城内は妙な静けさがあった。
侍従や女中は居るのだが、その雰囲気が畏まっているというか──。
「あー、美術館とかで感じる空気だコレ」
ひそっと呟く声すらも、静かな空間に響いて怖くなる。
黒江は大人しく口を閉じ、こめかみを押さえた。それから、眼鏡のツルを上げるように仮面のズレを整える。
緊張で背筋が自然に伸びた。不意に静かになった黒江を、松永が一瞥して含み笑う。
「随分としおらしくなったな。卿も、そのような振る舞いが出来るのだね」
「……こんなに粛然とした中で騒ぐ勇気は、ちょっと無いです」
「(……)」
背後に居る小太郎から、何やら物言いたげな気配を感じるが気づかないことにしておく。
「そんな態度を取れるのだったら、最初からそうしていて欲しかった」とでも言いたいのだろう。
特に、松永や義輝などの前では大人しくしていてほしかった。そうすれば彼らの興味も引かずに済み、小田原で平凡に暮らしていけたのに――と。
そんな物問いたげな小太郎の気配を仮面越しに悟った黒江は、曖昧な笑みを浮かべて目を逸らす。
(いやー。そこは多分、私のせいじゃないし。相手が歴史上の有名人なのが悪いんだし)
などと心の中で子供のような責任転嫁をしていれば、繋いでいた手をくいと引っ張られた。
「え、あ?」
何事かと前に目を向けた黒江は、口元に酷薄な笑みを浮かべた松永を見ることになり、ぎょっとする。
「……その悪役笑いは何ですか松永サマ」
思わず敬称を変えて話せば、相手が、猛禽類のようにスッと目を細める。
「なに……卿の何処が、公方殿の気を引いたのかと思ってね」
そう言いながら、いやに静まり返っている板張りの廊下を歩き続ける松永の視線は、黒江から外れることはない。
捕捉された獲物。
黒江は、背後にある小太郎の気配をせめてもの拠り所にしつつ、松永の半歩後ろに下がってから答える。
「私自身は何もしてないんですけど……強いて言えば、物珍しいから? じゃないですかね。履物が合わないって言ったら、変な感心されましたし」
「おや。そうなのかね?」
ここで松永が、ちらと黒江の足元に視線を向けて「成程」と頷く。
「卿の妙な歩行は、おかしな武道でも嗜んでいるからかと思いきや……意外とつまらない理由だったのだね」
「……歩き方がぎこちなくなるのは靴擦れしているからで、武道に心得があったらもう少し逞しく歩けてます」
「ふむ。卿はよく風魔に抱き上げられているから、色を好んでいるものとばかり思っていたよ」
「ははは。英雄でもないのにそんなもん好んでどうしろと」
黒江は乾いた笑いで聞き流し、そこで背後に居る小太郎を肩越しに見遣る。
「(……?)」
視線を向けられた小太郎が首を傾げれば、黒江は申し訳なさそうな顔をして言う。
「いつも面倒ごとに巻き込んじゃって、ごめんな?」
「(……)」
小太郎は首を振り、微かに口端を持ち上げる。
優しい忍。こちらには支払えるものが何も無いというのに、小太郎はいつもこうして微笑んで許してくれる。
甘やかしてくれるのは、嬉しい。
けれど……この甘さはきっと、自分を駄目にする。
(……頼り切りになるのはマズイよ、な)
黒江は少しだけ眉を下げ……前に向き直り、溜息を吐く。
「おや。何やら不服そうだね?」
その表情に何かを見てとったらしい松永が、声を掛けて来た。
この男は、人の心情をよくよく読み取る。……ああ、弱味に目敏い男だ。黒江は松永のほうから敢えて顔を逸らして、ぽそりと呟く。
「不服、と言うか、ちょっとした自己嫌悪を」
「その内容を明かす気はないのかね?」
「本能的な何かが警報を鳴らしているので止めときます」
そう言って、黒江は繋がれた手に意味ありげな視線を流す。
だが、そんな皮肉は当然ながら彼の梟雄にはさらりと流されるわけで。
「そうか。ならば、暴く愉しみは後々にとっておくとしようか」
「このドエスめ……!」
小さく小さく呟いて顔を顰めた黒江の反応は、どうやらいたくお気に召したようで、松永は喉奥で含み笑い、黒い気配を纏わせながら廊下を悠々と進んでいく。
左手に、獲物を捕まえて。
背後に控えるようにしてついてくる伝説の忍の殺気を、その背で受け流して。
※
案内された先にあったのは、大広間。小田原城よりも小さい筈なのだが、どう見ても奥行きと広さがそれ以上に見えるのは目の錯覚か。その一段高くなった奥に、黒江を迎えに来た男が居た。
脇息に上半身を凭せ掛けて胡坐をかいている姿に、どことなく優美なものが漂っている。
それはやはり、彼が高位の者であることと関係しているのだろう。仮面越しに視える英気はどうにも眩しく、黒江はそろりと後退って背後の忍の影に隠れようとするのだが──。
「何処へ行くのかね?」
「うぇっ!?」
即座に繋がれている手を引かれ、後退を阻止された。ずれかける面を指先で整えて顔を上げれば、窘めるように己を見下ろしている松永を見る。
「公方殿の御前だ。先程のように大人しくしていたらどうだね?」
「……あはは。すみません」
黒江は眉を下げつつ、空いている片方の手を後ろへ回した。その上で、指先を軽くちょこちょこと動かせば、呼ばれていることに気づいた伝説の忍が真後ろに立つ。黒江はそこで小太郎に背中を軽く押し付けて距離を詰めると、ひそっと小声で訊ねた。
「公方って、将軍って意味じゃなかったか?」
「(……)」小さく頷く小太郎。黒江が、思い切り顔を歪めて「うわぁ」と呟く。
ということは、やはりあの御方──義輝の姓は、頭に『あ』の付く、金閣寺やら銀閣寺やらを作ったりした有名な例の一族なのか。
時系列がおかしいことは、もう気にしない。気にすべきなのは、将軍である人物の興味を引いてしまったらしい己が身の心配だ。
後ろの小太郎に凭れて深い溜息を吐けば、壇上から声が掛かる。
「そう遠くに居ては、話もし辛いだろう。──許す。近う寄れ、朋よ」
「わあ遂に殿様っぽい台詞まできた!」
「公方殿のご配慮、痛み入る。……さて。行こうか、黒江?」
「いやー、そこはお友達な松永さんだけが行けばいいんじゃな──ひぃぃぃぃ!」
言い逃れをする間も無く、ずるずると引き摺られ──引き立てられていく一般人。
一段高いその手前まで来たところで立ち止まり、そこへ座るように言われたので黒江は観念して腰を下ろすことにした。
「──ぐ」
膝を折って正座の形を取ろうとしたその瞬間、僅かに固まる。
足が痛い。畳に両手をついて不自然に体を支えたまま、黒江は義輝を見上げた。
「……正座するのがちょっと辛い感じなので足を崩しても宜しいですか公方サマ」
「む。そこまで酷い有様なのか?」と言って義輝が立ち上がろうとするので、それを片手で制して黒江が首を振る。
「いやいや酷くないです。ただ、正座すると体重が足の裏に掛かるのでそこが障害になっちゃうっていうかあああこの体勢も地味に辛い……っ!」
「(……!)」
話している途中で、上体を支えている黒江の腕から、かくりと力が抜けた。
斜めに傾ぐ体。しかし床の上に倒れることはなく、背後の忍によって抱き留められて難を逃れる。
「いったた……ああ、ごめん、こた」
「(……)」
ふーっと息を吐いて頭上の忍に礼を言ってから、黒江は義輝に視線を戻して苦笑した。
「公方サマの御前にて早速にも醜態を見せてしまい、お見苦しく」
「義輝、と呼んでくれ。それと、そう畏まってくれるな朋よ。予が求めているのは臣下ではなく朋だ」
「ははは。こんな重圧かかる状況に民草を置いて、友達が欲しいとのたまいなさるか。何だそのお戯れ」
「(……)」
吐いた言葉とは裏腹に、既に崩れつつある黒江の口調。小太郎は音のない溜息を吐き、抱き留めている腰に回した腕で、黒江の腹部をぺしぺし叩いて注意を促す。
「うん? どうした」
きょとりとした顔で見上げた『一般人』の手を取り、小太郎が伝える。
『貴方は何故そうも相手の気を引くような振る舞いをするんだ』
「え。気を引くって……」
『最早、逃れる術はない。……諦めてくれ』
「えええええ。待って、気を引くなんてしてないぞ!? なにその通告すごく怖いんだけど!?」
「(……)」
再び溜息を吐くような仕草をした小太郎が、するりと腕を解いて黒江から離れた。
※
「わっ、とっ、こ、小太郎っ!?」
唐突に解除される守護。支えを失った黒江はそのまま倒れそうになり、慌てて床に片手をついて体勢を整える。上体を捩じって背後を振り返ると、距離を置いた忍にわたわたと手を伸ばして叫んだ。
「今回はどうしたって不可抗力だろう!? なあ小太郎、こた……風魔の小太郎さあん!」
「(……)」
ふいと顔を背ける伝説の忍。突然つれない態度を取られた黒江は大いに慌てふためく。
「ココで千尋の谷に突き落とさないで! しかもこの谷は深すぎるから勘弁──」
離れゆく影に縋ろうと手を伸ばしたその時、己の体重を支えていた腕に限界が来た。
「──はぶっ!」
「(……!?)」
会話の途中で重力の負荷に負けた黒江は、畳の上で手を滑らせて前のめりに倒れ込んでしまう。
予想だにしないその自滅ぶりに、驚きのあまりすぐに駆け寄ってしまった小太郎を見て、笑ったのは梟雄と天帝。
「ほう。完全に見放すことは出来ぬ、か。ふむ。……彼の朋の懐柔技は凄いな、久秀」
「ははは。当人は自覚が無いらしいのだがね。いやしかし、見事なものだ」
「(……)」
「ふ、はは……懐柔なんかしてないしっていうか人の不幸は蜜の味ってかコンチクショウ……!」
涙目で下顎辺りを擦りながら、黒江は優雅な傍観者二名に悪態を吐く。
小太郎が「落ち着け」というように黒江の頭を撫でてくるのが、これまた切ない。
「ん、ごめん小太郎。ありがと──」
靴擦れを起こしている箇所を擦りつつ、小太郎の胸に抱き留められている体をゆっくりと起こしたその時だった。
──するり、と。
解けた何かが、髪を伝って滑り落ちる感覚があった。
「え」
黒江は、自らの視界が、さあっと開けるのを感じた。
そして。
――コッ、と。
小さな音を立てて仮面が畳の上に落ちた音を聞く。
「──え?」
黒江は落ちたものを、ぼけっと見つめた後──『ソレ』が何か気づいた瞬間、青褪めて叫んだ。
「え、わ、──ああああああっ!?」
「(……!?)」
面を拾おうと手を伸ばした小太郎だったが、その横から黒江がそれを素早く引ったくった。
「見るな見ないでそれに触るなアッチ向けっ……!」
矢継ぎ早にそう言って背を向けると、蹲るように顔を伏せる。
「何で外れた!? 結構しっかり結んでたのに、何でココで……っ!」
酷く慌てた手つきで仮面を顔に当てて、その姿勢から再度、仮面をつけ直そうとするのだが、手が震えてしまってどうにも上手くいかない。
「あ、あああ……ひっ紐が結べない……っ!」
「(……)」
背を向けて蹲っている黒江に、様子を見ていた小太郎が近づく。
紐を掴んで震えている手にそっと触れれば、黒江の体がビクッと跳ねた。
「や、何っ……」
「(……)」
小太郎はその背を撫でて宥めると、黒江の手から緩やかに紐を取り上げて、代わりに結びはじめる。
「あ──」
黒江は、それで大人しくなる。両手でこめかみの辺りを押えるようにして仮面に触れたまま、小太郎の動作が終わるのを待った。
その肩は、ずっと小刻みに震えていた。
紐を結び終えてから小太郎がその背をぽん、と叩くと、黒江が微かに肩を震わせて顔を上げた。片手で仮面を押えながら、ゆっくりと振り返る。その顔はどこか暗く、小太郎と一度目が合うも、直ぐに逸らしてしまった。
「……、あ、その……あ、ありがと、な」
「(……)」
首を振り、「大丈夫か?」とでもいうように小太郎が手を伸ばすも──黒江は仮面を押えたまま息を飲み、その身を引いた。
「(……)」
手を引っ込める小太郎。黒江も自分の反応に気づいたようで、ハッとして小太郎に視線を戻す。
「あ──あああ、あの、ごめん! ちょっとまだ色々動揺してて……!」
そこで、黒江の手が面から離れる。畳の上を滑るようにして近づいて来た時には、もういつも通りでいて、その顔から蒼白さも消えていた。
「こ、こたは何にも悪くないんだからな!? いやほんと、何か、ごめん!」
「(……)」
両手を合わせて謝罪する男を前にして、小太郎は手を出しかねていた。
動揺した、と白状した黒江の言葉に、嘘はないのだろう。……それでも、怯えたように身を竦めたあの反応には、少しばかり堪えた。
口元を引き結び、そうして黙々と黒江を見下ろしていれば──くつくつと笑う声がした。
「伝説の忍を戸惑わせるとは……卿は本当に面白い人間だね、黒江」
「ぐっ……本っ当にドエスですよね松永さんは!」
顔を見られただろうかと、どぎまぎしていた黒江は、相手が特に追及してこなかったので内心で胸を撫で下ろした。わざとらしく口を尖らせ、言葉を投げる。
「それよりも、さっきから懐柔だの何だのって、失礼じゃないですか」
「ははは。まあ、そう怒るな朋よ。詫びとして、美味な茶を一席振る舞ってやろう」
「あ、いや。長居するつもりは無いので──」
「──誰か。茶席を用意しろ」
ぱしり、と打ち鳴らされる笏。
すれば何処に控えていたのか女中が数人やって来て、たちまちのうちに命令を遂行しはじめた。
鶴の一声というのはこういうことをいうのか、と黒江は内心で妙な感心をする。こちらの遠慮はさらりと却下されたようだった。
※
各自、風炉や茶釜、茶碗といった茶道具をその手に運んでくると、てきぱきとした動作でそれらを配置、設置して、謁見の間であったその空間を茶室へと仕立て上げてゆく。
音を立てずに、しずしずと。その手際のいいこと。
黒江はそれに見惚れてしまい、すっかり大人しくなっていた。
「わー……格好いー」
思わず感嘆の声を零せば、茶碗を運んでいた女中の一人に微笑みを返された。
「……っ!?」
ふわっと舞った桃色の気配。それを視覚的にまともに見てしまった黒江は当てられてしまい、頬を朱に染めて俯く。
「おやおや。卿は女性に免疫が無かったのかな?」
からかいの声を投げてきたのは松永。
本当に、良く人を観察している。黒江は目を上げ、相手を軽く睨みつけた。
「免疫どころか私は──っ」
口にしかけた言葉の危うさに直前で気づき、言い直す。
「──け……経験くらい、あります、し」
「(……)」
言い直したほうが危ない表現になってしまったが、黒江はそこに気づかない。
「ほう? それは意外だね」とまた松永がからかうので、黒江は更にムッとする。
「何で意外なんですか。それなりにいい年をした人間なんですから、おかしいところなんてないでしょう」
「なに、卿はそういう閨事には疎そうに見えたものでね……いやはや、失敬した」
「直球で失礼すぎてもう言い返す気も起きない」
「予も久秀の意見には同意するぞ、朋よ。其の方は、閨から縁遠い人間にしか見えないな」
婉曲的に童貞呼ばわりされている気がするのは、被害妄想では無い筈だ。
「どちら様も失礼だなコノヤロウ」
一度仮面が外れたせいか黒江は畏まっていた態度を投げ捨てたらしく、ぞんざいな口調で彼らに言う。
「そもそも、女性の前でする話題じゃないでしょう。控えましょうよ」
などと、常識人ふうな発言をしてみれば、返されたのは。
「女性に微笑まれて初心な反応を見せた卿がそもそもの原因だろうに、何を言うのかね」
と、何故かこちらが悪いようなことを言われてしまい、黒江は首を振って「いやいやその理屈はオカシイ!」と盛大に抗議するのだった。
***
ちょっとした一大事。
主人公はいまだに軽い醜形恐怖症のような状態。