05 小田原戻り橋 1
目を開ければ、朱塗りの橋の上に居た。
ぼうっとしたままその場に立ち尽くしていると、夜の静寂を踏み締めるように、きしりと何かが軋む音がした。
「そこで何をしているのかね?」
「──え?」
背後の気配に気づいて振り返れば、朱塗りの欄干に寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。壮年の男だ。左手を腰の後ろに回しているせいか、どこか紳士然として見える。頭の少し高いところで結った髪の一部に白いものが混じっていて、それが月明かりに照らされて獣のタテガミのように銀色に輝いて見えた。
「……なんか、獅子っぽい」
「……それは何かの謎かけかね?」
ぞくりとするような低音。響きは甘美だが、声音の奥には泥のような昏い愉悦が溶け込んでいる。男は凄惨な笑みを浮かべ、距離を詰めてきた。獲物を狩る蜘蛛の歩みのように一歩ずつ、ゆっくりと。
「このような夜更けに、卿は斯様な場所で何を? この城の隠し事を探りに来た間者かな」
「けい? 夜? 城って──あっ!」
男の言葉にふと空を仰げば、星と共に浮かぶ上弦の月が見えた。
けれど、小首を傾げて黒江は疑問を抱く。
(今度もまた知らない場所か?)
桜の木の下で消えた記憶の向こう側。ここがどこなのか、夜に包まれた中では黒江にはすぐに判別がつかない。ゆるりと首を振って溜め息を吐くと、男を見る。
「……つかぬことをお聞きしますが、ここはどこでしょうか?」
いつの間にか目の前にまで距離を詰めていた男を見上げて訊ねれば、相手は一瞬ばかり目を瞠ったものの、すぐに歪な笑みを浮かべて答えた。
「卿の足は、己を知らぬ場所へ導いたのかね? ……目的も無く、この小田原城の二の丸へ続く橋上に?」
「おだ……わら?」
黒江は、男の言葉を復唱する。
おだわらの、にのまる。
おだわら。
喉の奥が熱くなる。
「──小田原!?」
心に満ちたのは歓喜。
欄干から離れ、振り仰いだその先にあった城郭は間違いなく願っていた場所だった。
「……ははっ」
知らず、泣き笑いのような声が零れた。
「か、かえっ、て、きた……」
声が震えた。
ああ、気づくのが遅れたが、紡ぐ『声』もある。──声が出る!
「──やっと帰ってきた……っ!」
そう声を上げて駆けだそうとした体は、しかし前に進むことは無かった。
※
黒江の二の腕を掴み、引き止めたのは会話をしていた壮年の男だった。黒混じる金色の気配を纏ったまま、男は獲物を見るような熱っぽい視線を黒江に向けている。
「え、あの……?」
「卿は……私に礼一つなく立ち去るのかね?」
夜気に艶やかな低音を響かせて、男が軽く腕を引いた。
抵抗する間もなく黒江の体は男の方へと引き寄せられる。
「え、あの」
黒江は目を丸くして不思議そうに男を見上げていたが、すぐに意味を理解し、勢いよく頭を下げた。
「あ……そうか。すみません、あの、教えてくれて有難うございました!」
勢い余って頭を下げた拍子に掴まれていた腕を振りほどく形になったが、黒江はとにかく慌てていた。
「お礼も言わずに行こうとして、すみません。あの、ちょっと色々あって、混乱してて……って、貴方には関係ないことですよね、あはは……」
黒江は顔を上げると、仮面越しから男に笑いかける。
滲む視界に見える男の瞳。
そこにある黒ずんだ金色が鱗粉のようで、夜の闇の中で不思議な美しさを放っている。それが不吉な予兆であることにも気づかず、黒江は、ただぼんやりと相手を見つめていた。
男が口元に浮かべた姦計たる笑みに、違和感すらも覚えず──そうして危険な第一次接触が始まることにも、気づきやしない。
※
男は妖しい笑みを浮かべていたが、不意に表情を引き締めて自分の顎を擦った。
「……以前、どこかで会わなかったかな?」
「……え」
男は、黒江を頭の上からつま先までゆっくりと見下ろした後、唐突にそんなことを言った。
黒江は戸惑った顔をして相手を数秒ほど見つめた後で答える。
「いや……会ったことはないと思いますけど」
「ふむ……私の勘違いか? しかし……どうにも……」
男が顎を擦りながら、ぽつりぽつりと何事かを呟いている。黒江にはよく分からない。
男は納得がいかないような顔をしていたが、考え込むのは止めたらしい。黒江に意識を戻すと、会話を再開した。
「ところで──卿は、小田原の人間かね?」
男が右手を伸ばし、黒江の仮面に触れながら訊ねてきた。指先が、面の中の肌を透かすようにその輪郭をゆっくりとなぞっていく。
「え、あ」
仮面に触れられたことで我に返った黒江が、僅かに身を引いてそれから避けつつ言い返す。
「小田原の、と言うか、ええと、居候みたいなものですが」
「そうか。……私は、小田原に腕利きの面打ち師が居ると聞いて来たのだが、もしやあれは卿のことかな?」
かつり、と一歩近付いて、男が言う。
黒江は一歩後退し、苦笑いを浮かべる。
「いやあ……私は小田原に来てまだ日も浅いし、未熟者だしで、人違いかと」
この段になって、黒江はようやく相手が纏う気配の不穏さを知る。鳥肌が立つほどではないが、背中がぞわぞわして仕方がない。
舐めるような相手の視線と、艶のある低音のせいで、無意識に呼吸が浅くなる。追い詰められた草食動物にでもなった気分だ。
ああ、くすんだ黒金に見惚れている場合では無かった。
こうなったらもう、選択肢は一つ。
隙を見て走りだそう──。
「──逃がしはしないよ」
「うわっ!?」
退路を確認しようとした刹那、男の右手が黒江の二の腕を掴んでいた。先ほどとは比べ物にならない強い力だ。
男の左手は相変わらず背後に隠されており、この状態から見ると酷く不気味に見える。
なんだか紳士のようだと感想を抱いた先刻の自分を罵ってやりたい。お前の目は節穴か! と。
「あああ、あの、礼儀を欠いたことは謝ります、すみません。だから、離して下さい、あの、帰らないと……っ」
男の腕の力は強く、黒江はそれを振りほどけない。後ろへ後退るが、それに合わせて男が足を進めてくるので距離も離れない。
狡猾な、という言葉が相応しい笑みを浮かべた男が近づいてくる。
獲物を見つけた獣の目。
ああ、コレはいわゆる「危ない人」だ。
「──貴方は変質者ですか!?」
思わず感じたままの言葉をぶつければ、男が目を細めて──「さて、どうなのやら」と含み笑い、姿が消えた。
「まあ──」
「ひッ!?」
瞬間移動かというような動きで腰を抱かれ、引き寄せられたそこに距離は皆無。耳元で重厚な艶やかさを帯びた低音が響く。
「善人でないことは確かだね」
「──っ!」
怖ろしさのあまり、黒江は上げるべき悲鳴を忘れる。
「い、いつの間にっ!? はっ離して下さいお願いですからっていうか、はーなーせーっ!」
はくはくと口を開閉させて、男の両肩をあらん限りの力で押し返そうとする。それでも出来るだけ離れようと、もがいていた時だった。
ひゅう、と風の音がした。
※
「離せっ──って、あれっ?」
黒江は、自分を拘束していた男が数歩離れた先に居るのを確認した。
しかし、まだ拘束されている感触が腰回りにある。その体に巻き付くようにして背後から回された腕には覚えがあり、背に当たる体温には懐かしいものがあった。
肩越しに背後を見やった黒江は、そこで短く息を飲む。
「あっ……!」
自分を抱き寄せたのは、黒い鉄兜を被り眉庇で顔を隠した伝説の忍。風魔小太郎。
「こた、ろ……──っ」
黒江は上半身を捩じって震える腕を相手に伸ばすと、その首に勢いよく抱き着いた。
「うわああこただあああ小太郎だあああ、久し振り、凄いお久し振りです小太郎さあん!」
「(……!?)」
何故か大袈裟に黒江に懐かしがられて、小太郎は一瞬動きを止める。そんな小太郎に黒江は構わず、爆発した感情のままにとりとめなく喋る。
「会いたかった! 物凄く会いたかったよあああ本物だ小太郎だあああ! ここ小田原だったあああ!」
「(……、……!?)」
「聞いて小太郎! ドエスが! 物凄くドエスの人が、何かめちゃくちゃ腰に来る声で迫って来て! 捕まえて! 離してくれなくて! ひたすらにドエスに迫ってくるんだけどなにあのひと色気駄々漏れすぎて怖いんだけどおおお!」
小太郎の腕の中で、黒江は泣きべそをかきながら訴える。そのあまりの語彙の破壊力に、小太郎の兜の下の眉がピクリと動く。
「(……)」
「はて。……どえす?」
感動の再会。
だというのに、黒江は恐怖のあまり羞恥心も外聞も忘れて小太郎に泣きついている。
「ドエスが! ここにアダルトのドエスがいた! 至近距離でドエス! 存在とか雰囲気がもう全体的にドエス! 何だあの人、公に出てきてちゃダメな人なんじゃないのかねえちょっと小太郎さん!」
「(……)」
小太郎は、黒江の言葉を理解しようとしたがどうにも分からない。とりあえず、子供を宥めるようにその背を叩いていれば、癇癪めいた悲鳴が静かになっていく。
「ふ、っは、はぁ……うぅ……っ……はぁ──……はあ」
やがて、小太郎の耳元で黒江が深く息を吸い込んで吐く音が聞こえた。
「落ち着いたかね?」
「……っ!」
頃合いを見計らって声を掛けたのは、元凶である黒金の気配を漂わせた男だった。黒江は身を強張らせたものの、小太郎からゆっくりと体を離して振り返る。
「お、落ち着けてないですけど、どうにか!」
「では会話の続きをしようか。──ああ。野火が見たくなければ卿も付き合いたまえ、風魔」
「(……)」
「え。のび? って、何……?」
不敵な笑みを浮かべて牽制する男に、小太郎が剣呑な気配を纏わせた。
男の言葉が何のことか分からず黒江一人がきょとりとするも、ただ一つ分かったのは小太郎と目の前の男が互いに面識があるということだけ。
もしかして小太郎の知り合いだったのだろうか? だとすれば、あんなに失礼な態度をとってしまったのは申し訳ないことだ、と黒江は思った。
「……なあ、こた。この人って、こたの知り合いの人だった? ごめん、結構失礼なこと言っちゃった──」
「(……っ!)」
申し訳なく思った黒江が謝罪しようとすれば、小太郎に物凄い勢いで首を横に振られて否定された。
「ええ……なにその何かめちゃくちゃ嫌そうな反応。友人とかじゃないのか?」
「ははは。友人、ね……何とも可愛らしい表現をしてくれるな、卿は」
男は愉しげに目を細め、まるで玩具を見つけた子供のような好奇心を黒江に向けた。その瞳は、やはり鱗粉のように、昏い金色を湛えている。
(あ。この人の性格、ちょっと分かったかもしれない)
男が再び一歩踏み出した。
その瞬間、小太郎が黒江を庇うように黒江の前に立つ。その広い背中はいつもの、冷徹な守護者の意志を宿していた。
***
ようやく戻って来られた小田原。
けれど、初手から少々不穏な予感。