「あー……小田原だあぁ……!」
「(……!?)」
小田原城にある自分の部屋に入るなり、黒江が息を吐いてその場に崩れ落ちた。何事かと驚いた小太郎が素早い動作で傍らに跪いて抱き上げようとしてきたので、それを黒江は片手で制して顔を上げた。
「あ、悪い。大丈夫だ。ちょっと気が抜けた……というか、安心して」
「(……?)」
首を傾げる小太郎に、黒江が取り繕うように言葉を繋げる。
「なあ、こた。私のこと、探してたって言ってたな?」
そう訊ねれば、小太郎がこくりと頷く。そして黒江の手をそっと掴むと、上向きにさせたその表面に指を滑らせた。
『城に向かって走り去る姿を、見た者から聞いた』
『何かに追われているようだった、とも』
そこで小太郎が筆記を止めて、黒江を見た。
唇が動く。
『何が、あった?』
音のない言葉を吐くのに合わせ、手の平に文字を書く。
黒江に視線を当てたまま、手の平を見もしなかった。
「わー小太郎器用―……あ、うん、ごめん。茶化してゴメン」うっかり軽口を叩いたら頬に手が伸びてきたので、首を振って苦笑いしつつ答えを返す。
「えーっと、答える前にもうちょっと聞きたいんだけど、私を探した時間ってどれくらいかな?」
「(……?)」
不思議な質問だったのだろう。小首を傾げた小太郎が、手の平に答えを書いた。
『昼過ぎから、橋の上で見つけるまで、ずっと』
「……それって、えっと、一日?」
「(……?)」
小太郎は黒江の手の平に答えを綴る。
『七日』
「なな……一週間!?」
黒江が声を上げて、愕然としたような表情になった。
「日数は経ってた? ……でも……あれは──」
あの見知らぬ場所には、大雑把に数えても一か月ほどいた。それくらいの日数は確実に経っていたはずだ。
妙にしっかりした子供がいて。
強面だが、実は優しい男がいて。
しかも忍までいる、どこか大きな屋敷だった。
そこで絶望に打ちひしがれたり、諦めたり、観念して開き直って食事をして、子供の子守のようなことをして日々を過ごし──小田原の日々を忘却しつつあった己に気づいて、愕然とした。
朝も昼も夜も。どうしようもない時間を磨り潰すようにして過ごして、終わりかけの桜に泣きついて……そして、気づいたらあの橋の上に居たのだ。
それを経てようやく小田原に戻れたことに気づいた瞬間には、涙が出そうになった。
だというのに、あの見知らぬ場所で体験した出来事はなんと七日に収まるものであったというこの事実。
「…………あれは、夢?」
黒江は、白日夢という言葉を思い出す。
またの名を白昼夢。
書いて字の如く、ひるまにみるゆめ。現実的な──『妄想』。そう考えると。黒江は七日間、どこかで白昼夢を見て過ごしていた、ということになる。
「──っ!」
ザアッと青褪める。頭を抱えるようにして、髪に指先を絡めて黒江は呻いた。
「やばい……小太郎、私は気が狂ったのかもしれない」
「(……!?)」
※
動揺し、支離滅裂になりかけた黒江を見て、小太郎がその背中を軽く叩いて落ち着かせる。
それでどうにか一応我に返った黒江は仮面越しに眉根を寄せると、小太郎に昼間の空白時間について話すことにした。
「その、城下町で知らない人に追いかけられたのは本当なんだ。……けど、そこからの記憶がどうにも曖昧で……」
行きつけの茶店で桜餅を食べていたら、虚無僧を見つけたこと。
その虚無僧からの視線が気になったので、小田原城に帰ろうと来た道を戻れば、相手が後をつけてきて、遂には追いかけられたこと。
……それだけを、とにかく伝えた。
あとは話せなかった。現実離れしていて、どうにも理解が追いつかなかったし、どうしたことか、話そうとすると記憶が曖昧になってしまうのだ。やはり、おかしくなっているのかもしれない。
「(……)」
小太郎は何か言いたかったようだが、ふと黒江が小太郎の裾をそっと掴んでいたので、結局は黒江の頭を軽く叩くだけに留めた。
黒江も小太郎の譲歩に気づいて、頭を下げる。
「……迷惑かけて、ごめん」
すると「気にするな」というように小太郎が口元を持ち上げたので、黒江は少しだけ泣きそうになった。
※
「……はぁ。なんか、疲れた」
話が終わる頃には、緊張で身体が冷え切っていた。
もう朝まで数時間くらいだろう。
そろそろ寝ないと翌日に差し支えるとの結論が出たところで、話し合いは終了することになった。
話を切り上げたのは小太郎だ。掴み返した黒江の手が冷たくなっているのに気づいたのだ。
『話は、ここまでだ。寝よう』
「……うん」
黒江はぎこちなく笑って、裾から手を離す。
「今日は本当にごめんな。今度からは色々と気をつけるよにするよ」
そう言って黒江が腰を上げて見送ろうとすれば、その前に小太郎がサッと立ち上がり、ちょいちょいと手を振った。
「え? 何だ……って、ああ、布団を?」
押入れのほうに歩き出した小太郎を見て、意図を悟った黒江が柔らかな笑みを浮かべる。
「疲れている」と言った黒江の言葉をしっかり覚えていたようで、布団を敷いてくれるというのだ。
流石は伝説の忍、ともう何回心の中で口にしたかしれない言葉と共に黒江は感謝しつつ、ならば自分はと部屋の隅に移動した。
「ありがとう。じゃあ私はコッチで着替えておくよ」
そう告げて小太郎に背を向けると、黒江は壁際に吊るされた寝巻を手にして着ていたものをするりと脱いだ。
床の上に落ちる帯と着物。
「っ……クシュッ!」
冷汗を掻いているせいか、脱いだ途端にクシャミが出た。
かなり冷えてるなあと苦笑交じりに呟きながら、手にした寝巻に右腕を通した時だった。
「──うわっ!?」
次に袖を通そうとした左腕を、背後から強い力で引っ張られた。声を上げてよろめいた黒江は、驚いて背後を振り返る。
「こ、小太郎!? なに。どうし、──た」
振り返って長身の忍を見上げた黒江は、そこで表情を固まらせる。
面を通さずとも分かるほどに鋭い殺気を纏わせた伝説の忍が、そこにいた。
※
「こ、た……ろ? なに、か?」
「(……)」
小太郎は反応を返さない。一瞬で黒江を抱き寄せると、その背に手を回して──。
「──ぅえあっ!?」
項の下から、背骨をなぞるように指が滑り降りていった。
突然に背中をなぞられた黒江は、訳が分からない。どうにか顔を動かして相手を見上げる。
「なに!? 今の何だ小太郎!?」
「(……)」
小太郎が黒江を一瞥し、唇を動かす。
「ん? え、あ……?」
「(……)」
口頭では、やはり伝わりにくい。
小太郎はやや苛立たし気に首を振ると、黒江の手を掴んで筆談に切り替えた。
「ん、こっちか。なに、えっと……だ、れ、に……」黒江がそれを読み上げる。
「──斬られた!?」
伝えられた言葉に、黒江がぎょっとした声を上げる。
「き、斬られ、た、って、な、なに」
『背中に、大きな刀傷がある』
「刀……」黒江の脳裏に一瞬だけ、映像が明滅する。
逃げる廊下。
急に熱くなった背中。
――死ねっ!
「……」
──あれは、現実だった。
白昼夢ではなかった。
本当にあった現実。
今はもう全く痛みがない。
記憶が明滅する。
「あ……ぅあ」
斬られた瞬間と、ゆっくりと冷たくなっていく自分の指先を思い出す。声が出ないまま、知らない場所で死にそうになったことを。
そこで本当に、途轍もない恐怖に襲われた。
「は、はは……そんな、こんな……」
黒江は何でもないふうを装って笑おうとするが、声が震えてしまう。顔を覆うようにこめかみを押さえた黒江が呟くのは、混乱する思考の断片。
「昼に、茶店で、それから走って、桜……そうだ、知らない桜が──」
「(……?)」
黒江の異様な様子に、小太郎が違和感を覚えたらしい。霧散する殺気。肩を掴んで顔を見ようとするが、逆に黒江は小太郎にしがみついて叫んだ。
「動かないで!」
「(……)」
小太郎の動きが止まる。黒江は震え、仮面をつけた顔を小太郎の胸元に押し付けて呻いた。
「ごめん、本当にごめん。わ、悪いけど、これ以上は、話せない、というか……は、話したく、ない」
背中を撫でていた小太郎の手が止まる。だが、黒江は黙秘の意思を崩さない。震え、言葉を紡ぐ。
「この傷、は、こ、ここで斬ら、斬られたやつじゃ、なくて、も、もう治った、治ってる、から……だ、だから、頼む」
──頼むから、これ以上は追及しないでくれ、と。
そういうことを暗に伝えれば、小太郎が溜息のようなものを吐いた気がした。
落ちる沈黙。
やがて、トントン、と背中を叩かれた。
「分かった」という小太郎からの了承の合図だった。
黒江が、震える吐息を長々と吐き出す。
「あ、あり、が、とう……ご、ごめん、こたろ」
「(……)」
小太郎が首を振り、通されていなかった片袖を器用に手繰り寄せると、黒江の手を掴んで着物を着せた。
「あ、ご、ごめ──」
「(……)」
黒江の唇に人差し指を押し当てて謝罪を制すと、着物の前を合わせて帯を結び、それからまた抱きしめる。そうして背中を撫でていれば、黒江の震えも治まっていく。
は、と息を吐いて黒江が言った。
「迷惑ばかりかけて、ごめん。……ごめんなさい」
小太郎が居てくれてよかったよ、と呟いた声は泣き声にも、嬉しそうな声にも聞こえた。
***
知らない場所は現実で、しかも死にかけた、というのが恐怖に拍車をかけた模様。