見知らぬ場所での生活も、もう数日……いやひと月以上は経っているのだろうか。
背中の傷から生じていた痛みと熱がどうにか下がり、動けるようになったのは七日が過ぎた頃だった。
熱が引くのに三日、傷が塞がったのは四日である。
この間、黒江は夢か現か分からない状態に陥っていたので記憶があやふやになっている。
それでも、七日目にどうにか起き上がり、食事が摂れるまでになったのは僥倖だと言えよう。
意外と早い回復に一番驚いたのは、医者でも小十郎でも梵天丸でもなく、黒江自身だった。
地味だが優しい味のする白粥を口にしながら黒江が思ったのは、ただ一つ。
(──人体の神秘って凄い!)
妙に冷静で淡泊なのは、初めて体験した刃傷沙汰に精神が逃避したせいもある。
深く考えるのは怖い。
生かされたのは、偶然か必然か。
色々考えてしまうのが怖い。
黒江は考えてしまう。
自分はここに居着いてはいけない存在ではないのだろうか、と。これまで巧くやってこられていたのは運が良かっただけで、黒江は異端分子でしかないのだとしたら。
だから初対面の男に襲われ、斬られ、生死の境を彷徨う羽目になった。排除の対象として。
そう考えると、これからはこれ以上にひどい方法で『排除』されるのかもしれない。
黒江は僅かに震え、肩を擦る。
(ここから抜け出す方法って、死ぬ以外ない──とかだったら嫌だなあ……)
そういえば、斬りかかられた際に何か衝撃的な言葉を聞いた気がするのだが──。
「──天女殿? 傷が痛むのか?」
隣に座って黒江の介助をしていた梵天丸が、心配そうな声を掛けてきたところで思考は中断する。
なんでもないよ、と首を振り、仮面越しに微笑むと黒江は食事を再開した。
※
梵天丸の勉学を見守るのが日課になりつつあった、ある日のこと。
いつものように朝餉を済ませ──今回は毒入りの膳ではないので安堵した──その後は梵天丸に手を繋がれ、彼の部屋に向かう廊下を歩いていた。寝込んでいた間に弱った体力と足腰の治療も兼ねて。
そうしてゆっくりと廊下を歩いていた黒江は、庭に咲く桜の花がかなり散っていることに気づく。
(そういえば、結局お花見できなかったなぁ……)
葉桜一歩手前の桜の木。時間に余裕が出来たら三人で桜を見ようと、約束をしていた……のに──……。
「…………」
「天女殿? どうした」
不意に立ち止まった黒江に、隣を歩いていた梵天丸が仰ぎ見る。黒江の視線は庭に咲く一本きりの桜に止まっていて、その瞳はどこか愕然としているように見えた。
梵天丸が庭に視線を移し、黒江の視線を留めたものを確認する。
「何を見て……ああ、桜か。天女殿が舞い降りた木だな」
そう言って、子供にしては少し大人びた顔をする。
「もうこんなに花が落ちてしまってるか……そろそろ桜も終わりだな」
しみじみと呟き、梵天丸は「さあ、行こう天女殿」と黒江の手を引いて、再び歩きはじめる。
引きずられるようにして歩く黒江。その顔は少し蒼褪めていたが、前を歩く梵天丸は早く部屋に行きたいと急いていたので、それを見ることはなかった。
※
日の沈んだ庭先。
濡れ縁に茫と立ち、黒江は桜の木を眺めている。
花を失った桜は輝きを失い、薄闇の中に今にも溶けそうに見えた。
「……」
黒江は、途方に暮れたように立ち尽くす。脳裏を過ぎるのは、小田原の栄光門で見た桜。そう昔のことでもないのに、この桜を見るまですっかり忘れていた。
──思い出しもしなかった! 小太郎を、氏政を。
何故。どうして。
あんなに帰りたいと願っていたのに。
(これも……やっぱり、何かが影響してるのかな)
黒江は狼狽していた。記憶を失いつつあることに違和感を抱かずに過ごしていたことを。
桜の木に意識を戻す。自分が倒れていた場所に咲いていた桜。ここでの日々は、あの場所で目覚めたことから始まったのだ。
もしこの桜が呼んだのだとしたら、花がすっかり散ってしまったら帰れなくなるのだろうか。戻れなくなってしまうのだろうか、小太郎と氏政のいる小田原に。
(……嫌だ!)
思わず濡れ縁から庭に下りる。そこに履物は無かったが、気にすることなく裸足のまま駆け寄った。
「……」
冷たい土を踏み締めて辿り着いた、桜の根元。木を見上げ、その幹に手を触れてみた。夜気に触れた樹皮はひんやりと冷たく、黒江の手の平から熱を奪っていく。
葉桜になりかけている桜が、消えかけている灯火に見える。
ここの生活と人間関係に少し慣れてはきたが、それでも小田原が恋しい。
──思い出してしまった途端に、どうしようもなく恋しくなってしまった。
自分はどうなるのだろう。
どうなってしまうのだろう。
この木に何かあれば、またどこかへ飛ばされるのだろうか。それとも、ここに居るままなのか。
もう、あの日々には戻れずに?
(嫌だ……やだ……っ)
は、と息が詰まる。
声を上げたいのに、この喉は音を紡がない。
懐いてくれる若君は可愛い。
その若君に付き添っている若頭も、最近では人当たり柔らかく接してくれているので緊張は減った。
けれど、けれどそれでも。
自分を最初に迎え入れてくれたのは氏政と小太郎で、彼らのお蔭でこの世界に馴染むことが出来たのだ。
だから、自分の居場所は──自分が居たい場所は小田原だけだ。なのに、ここにいると記憶が、思い出が消えかかっていく。
怖い。
帰りたい。
「……っ!」
黒江は桜を見上げ、唇を震わせてそのわずかに残っている花に願う。
血を吐くように、声を失っている喉から何か音は出ないのかと息を吐く。
せめてもの供物として何かないのか。
捧げもの。供物。
古代の習わしに則るなら、それは人の身だった。
ああ、どうせならこの身を持っていけ。
あの桜舞う小田原に。あの場所に連れて行ってくれ。
黒江はその幹を拳でがつりと叩き、額を押しつけて声無く呻く。小田原の思い出を失くしていくこの場所が、今は怖くて仕方がない。
(私を帰してくれ……助けて、小太郎……っ、爺様──!)
伝説の忍の名と小田原の城主の名を声無く紡ぎ、黒江はそこに所在なく佇む。
その時、ふと桜の香が鼻先を掠めた。
不思議に思った黒江が顔を上げれば、縋りついていた桜の木が満開になっていて驚く。
「……!?」
緑多い葉桜が一瞬にして桃色の花を咲き誇らせていた。
コレは何だ、どういう仕掛けだと幹に手を掛ければ、触れた箇所がぼうっと白く光る。
「……?」
桜の木って発光するものだったっけ?
浮かんだのは、ありえない感想。それを即座に切り捨てた黒江は慌てて手を離そうとするが、光がいつの間にか己を取り巻いていた。
(何だコレ!? 何なんだよコレ!?)
超常現象にもほどがある。
時代にそぐわなすぎる事象に、わたわたと慌てていたその時だった。
※
「天女殿っ!」
背後から黒江を呼ぶ声がした。
悲鳴のような、泣きだしそうな幼子の声は聞き覚えがあった。
音のない慟哭を吐いていた黒江が振り向く。
すれば、濡れ縁に立ち尽くす子供がいた。体の横で両手の拳を握りしめ、悲痛な目をして黒江を睨みつけている。
「……どこへ、行かれるのですか」
夜気の中、震える声に責められて黒江はきょとりとする。
(どこへって言われても、今の私に行けるところなんてないんだけど?)
「……っ。俺に何も言わずに、どこへ。──そんな傷で、どこへ行く」
唇を噛みしめて黒江を睨む梵天丸の瞳には、涙が滲み始めていた。
どうやら何か勘違いされているらしい。彼の後ろには小十郎がいて、近づこうかどうしようかと躊躇っているのが見えた。今すぐに飛び出して黒江を捕まえようとしないのは、梵天丸を思ってか。
「貴方は、俺が迎え入れたんだ」
肩を震わせて、梵天丸が言う。
「なのに何故、俺に黙っていこうとする」
今日の朝から先程別れた夜まで一緒に居たのに、どうして急に、と梵天丸が言う。庭に出ていたのを、逃げる算段をしているとでも受け取られているのか。
「──」
黒江は弁解しようとして口を開くも、声が出ないことを思い出して口を閉じる。
この状況は本当に『勘違い』なのだろうか。先程見た光る桜が、妙に心に引っ掛かっていた。
(うーん。桜が気になるけど、今は梵ちゃんの相手をしなきゃだな)
背後の桜は一先ず脇へ置き、今は梵天丸の言葉に耳を傾けることにする。
「天女殿。桜はもう、花が落ちた。だから貴方は……帰れない」
「……梵」
「──?」
梵天丸の言葉に、黒江が「え?」という顔をして背後を振り返る。
(花が落ちたって、何をそんな──)
子供の言葉通り、咲き誇っていた桜は葉桜に戻っていた。
(あれ。さっきまで満開だったのに)
錯覚だったのか?
しかし、鼻先を掠めた芳香と目の前で散り落ちていた花弁をはっきりと確認している。
いま桜の木は、葉のほうが目立ち始めていて花はもう僅かしか残っていない。
逆を言えば──まだ少しだけ『残って』いた。
黒江が呆然と木を見上げていれば、子供がひび割れた声で桜の木を睨み付け、それから黒江を見て瞳を潤ませる。
「俺は、貴方を傷つけたりはしなかった。……なのに、貴方は……俺に、傷を残していくのか」
後の言葉は、泣き声で掠れていた。
「それは、俺が、守り切れなかったからか。俺が、弱くて……弱いせいで」
「──」
(弱いのは君じゃないよ)
黒江が寂しげな眼差しで梵天丸を見つめ、唇を動かす。
「……天女殿? なに、を」
動く唇を見つめる梵天丸。けれども読み取れず、もっとよく見る為に前に足を踏み出す。
「梵!」
ふらりと前に出た若君を、小十郎が引き止めた。
だが梵天丸は、黒江から──その唇から視線を外さず、更に近づこうと前に出る。
「駄目だ。俺には貴方の言葉が聞こえない。──貴方の歌は聞こえるのに」
「……?」
梵天丸が口にしたのは唐突な真実。ここで黒江は、ぱちりと目を瞬かせる。
(え。歌は聞こえるって、何だソレ)
声が出ないからこそと思い、それこそ遠慮なく無伴奏で一人カラオケを楽しんでいたのだが、もしや今まで口ずさんでいたのも聞こえていたのだろうか。
(え、えええ。待って。深刻っぽい状況だけど、今は歌を聞かれていたっていうほうが私にとって大問題なんだけど!)
ひいいと声なく悲鳴を上げ、ふらりとよろめいて桜の幹に手を添える。
(に、逃げたいっていうか消えたいっていうか、ああもうほんと小田原に帰りたい……っ!)
「天女殿?」と梵天丸が声を掛けてきたが、黒江はそれどころではない。木に背中から凭れかかり、両手で顔を覆ってしまう。
(めちゃくちゃノリノリで歌ってたよ! うわあああ恥ずかしいぃ!)
一人、激しく懊悩する黒江。その姿は儚く、頼りなく……まるで、今にも消えてしまいそうだった。
実際問題、強い羞恥心によってこの場から消えたかったわけだが。
「──っ……行くな!」
「梵天丸様!」
何かを感じたのだろう、抱き留める小十郎の腕から身を乗り出して、梵天丸が叫ぶ。
「行くな、天女殿! これは命令だ。貴方を拾い受けた俺の命令だ!」
薄暗い夜気の中、子供の声とは思えぬ声で梵天丸が告げたのは君主の命。
(あ。梵ちゃんが物凄く若君っぽい)
「……っ、天女、殿? なにを……笑って……」
仮面の隙間から覗く黒江の瞳が、柔らかに笑むのを梵天丸は見た。
それを切っ掛けにしたかのように、桜の木全体が、ぼうっと光る。
(……なんか背中が明るいな?)
「──っ、見るな、天女殿!」
ハッとした顔で叫ぶ梵天丸。しかし黒江は、背後の光源に気づいて振り返ってしまう。
(──桜が光ってる!?)
「駄目だ!」
梵天丸が桜と黒江とを交互に見遣り、叫んだ。
「行くな! 桜はもう散る。貴方の場所はここだ、この俺の側だ! 違うか、天女殿!」
(……梵ちゃん)
それは熱烈な告白にも、横暴な命令にも聞こえた。
黒江は、困ったように眉を下げる。ふと、梵天丸を制している男に目を向ければ、困惑したような、怒りを押し殺したような眼差しを向けられた。
視えるのは、主君を悲しませていることに対しての怒りと、けれど居なくなってくれることへの安堵。
それから──あとは、読み取れない。
まあ、恐らくは敵意かそういった類だろう。散々迷惑をかけて、勝手に出ていくのだ。恨まれても仕方がない。
これですっかり嫌われてしまったな、と黒江が苦笑を浮かべれば、今まで黙っていた小十郎が口を開いた。
「……お前が帰るのは、俺が原因か?」
「小十郎?」抱き留められた梵天丸が、従者を見上げる。
小十郎はその視線に苦笑を返し、再び黒江に目を戻した。
「俺は、最初からお前に酷いことしかしなかった。お前は、梵天丸様を救ってくれたというのに」
(そうでもないよ。若頭は途中から優しくしてくれたじゃないか)
「更にはお前を傷つけようとする存在を見逃して、お前は死にかけちまった。ソレが許せないから、お前は帰るのか。……梵天丸様を、置いて。俺の、せいで」
(違うんだよ。悪いのは貴方たちじゃない)
黒江は首を振り、苦笑する。
さてどう伝えようかと溜息を吐いたところで、喉のつかえが取れていることに気づく。
ああ、もしかして。
これならば、きっと──黒江は深く息を吸い、ゆっくり吐くと彼らを見つめて口を開いた。
※
「私、が」
ようやく声が出せたのは、許された証だろうか。
黒江はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私が原因で、揉め事が起こるようだから……私はきっと、ここに居てはいけないんだ」
「……っ!」
「お前、声、が──」
驚く二人を余所に、仄かな灯りが黒江の体を包み込む。
「行かないでくれ、天女殿──!」
「待てっ……待ってくれ、なあ、オイ──っ!」
梵天丸と小十郎が濡れ縁を降りて駆け寄ろうとするが、それより早くに黒江の体は透け始め、夜の中に溶けていく。
「迷惑かけて、ごめんなさい。それから──」
仮面の向こうで黒江が微笑む。
『──ありがとう』
それが、最後の言葉となった。
黒江が消えた後には薄桃色の花弁が全て散り落ちていて、庭の木は今度こそ完全な葉桜となっていた。
そうして桜は終わり、天女は姿を消した。
黒江のことは跡形もなく人々の記憶から薄れて──残香のみを、二人に残して。
***
さようなら。
黒江は色々歌っていたのでかなり恥ずかしかった。