つ黒尽くめの人影。黒江の視線に気づいた男は首を傾げ、様子を見ていた老爺が笑う。
「ああ、此奴は風魔。これらの食事は風魔が作ったんぢゃ。上手ぢゃろ?」
「えっ……あ、ぇ……はい」
最初からいたが名前を言い忘れてたのう、とでもいうように老爺は新たな人物を紹介した。
昨夜、会話をした男だ。長身痩躯の『護衛さん』。どうやら黒江に見つかった時点で潜むのを止めて、姿を現すことにしたようだ。
(うん、まあ……別に紹介してくれなくてもいいんだけどね?)
黒江は苦笑いを浮かべつつ、老爺の側に立つ男を見上げる。
ようやく影から姿を見せてくれたが、全く喋らない。寡黙、いや無口なのだろうか。
それはともかく、黒江はここで軽い引っ掛かりを覚える。
(この護衛さんの挙動、やっぱり忍者っぽいんだよなあ……)
気配の消し方、足音立てずに移動する動作。そして抜かりなく周囲を警戒するその姿勢。どう見積もっても一般人ではない。
そして名前が──『ふうま』ときた。
(もしこの護衛さんが忍者だとしたら、……いやいや、まさか)
黒江は内心で笑いながら──顔を若干引き攣らせながら、否定する。
(はは、しかし『ふうま』って。まさかそんな。そもそもこんな簡単に遭遇する存在じゃないし、それに──)
自分が知るあの『ふうま』なら、身の丈七尺ちょっとの人間離れした伝説の忍者のはずだ。
そろりと『ふうま』を見れば、相手は胸の前で両腕を組んだ待機姿勢のままで老爺の傍に居る。
驚いたことに鉄兜を脱いでおり、忍装束から着物姿に着替えていた。
護衛から老爺の付き人への早変わり。しかしその気配は相変わらず漆黒で──いや、昨日よりはどこか澄んだ色をしているような?
(さっきまで忍の格好してたよね!? 変装!? でも、なんで今?)
「どうした。そう此奴をまじまじと見て」
「え。あ、いえ……」
それはそうと、『ふうま』は黒江の分まで食事を作ってくれたのだった。
正体がどうであれ、ここはきっちりと礼を言わなければなるまい。
小さなことでも感謝は忘れずに、だ。
「あの……ご飯、ありがとうございました。えと……護衛さん?」
「(……)」
なので、最早隠れていないその人に黒江が戸惑いつつもぺこりと頭を下げれば、寡黙な人はやはり寡黙なまま、ただただ小さく頷いた。
雰囲気に圧倒されて思わず名前ではなく名詞で礼を言ってしまったが、今度は反応を返してくれたところを見る限り、怖い人ではなさそうだ。
「味も保証するぞい。さあ、冷めないうちに食べるとするかの」
「……はい」
近い、けれどもそう不快ではない親しみを見せる老爺の明るさに、つられた黒江は苦笑からやっと笑顔を見せる。頷いて両手を合わせて挨拶一つ。
「頂きます」という言葉と共に口に入れた焼き魚は、身がほろりとしてとても美味しかった。近くを流れる清流から、あの護衛の男が獲って来たようだ。
(師匠が居なくなる前まではこういう食事だったなあ)
何もかもが温かい食事。
一口食べるごとに甘みが広がり──胸が詰まる。
(……あったかい)
ここで黒江は少しだけ自覚する。一人残されて、自分は寂しかったのだということを。
でなければ、普通の食事がこうも心に響くわけがない。
(……おいしい)
仮面の向こうの視界が滲む。
黒江は慌てて俯き、味噌汁の椀に急いで口をつけると涙と一緒に悲しみを飲み込んだ。
※
「ところで、お主は何故そのような面を付けておるんぢゃ?」
「……あ。やっぱり聞くんですね」
その質問は、食事を終えて一息ついていたところで投げかけられた。
ある程度の予測をしていた黒江は溜め息を吐くと、風魔が淹れてくれた茶を一口飲んでから答える。
「実は私、面打ち師でして」
「ひょ。そうなのか。ああ、道理で──」
老爺が室内を見回し、顎を擦る。
「やたら木屑や木片が多いと思うたら、そういうことか」
「はい。けど……従事していた師が、最近失踪してしまいまして」
「なんと。突然にか?」
「突然に、です。朝起きたら、書置きも無くいなくなってて」
「それでお主は此処に一人で居たわけか」
「はい。すぐにまた帰ってくるかと思ったんですけど、気配が消え──いや、その、戻ってくる様子が一向にないので、どうしようかと途方に暮れつつ過ごしてたんです」
「なんとまあ……」
老爺が痛ましそうに表情を歪めて黒江を見つめる。
「それは……辛かったぢゃろう」
見知らぬ他人の身を案じてくれている相手の反応に、黒江は苦笑を浮かべる。
「いえ。私ももう子供ではないので、そこまででは」
「……お主、自覚がないのか?」
「自覚?」
「そうぢゃ。食生活に全く気が回っておらんかったではないか。それは、生きる気力が無い程に落ち込んでいるせいではないのかの」
「いやー……あれは単に、生来の面倒くさがりがそうさせただけかと」
「……やはり無自覚なようぢゃの」
「……?」
ふう、と老爺が溜め息を吐くので、黒江はそれを不思議そうに見る。
なにせ此処は、周囲の自然に囲まれた山の中。普通に現代人で身体能力も平凡な黒江には、とにかく食材を集めるのに苦労する羽目になった。
木登りなど出来るわけも無く手足を擦りむき、ならば川だと足を延ばせば水苔で滑って転倒する始末。
結果、どうにか出来たのが山菜集め。
これは摘むだけで済んだ。……ただし、まともなものは崖下にあったり険しい谷の向こうにあったりしたので、何とか手の届く範囲で収穫できたのが一日目のあの料理だったのだが。
それと……あまり食欲が無かったので、食材集めに必死になれなかったせいもある。
そう考えると──これは老爺の言う通り、「落ち込んでいたから」なのだろうか?
黒江は考え込み、無意識に己の仮面を擦る。
少し顔色が良くなったな、と師匠に言われたところだったのだが──そういえば、その翌日に失踪されたのだったか。
「……私、大丈夫そうに見えませんか?」
「その面で隠してあっても、大丈夫そうには見えんなあ。……のう?」
そこで、老爺が側に居た男に話を振った。男は黒江に視線を向けると、じっと見つめた後でこくりと頷いた。
「此奴も儂の意見に同意しておるぞ」
「……じゃあ、やっぱりまだだめなのか」
黒江は小さく呟いて溜息を吐く。面越しに片手を頬に添えると、顔を上げて老爺を見た。
「私が面を付けている理由ですが、此処に来る前に色々ありまして……自分の顔が見れないんです」
「顔が見られない、ぢゃと?」
「(……)」
「正確に言うと、顔を見られたくないんです。……私はあまり覚えていないんですけど、どうも恐慌状態に陥るらしくて。見かねた師匠が、ならば自分で面を作って隠せばいい、と」
「それで、お主は……其れを?」
「そうです、コレです」
「……その時のことは少しも覚えておらんのか?」
「はい。師匠に教えて欲しいと言ってみたんですが、首を横に振って『訊くな』と」
「ふうむ……煩いからか、それともお主のことを思うてか」
「まあ、そういうわけでして。……納得して引き下がってくれると助かります」
「むう……まあ、お主は一夜の宿りを貸してくれた恩人ぢゃしな。土足で踏み込むような真似はせんよ。すまんかった」
言うなり老爺が頭を下げようとするので黒江はそれを押しとどめ、早々にこの話を切り上げたのだった。
※ ※ ※
経緯はどうであれ、貴方方は客人なんだから座ってて下さいと言ったのだが、首を振って断られたので忍ばなくなった護衛の男──『ふうま』と共に、黒江は食器を片付けていた。
(手際が良いなあ……そしてこうして隣に並んで分かる相手の背の高さよ……)
手拭いで皿を拭きつつ、黒江は隣に立つ『ふうま』の様子を窺う。
(顔は……良く見えないな。でも多分、格好いい部類だ)
長身痩躯の男は黙したまま。雑談でもして情報を集めたいところだが、きっと警戒されて終わるだろう。現に、こうして黒江の隣に立っているというのはそういうことだ。警戒もしくは観察対象として見張られている。
(まあ、そんな簡単に仲良くなれたら苦労はしないよねって)
そうして朝餉を片付けた後は、室内でまったりとしていた。満腹の後は小休憩だ。
部屋の散らかり具合が気になったのか、『ふうま』があちこちを片してくれている。一宿の礼のつもりだろうか。
(別にそこまでしてくれなくていいのに)
木屑をまとめ終えた次は、置きっ放しにしていた黒江の胴乱まで整理し始めたので「家政婦か!」と内心で突っ込んでおいた。それか潔癖症のきらいでもあるのか。だとしたら、申し訳ない。
ふと、老爺が立ち上がって土間の方へ向かうのが見えた。
何をする気だろう?
久しぶりに摂取した美食の倦怠感で動けず、ぼんやりと眺めていれば、老爺が「よいせ」と言いながら引き戸を開ける。そして空を見上げるなり、声を上げた。
「おお、立派なお天道様ぢゃあ!」
まるで水戸のご隠居宜しく呵々と笑う。
どうやら雨はすっかり上がったらしい。戸口で笑っている老爺を余所に、いつの間にか荷物を纏め終えた忍ぶのを止めた男が、シュッと消えたと思ったらシュッとその老爺の側に瞬間移動した、ような……とんでもないものは、見なかったことにしておこう。
黒江は、ふうと息を吐いて天井を仰ぐ。
(雨も止んだし、これで彼らの雨宿りも終いだな。……ん?)
畳の上でぼんやりとしていた黒江は、戸口に居た老爺が振り返って目を合わせて来たので意識を戻す。
「おう。良い天気ぢゃぞ」
「良かったですねえ」
社交辞令並みの言葉を返して苦笑を浮かべて、次に相手が起こすだろう行動を予測する。
『世話になったのう』
『いえいえお構いなく』
──そんな一般的なやり取りをして、そして「さよなら」だ。
後はまた、一人きりの生活になる。
独りに戻る日常が、待っている。
……それでいい。
ふ、と息を吐いて口元に自嘲めいた笑みを浮かべたその時、老爺が言った。
「そういえば、まだお互いに名乗っていなかったのう。失礼した」
「え? そんな、失礼だなんて」
「此奴は風魔。それは既に言っておったな。それで、儂の名は……故あって明かせぬが、まあご隠居とでも思うてくれ」
「はあ……」
「それで、お主は?」
「え?」
「いえいえそんな、名乗るほどの者ではございません」──と。
格好よく決めるより早くに話を進められてしまい、黒江は戸惑う。
しかも、ちゃっかり自分だけ名乗っていない。
(『ご隠居』は名前じゃないだろう!)
ぐぬぬとなる黒江を余所に、老爺はにこにこ顔で名前を明かすことを求めてくる。
(この爺様、意外に策士だ!)
一夜だけの見ず知らずの他人。
きっと、もう逢うことも無いだろう。
ならばここは──。
「名前、教えてくれんかの?」
……偽名でも名乗っておこうかという考えは、老爺特有のほっくりした笑みに押し負けた。
(この爺様、なんか本当に策士っぽいな!)
迂闊な嘘をついたら老爺の側に控えるようにして立っている『ふうま』とやらに怒られそうな気がしたので、正直に答えた。
「……黒江、です」
観念して明かしたのは、下の名前。
有名人でもない限り、苗字は不要だろうと考えて。
老爺が笑う。
「ふむ。ならば黒江とやら、儂らと共に来んかの」
「……はい?」
思いもよらぬ申し出に、黒江は素っ頓狂な声を出す。
**
「漬物もどき」は塩と簡単な圧力で作った素人料理なので、あまり美味しくなかった。
そして白米は夜のうちに部下を呼んで持ってこさせたものであり、周辺民家から盗んだものではありません、と一応弁護を。