「ふむ……そうか。卿が噂の、風魔の新しい主だったか」
「……はい?」
小田原城郭内にある、学橋の上。
上弦の月が浮かぶ夜空の下で、長身の忍に子供のように片腕で抱き上げられている黒江は、思わず素っ頓狂な声を出した。
壮年の男は、黒江の反応に不敵な笑みを浮かべる。
「おや。違っていたかね?」
「違いますよ!?」
仮面の奥で寄せられた眉根に、男が気づいたかどうか。黒江は首を傾いで小太郎を見遣ると「なあ?」と声を掛けた。
求めたのは「違うよな?」という同意。
小太郎は抱き上げた黒江を見つめた後、唇を動かす。
「(……)」
「ん……何?」
読唇術がちっとも上達しない黒江が戸惑っていれば、翻訳したのはいつの間にかまた近くにいた壮年の男。
「風魔は『このまま主になってくれても構わないが』と、卿に言っているようだな」
「──は。あ、主? ……え?」
「(……)」
唖然とする黒江の頬をするりと撫でて、小太郎が唇を動かす。そしてそれを男が読む。
「『貴方に仕えたい』……いやはや、卿は忍を服従させる技でも持っているのかな?」
「──突然どうした!? 転職先を、大名から無職にしちゃダメだろう!?」
小太郎が無一文になるぞ!? と黒江が盛大に首を振って拒絶すれば、当の忍がどこか残念そうに息を吐く。
「反旗!? いや、反抗期か!? 本当に急すぎて、どうしたとしか言えないぞ小太郎。ノー転職、ノー鞍替え!」
「(……)」
「『急に、ではなく以前から考えていた』……ほう。いつ伝説の忍が懐柔されたのか、聞きたいところだね」
「通訳は有難いんですけど、対岸の火事的な顔をしている貴方が憎たらしいです、善人じゃない人」
男が己の顎を撫で、面白いものでも見るように小太郎のやりとりを眺めはじめたので、黒江がうんざりした声を出す。
完全に暇潰しとしての見世物扱いされていることに眉を顰めたものの、それよりも無謀な転職をしようとしている伝説のほうを何とかするのが先だ。
見知らぬ男は一先ず構わぬことにして、黒江は小太郎の説得を試みる。
「なあ、小太郎? 不満があるなら聞くし、待遇のことで悩んでいるなら一緒に考えるから、落ち着こう。……というか、血迷うな、考え直せ。な?」
その肩に手を置き、子供に言い聞かせるような声で話しかける。
「私はただの一般人で、小太郎を雇える財力も権力も無い人間なのは知ってるな? だから、それが思いっきり無謀なのも分かるだろう?」
「(……)」
小太郎はそれでも何か言おうとしていたようだが──言葉で伝えるのは諦めたらしい。
不意に黒江を抱き寄せると、その首筋に顔を埋めて擦り寄ってきた。
「うぇっ──あああああ!? え、いやっ、こたっ、なにっ」
「ほう。実力行使か。伝説の忍がどうするのか興味があるな」
「何の実力!? え、ちょっ、甘えた作戦か!? いやいやいや、揺らがないから! 絆されないからな!?」
「(……)」
黒江がぐいぐいと小太郎の両肩を押して離そうとするが、相手はビクともせず黒江の首筋に顔を擦り寄せ、埋めて、動かない。
遂に、男が両手を叩いて笑いだした。
「ははは。いやはや、これは愉快な光景だ。卿は、風魔に随分と強い思慕を寄せられているのだな。快哉、快哉」
「そこの傍観者はドエス加減が滲み出てるから隠せ! ──あああ小太郎がビクともしない、流石は伝説、って感心してる場合じゃなくて!」
黒江は相手の肩を必死で押し、距離を取ろうとしながら叫ぶ。
「こたは北条を守らなきゃ駄目だろう! それに、私は爺様には恩があるんだぞ。何をどうしたってその鞍替えは承認できない!」
「(……)」
小太郎は、やはり動かない。
それどころか、ふっと首筋に吐息を掛けてきて、黒江は声のない悲鳴を上げる羽目になる。
「ひっ!? ……~~っ、わ、分かった、じゃあ──友達から!」
「(……?)」
後先考えずに脳裏に浮かんだ言葉を口にすれば、小太郎が顔を上げて黒江を見つめた。
きょとんとしている風に見える忍に、黒江は一気に畳みかける。
「ほら、何事も前提は必要だろ? 結婚前提にお付き合いを、っていう感じで! いや、この場合は結婚関係ないんだけど、いきなり主従関係にはなれないから、先ずは友達から始めよう。な!?」
後半、少しばかり己の台詞が切なくなって涙目になりかけたのは秘密だ。
小太郎は首を傾げて不思議そうに見つめていたが、やがて、ゆっくりではあるがコクンと頷いてくれた。
「よし、友達契約成立だ! ……というわけで、これからも宜しくな小太郎!」
黒江は小太郎の赤い髪をわしわしっと撫で、あやうく主従契約を結ばねばならなかった流れを強引に打ちきった。
内心で、安堵の息を吐いたのはいうまでもない。幾ら忍者が好きでも、大名に仕えている伝説とも呼ばれる忍を己に仕えさせるなどという分相応なことはしたくなかったのだ。
小太郎は非常に腕が立つ上に様々なことが出来るから、確かに側に居ると安心だし色々と助かることが多いが、雇うとなると話は別だ。平凡な一般人に、その役目は重すぎる。
それにしても、この場を凌ぐ為とはいえ随分と馬鹿なことを言ったものだと思う。
伝説の忍相手に友達契約。風魔小太郎に「友達から始めよう!」などと、よく言えたものだと我ことながらその無謀さに呆れるしかない。
かなり焦っていたとはいえ、回避の手段が貧困すぎる。かといって、相棒というにはコチラが戦力的に非力すぎてつり合いが取れないし、同僚というのも違う気がした。
黒江は改めて、小太郎と己の関係について考える。
世話を焼いてくれる、優しい男。
危険があればそこから遠ざけ、常にどこかで見守ってくれている伝説の忍。
報酬は無いというのに、彼は見返りも求めず、雛を守る親鳥のようにいつも黒江を気遣ってくれる。
(……いや、これはこれでどうなんだろう)
これが異性同士ならばそう違和感も無いのだろうが、何の因果か今の自分は男なのだから、これは少し恥ずべき状況なのではないか。
(そもそも、それに甘えきってる私もどうなんだ? って話だよな。現代人でひ弱だからって言い訳して逃げてるだけなんじゃ……)
今更にじわじわと生じ始めてきた羞恥心が、とにかく心に痛い。
「……」
「(……)」
「──」
顔を上げれば、口端を持ち上げて微かに微笑んでいるように見えなくも無い大柄の忍と目が合って、そろりと視線を外す。
居た堪れなさから逃げるように視線を泳がせれば、今度はこの面白おかしい醜態を一部始終傍観していた男と目が合ってゲンナリした。
得体の知れない雰囲気を纏った謎の男の存在を忘れていた。
厄介事にならなければいいのだが、と思いながら、黒江は疲れた顔をして男の相手をする覚悟を決める。
※
「えー……と。ところでドエスさんは、いつまでそこに居るんですかね?」
「なに。卿の名前を聞いていないなと思ってね」
「礼儀を欠いた私が言うのも何ですけど、言いだした方が先に明かすのが筋ですよ?」
「おや。これは一本取られたな。ははは」
「……ははは」
わざとらしく額に右手を当てて男が笑うのを、黒江は胡散臭い目で眺める。
いまだ背の後ろに隠すようにしている男の左手が、どうにも気になって仕方がない。
渦巻く、くすんだ不吉な金色。
それでも目が惹かれてしまうのは、やはりその色が美しいからだ。
複雑な顔をしている黒江の視線を受け止めて、男が喉奥でくくっと笑って口を開いた。
「私の名は、松永久秀だ」
「松永、さん……? あ、私は眞条です。眞条黒江──」
──はて、松永。聞いたことがあるような、ないような?
胸中に抱いた黒江の疑問は、顔に出ていたらしい。
「私の顔に何かついているのかね?」と声に笑いを含ませて、松永が近づいて来た。
「いや、気になるのは顔でなく名前でして。ちょっと最近、度忘れというか……んー……」
「(……)」
小太郎が警戒して後ろへ下がるのを余所に、黒江は松永をじいっと見つめ……やがて、「あ」と声を上げた。
「──弾正! そうだ、松永久秀弾正! 平蜘蛛茶釜と九十九茄子の人だ!」
「(……っ!?)」
「おや。私を知っているのかね」
「そりゃもう有名ですから! だってあの三大──っ」
「(……っ)」
小太郎がふるふると首を振り、松永のほうに上体を乗り出そうとする黒江を引き止めた。
しかし黒江は興奮状態で、肩越しに小太郎を見遣りながら話し続ける。
「こた、小太郎。有名人だ。松永弾正さん。知ってる? っていうか、知ってるか。有名だもんな。松永さんだよ本物だようわあ!」
「(……!)」
こくこく、と小太郎が頷く。その背を叩き、腕の中ではしゃいでいる子供じみた大人をどうにかこうにか宥めようとするのだが、生憎と一般人は加減を知らない。……恐れすら忘れて。
「忍者もいいけど有名人もいいなあ。──あ、松永さん。いや松永サマ。握手してもらっムグ」──その言葉全てを口にする前に、とうとう小太郎の大きな手が黒江の口元を覆った。
「──む?」
こた? と肩越しに振り返った黒江は、苦虫を噛み潰したような緑の混じる気配を纏う小太郎を仮面越しに視る。
松永を強く警戒している伝説の忍。
そこで黒江は、松永久秀という人物の色々なエピソードを思い出す。
一先ず浮かんだ情報は暗殺や諜殺、果ては爆死などといったものばかりだった。
一番印象強い情報が全て「殺し」に関連している時点で、松永という人物の危険さを思い知る。
(あああそうか、この人って結構危険な人でもあったんだった!)
そのことをようやく自覚した黒江が、差し出していた左手を引っ込めようとした──が。
「私の手を握りたいとは、卿は面白いこと言うな」
「んわっ!?」
「(……!)」
引っ込めようとした手を素早く捕えたのは、背後に隠されていた松永の左手。
小太郎が黒江の口から瞬時に手を離し、尋常ではない殺気を纏わせて身構えようとするが、それより早くに反応した者がいた。
「──普通だ!」
声を上げたのは、空気を読むのを忘れて再びテンションを上げてしまった一般人。
「おや。それはどういう意味かな?」
「だって松永さん、コッチの手をずっと背中に隠してたから、何か凄いのが出てくると思って……!」
その顔を感激で輝かせた黒江は、勢いよく身を乗り出して松永の左手を両手で握りしめ──「あ痛っ!」
何かがチクッとしたので、一旦手を離すことになる。
「おや。どうしたのだね」
「う、いや、今、何か刺さって──」
含み笑う低音の声を聞きつつ、黒江は松永の左手に視線を落とす。
よく見ると松永は左手に手袋を付けており、それぞれの指先に滑り止めのような突起が付いていた。
どうやら、手を刺してくれたのはコレらしい。少しばかり涙目でその棘を突きながら、黒江は問う。
「……これ、さっきは尖ってなかったですよね? 猫の爪みたいに引っ込まないんですか」
「さあて。どうだったかな」
ああ、やっぱりこの人ドエス系だ。棘があるのを黙っていた男を、黒江はじとりと見つめる。ニヤニヤ笑う松永が、これまた実に悪代官風で憎たらしい。
黒江は口を尖らせて相手を見据え、敢えてその嫌がらせを受けて立つことにした。
「……いいですよ。このままでも触れますから!」
眉間に皺を寄せつつも、両手で松永の手を包むように持ち、今度は慎重に触り始めた。
ここで諦めないのが、黒江が変人と呼ばれる所以なのだが。
「……わ、わ。手袋の分を差し引いても、意外と綺麗な手の形!」
ほろりと零すのは素直な感想。
「茶の湯もするから、手入れに気を付けてます?」
「……ほう。私が茶道を嗜むことまで知っているのか」
「結構な教養人なのは知ってますよ。松虫マニアとか意外すぎて驚きましたし……茶器は分かるけど松虫って。ふはは」
手の平をひっくり返しては繁々と眺め、指の形を確かめながらさらりと相手の情報を口にする黒江を、松永がひどく面白そうに見つめている。時々、目の奥に不吉な光を宿らせて。
「(……)」
そんな黒江の動作と松永の一挙一動に、鋭い眼差しを注ぐは伝説の忍。
怪しい動きをすれば遠慮なく反撃しよう、と黒江を抱き上げる手に苦無を隠し持ったところで、松永が小太郎を一瞥した。
口端を吊り上げて見せたのは冷笑。
眉庇の下で小太郎が眉を顰めるも、松永は意に介さず、黒江に視線を戻して話しかけた。
「さて。見分はそろそろ終いにしようか。卿の忍が退屈し始めているようだ」
「(……)」
「忍? え、あ──ああ、放ったらかしにしててごめん小太郎!」
松永の言葉を受けて、黒江が夢から覚めたように我に返る。
小太郎と松永を交互に見遣り、頭を下げた。
「松永さんありがとうございました。実に良い記念になりました!」
ひとしきり堪能した黒江は礼を言うと、するりと梟雄の左手を解放した。それから松永の肩に軽く手をつくと「よっ」という掛け声と共に上体を逸らし、その反動でさっさと小太郎の腕の中へ戻っていった。
そして、興奮気味に感想をぶつける先は、やきもきしていた伝説の忍。
「小太郎、松永さんドエスだけど気前良かった! ドエスだけど意外と懐広そうだよ松永弾正!」
「(……)」
ふうっと鳴った音は通り過ぎた風か、それとも小太郎の溜め息か。
伝説の忍が、「はいはい。落ち着いて」とでもいうように黒江の背を軽く叩いて抱き直せば、くつくつと笑う声がした。
***
正体はこの人でした、という話。
小太郎は気が気でない状態だけど。