それは突然の出来事だった。
いつものように濡れ縁で庭を眺めていた黒江は、自分のほうに近づいてくる人の気配があるのを感じた。
小十郎でもない。
梵天丸でもない。
天井裏からこちらを監視する忍でもない。
馴染みのない初めて視る気配に黒江が腰を浮かせれば、廊下の曲がり角から見知らぬ男が姿を見せた。
「……ここに居たか」
冷たい声だった。
男は、黒江を目にするなり冒頭の言葉を吐いて刀を抜き──問答無用で斬りかかってきた。
「物の怪、貴様が若君の食事に毒を盛ったのだろうっ!」
「……っ!?」
唐突にそんなことを言われても、訳が分からない。むしろ、その毒を毎回見つけているのは黒江だ。
小十郎も、その毒見役も見逃した──気づかなかった、もしくは後から誰かが入れた? ──ものを、気づいて阻止したのは黒江なのだ。
不審者ではあるが、梵天丸を助けた恩人だ。
恩に着せるつもりは毛頭ない。
屋敷から一歩も出てはいないし、うろつき回ったりもしていない。
ただひたすら大人しくしていたというのに、何故。
(何でいきなり殺されかかってるんですか──!?)
迫りくる男から逃げようと踵を返すが、生憎と黒江がいる部屋は離れのような位置にあり、しかもここで行き止まりである。
つまり、つまりは──逃げる場所がない袋の鼠。
「貴様のような物の怪が居るせいで、若君に災厄が降りかかったのだ!」
「……っ!」
男の一撃目をどうにか躱し、転がるように庭へ飛び出した。履物が無かったが、気にしてはいられない。
(命あっての物種えぇぇぇぇぇっ!)
素足のままで地面に下りたち、逃げ道は無いかと周囲を見回すが、そう都合よくあるわけも無く。
「……っ!」
最終手段。天井裏に居る人に視線を向けて、男に気づかれないように片手を振ってみる。
(そこの人、誰か……誰か人を呼んできてー! 若頭、若頭を大至急ーっ!)
そんな思いを込めた視線を投げかければ、意思が伝わったのか気配がどこかへ飛んでいくのが視えた。
(大丈夫かな。大丈夫だよね? 伝わってくれたよね!?)
少しばかりの不安を覚えつつ気配の消えたほうを見つめていた黒江は、土と砂利を踏み締める音を聞いて視線を戻した。
男がゆっくりと庭に下りてきて、黒江の前に立ちはだかる。そうして退路を断った上で、刀を構え直して──哂った。
「さあ……貴様はここで死ぬのだ、物の怪め」
「──っ!」
抜身の刀よりもギラギラした目が黒江を捉える。
ここで黒江は、人を呼びに行かせるよりもこの男を止めてもらったほうがずっと良い判断だったことに気づく。
人間、慌てていると判断力が低下するらしい。
黒江は己がとった悪手に歯噛みするも、もう遅い。
(私の馬鹿ー! ああもう時間稼ぎするしかないのか……!?)
心の中で嘆きつつ、黒江は男を見る。
憎悪の目。面越しに視える気配は完全な殺意でどす黒く、昏い青色をしている。
どろりと渦巻く敵意。見つめていると気分が悪くなるので視線は少しだけ逸らしておいた。
(誤解を解きたいけど、そもそも話が通じるか怪しい!)
泣きたくなるのを堪えつつ、男を見つめたままじりじりと後退る。その後退を見てとった男が、嫌に嬉しそうに顔を歪めた。
「く、ひひ……そうだ。怯えるがいい物の怪め。そしてぇ──」
刀が大きく振り上げられる。
「若君に害を為そうとした愚行を悔いて、死ねっ……!」
「──っ!」
黒江は咄嗟に身を屈めると、振り下ろされた刀とは反対の方向に向かって飛んだ。
それで致命傷は免れたが──背中に焼けつくような痛みが走ったのを感じて「ああ、やっぱりな」と思う。
避け損ねたのだ。
分かっていた。
時代劇の主人公のようにはいかないのだ、と。
(せ、なか、が、あつい……というかっ……物凄く、痛い──っ!)
その場に膝をつくが、ここで倒れたらそのまま終わりだ、と胸の奥で警鐘が鳴っている。
倒れるわけにはいかなかった。片膝をついて体を支えると、斬りつけた相手を見上げる。
見知らぬ男は笑っていた。
慈悲の欠片も無い目で、黒江を見下ろして。
天井裏に居た忍は、まだ戻ってこない。黒江がしなければならないのは、とにかく時間を稼ぐことだけだ。
「ひ、ひひ……生意気にも避けるとはな……だが、その傷では次は避けれまい」
「……っ」
図星だった。体が重く感じる。肩で息をつく黒江の真正面に立ち、男が再び刀を振り上げた。
──人は死ぬ間際に、すべての光景が緩やかに見えるという。
ゆっくりと、まるでスローモーションのように鈍色の刃が落ちてくるのを黒江は見た。
「死ね──伊達家に仇名す物の怪めぇ……っ!」
(──!? いま伊達って言っ──……)
疑念を抱く暇など無かった。
きらめく刀に息を詰め、堪らず目を閉じる。
瞼の裏の浮かんだのは、優しく笑う小田原の城主と傍らに静かに立つ赤い髪の忍。
それから。
それから、三人で見た桜吹雪の幸せな日常──。
※
「──そこまでだ、馬鹿野郎っ!」
「ぎゃあっ!」
ドスの利いた声がして、何かが砕ける音がした。
「天女殿っ!」
続いて、悲壮感漂う子供の声が聞こえた。
「──……?」
そっと目を開けてみれば、そこには伸びている男と折れた刀が地面に転がっていて、更には見慣れた顔をした男が隣にいた。
「おいっ、無事かっ!」
「……」
息を切らして近づいてきたのは、黒江がやや苦手としながらも、先程まで心の中でその助けを願っていた人物。
「すまん……本当にすまん! お前の存在を良く思っていない輩が居るのに気づいていながら、後手に回っちまった──!」
「……」
怖い顔をした若頭が、悲痛な顔をして黒江の体を片手で支える。
黒江は何も言えず──語る声を持たないので、青褪めてくる視界から相手を見つめることしかできない。
「無事、じゃねえな。──おい、止血だ。侍医を呼べ、大至急だ!」
「──」
当初は黒江を警戒していた梵天丸の従者。
それが今は壊れ物を扱うように黒江を抱き寄せ、短刀で切り裂いた己の上等な着物の袖を背中の傷口に当てて、出血を止めようとしている。
「しっかりしろ。大丈夫だ、傷はそう深くねえ。絶対に死なせやしねえ。だから、目を閉じるな!」
(し、ぬ……?)
微かに血に濡れた手で、軽く頬を叩かれる。
けれども黒江の精神の糸は、もうすっかり切れかけていた。
(私、は、ここで──死……)
「おいっ!? しっかりしろ、おい──……!」
「天女殿っ!」
倒れた先が地面だったので土が冷たく、踏んだり蹴ったりというのはこういうことをいうのかと、どうでもいい感想を抱きつつ、黒江の意識はそこで暗転する。
ぷつり、と。
何かの電源を切ったような音を聞いた気がした。
※ ※ ※
数日後。深い眠りから目覚めた黒江の視界に、安堵と悔恨が混じり合った二つの顔があった。
ぼろぼろと涙を流してすがりつく梵天丸と、その傍らで静かに顔を曇らせる小十郎だ。
治療の間、梵天丸は文字通り侍医の首に刀を突きつけんばかりの勢いで「仮面を剥がすな」と命じ続けた。その瞳には、黒江の聖域を侵害する者への容赦ない殺意が宿っていたという。
その庇護はあまりにも強固で、そして──独占的だった。
意識を取り戻した黒江に、梵天丸は年相応の少年の表情で微笑みかけた。だが、その瞳の奥には、何か黒江を所有することへの執念にも似た光が灯っている。
「……よかった。天女殿が消えてしまうかと思った」
梵天丸は黒江の細い手を両手で包み込み、頬を擦り寄せる。それは心からの安堵なのだろうが、今の梵天丸の感情は黒江を焼き尽くすほどに重くなっていた。
(なんか……業火みたいな気配が視えるけど……多分、凄く心配してくれたんだろうな)
黒江は面の下で微苦笑を漏らし、そっと手を引き抜こうとした──が、梵天丸は離さなかった。
逆にぎゅっと強く握られて、黒江は僅かに笑みを強張らせる。
(あれ……なんか……手を掴む力が強いな? 梵ちゃん?)
さり気なさを装って離そうとするも、力が強い。
結局、黒江は諦めてそのままにするほかなかった。
※
その光景を、小十郎は少し離れた場所から、冷静な眼差しで見守っていた。
甘えていた子供はこの数日ですっかり鳴りを潜め、随分と大人びた表情をするようになった。
側近としては、主の成長を喜ぶべきところだ。
だが、今の梵天丸が黒江に向ける感情は、若君という立場を超え、ある種の依存と歪な支配へと傾きかけているように小十郎には見えた。
小十郎は、黒江が「毒」だの「物の怪」だのと罵られて傷ついただろうことを察している。
だからこそ、今この瞬間、梵天丸が黒江を求めてすがりつく様子がただの慰めではなく、この天女を自分だけのものに閉じ込めようとする、少年ゆえの純粋な狂気のように感じられた。
(……梵も、随分と危ういものに惹かれてしまったものだな)
小十郎は、静かに二人の元へ歩み寄る。
彼はあえて梵天丸の肩に手を置くことはせず、静かな声で言葉をかけた。
「梵。天女殿も、まだ身体が万全じゃない。あまりここに詰めては──」
「……分かっている」
梵天丸は顔を上げ、小十郎を睨むような鋭い視線を向けた。その表情は、いつもの聡明な若君のものとは少し違う。
黒江を守るためなら何でもする。
そんな排他的な独占欲が、少年特有の歪さとなって滲み出ている。
小十郎は、その若君の変貌に気づきながらもあえて踏み込まず、視線を黒江に向けて、ふんわりと笑ってみせた。
「天女殿。……今回のことは本当に申し訳なかった。完全にこちらの手落ちだ。誓おう、こんなことは二度と起こさせない」
それは約束であると同時に、小十郎なりの償いと守護という決意でもあった。
梵天丸が執着を隠そうともしない瞳で黒江を見つめ続けている。そして、そんな梵天丸の様子に黒江も気づいているらしく、どことなく戸惑った雰囲気を纏っていた。
この屋敷に漂う、甘く痺れるような毒の香り。
その正体が梵天丸自身の歪みにあることを、この時の小十郎はまだ深く突き止めることはしなかった。
ただ、この籠の中の平穏が崩れはじめたことだけを、静かに予感していた。
***
実際問題、回避できるかと言えば厳しい気がする。