「さて。そろそろ卿が己の顔を隠している理由を訊ねてもいいかね?」
その質問は、黒江がすっかり落ち着いて茶菓子を咀嚼しているときに投げられた。
「んぐ」
黒江が喉に詰まりかけた菓子を飲み込み、咳き込みながら茶を飲む。は、と一息ついてから顔を上げると、対面に座る松永を見た。
「……見逃してもらったと思ってたのに、ここで来ますか」
「それは卿の勝手な思い込みだよ」
「あまり触れて欲しくない話題なんですけど?」
「隠しごとがあれば暴きたくなるのは、人の性だと思うがね」
「それでも、見ない振りをするのが大人の対応だと……思いたいんですけど、無駄っぽいですか」
「ふむ。卿は無理矢理暴かれる方が好みか」
「滅っ相もないですっ!」
黒江は千切れるような勢いで首を横に振り、腰を上げようとした松永を制する。すれば松永が座りなおし、悪い顔をして微笑んだ。
「そうか。ならば、卿自ら語るものを聞かせてもらおう」
「……うわあ。さらりと自供する方向へ持っていったよこの人怖い」
「できれば、自供、ではなく自白、のほうが二度手間にならなくて済むと思うがね」
「え、どっちも似たような意味じゃ」
「自供だと、嘘を吐いても構わないのだよ。それだと、私はもう一度卿から聞き出さねばならないだろう?」
「やだこのヒト国語辞典みたいで超怖い。というか教養高い悪人とか本当に嫌だもう」
「(……)」
後ろに居る小太郎が、黒江の肩をそっと叩いて「逃げようか?」と首を傾げてきたが、笏を手にした男が優美に状況を見守っているものだから、恐らく難しいだろう。
あの男の御業は、伝説の忍すらをも捕えていた。何故か黒江には効果が無いようだったが。
それに、ここで黒江が逃げたら小田原にしっかりがっつりと迷惑が掛かりそうだ。いや、確実に面倒事になること請け合いだろう。
いつかは誰かに訊ねられると思っていた。
だから、それなりの理由を用意はしていた。いつでも話せるように。
ただ、それは氏政や小太郎に対しての心構えであり、よもや梟雄と天帝の組み合わせで来るとは予想もしていなかったが――もしや、これは仕組まれていたことだったのか。
肩に置かれた小太郎の大きな手に己の手を重ね、黒江は溜め息を吐く。
ああ、罠とはこうして掛かるのか。
彼の梟雄の手際の良さに、感動では全くない別の感情に打ち震えながら、黒江は覚悟を決めて語ることにした。
※
「えーと……大層な理由ではないんだけ、ど、……ですけども」
かりかりと意味もなく頬を掻き、あらぬ方向を見ながら黒江は言う。
「その……昔、顔のことが原因で、人間関係にちょっとした問題が生じまして」
「何もかもが曖昧だね。もう少し詳細に話したまえ」
少し棘のある声で、早速松永が窘めてきた。
黒江は口元に手を当てて松永を一瞥したものの、また目を逸らしてしまう。
片手で己の頬をなぞるように触れながら、言葉を繋ぐ。
「…………、この、顔が」
──その先を言おうとしたが、声が詰まる。……息すらも詰まりそうになって、眩暈がした。
この時代に来てから色々なことを経験し、目新しいものばかりを見てきたので、『あのこと』は大したことではないという気持ちでいたのだが……どうやらまだ吹っ切れていないらしい。
なにせ、アレに関連した人間の顔を思い出すだけで、こうして胃の奥が気持ち悪くなるのだから。
「……っ」
吐くまでいかないものの、胃を締め付ける不快感を覚えて黒江は顔を歪ませた。
何が悲しくて遠い世界でまでアレに苦しめられなければならないのかと苛立つ。
(アイツと私はもう関係ないし、ここにアイツは居ない)
軽く俯き、肩で大きく息を吸い、吐きだし、心の奥に溜まりかける嫌なものを振り払おうとしていれば笑い声がした。
「急に静かになったが、何処か具合でも悪いのかな?」
嘲笑を投げてきたのは、じっと様子を見ていた松永。面越しに視える金色混じる黒渦の気配は、視てしまえば捕まりかねない禍々しさを放っている。
愉しめそうな獲物を見つけた獣のようだ、と思う。
黒江は顔を上げず、片手で口元を押えたまま小さく首を振って答えた。
「……いえ、ただ……どうしようもなく下らないものを、思い出し、まし、て」
そしてまた息を吸って呼吸を整え、唸るような声で淀みなく続けた。
「どうせなら禍根は潰しておくべきだったな、と今更ながらに絶賛後悔中なので、ちょっと気分が落ち着くまで待って頂けると民草は実に助かります」
言葉はおどけつつも歯を噛みしめ、仮面の下で顔を歪める。
口元をへの字に結んでじっとしていれば、とん、と肩が叩かれた。
「……悪い、小太郎。大丈夫だ……けど、今は放っておいてくれ」
「(……)」
「卿の禍根を断つのに手を貸そうか?」と、松永が面白いものを見つけたような声で話しかけてきたので、黒江はそこで少しだけ顔を上げて笑う。
「いや。こればっかりは自分の手でどうにかしたいので、遠慮しておきます」
確かにこの人に任せたら楽しいことになりそうだよなあ──などと思わず考えてしまったことは、言わないでおく。
軽く己の頬を叩き、やっと背後の忍を振り返って声を掛けた。
「気遣わせたよな。……ごめんな?」
「(……)」
小太郎が首を振って、黒江の背をさすさすと擦る。本当は誰よりも聞きたいだろうに、この忍はそうしない。何も訊かずに、面倒を見てくれる。それが本当にありがたくて……実に申し訳ない。
やはり、ここは多少無理をしてでも話しておこう。
黒江は溜め息を吐いて前に向き直ると、淡々と話の続きを語り始めた。
※
「それなりに親しい友人が居たんですけど、離れていきました。……この顔が、原因で」
「卿の顔に何があるというのかね?」
「……何も」
再びツッと目を逸らし、己の頬に片手を当てて黒江は笑う。「何もないから、行っちゃいました。もっとキレイな……っ、……はは、『何もなくないほう』へ」
思い出しそうになる嫌な過去を、軽く唇を噛んだ痛みで打ち消す。それで感情も抑えながら、黒江は平然を装って続けた。
「それで、ちょっとした劣等感が出来ちゃったので──こうして、顔を」
隠してます、と繋いで視線を戻し、顔を引き攣らせながら浮かべたものはさて笑みになっていただろうか。
松永の奥に居る義輝が、不思議そうな顔をして顎を擦っている。かと思うと、その手にパシリと笏を打ちつけて、質問を投げてきた。
「ふむ。其の方が面を付けている理由は分かった。しかしながら──肝心の『顔』を見せてもらわねば、其の方の話を真に理解することは出来ないのだが」
笏が、黒江に向かって突き出される。
「黒江よ。今一度、その面をとって顔を見せる気はないか?」
「……まあ、流れ的にそう来ますよ、ね」
くい、と片手で面を押えながら、黒江は苦笑い。手の先で少しだけ仮面を持ち上げるが──そこまで。
手は動かない。動かさない。
苦笑を浮かべた黒江が、口を開く。
「時期が来たら、ってことで見逃してください。今は」
「ふむ。見せられない、と?」
義輝の視線が、目の前の男に向けられた。
気配でそれを受け止めた松永が、少しばかりわざとらしく首を傾げる。
「つまり卿は、強要されるほうを選ぶ──と。そう、言いたいのかね」
「(……)」
松永の左手に、黒い気配。
小太郎が、その背に黒江を庇うようにして前に進み出る。
背中の対刀に手を掛けたその時──つっ、とその腕を引く手があった。
「(……)」
小太郎が手の主を見遣れば、相手は──黒江は小太郎を見ず、松永と義輝がいる上座の方を見ていた。
どこか奇妙な笑みを浮かべて、彼らに言う。
「そう急かさないで下さいよ。時期が来たら明かすから待って下さいって言ってるんですから」
「(……?)」
笑みを浮かべた顔とは裏腹に、仮面から覗く目の奥が冷めている。
訝しげに小首を傾げる小太郎を余所に、黒江は前を向いたまま言葉を続けた。
「暴く愉しみは後々に、って松永さん、さっきそう言ったじゃないですか」
話しながら、黒江はまた己の面の縁を指先でなぞる。
「急いては事を仕損じる……とは違うかもですけど、早くに暴いちゃうとつまらなくなりますよ」
「私はむしろ、面白くなりそうな気がするのだが」
「(……)」
黒い笑いを口元に滲ませて左手を伸ばそうとする松永に、小太郎が殺気を滲ませて身構える。
「あはは。つまらなくなりますよ。だってこの下、何もありませんから」
仮面の隙間、黒江が目を細めて笑う。
面の外郭に当てた指先を上から下へとなぞり落とし、吐き捨てる。
「早好きの早飽きを実感したいのなら、どうぞ。……まあ、それで期待外れだとガッカリされても、当方は一切合切の責任なぞ持ちませんけど」
ぞんざいな口調で笑い、首をちょっとだけ傾げて見せた黒江を、小太郎は驚いた面持ちで見つめる。
一見すると捨て鉢めいた台詞だが、その態度には先程見た動揺はない。
戸惑ってもおらず、それどころか梟雄と天帝に向かって嘲りからの挑発を投げつけたこの男は、常に己をただの一般人だと言う人間ではなかったか。
なのに今は、雰囲気が違う。
──全く別の人間に見えた。
迂闊で無防備な男の横顔はいっそう謎めき、そのせいか女のような妙な艶があり、目の前の男たちを哂っている。
そんな黒江の態度に、向こうも気づいたようだ。「ほう」と、かつての天帝が何処か感嘆するような息を零し、狡猾な梟の男に至っては凄惨な笑みを浮かべている。部屋に渦巻く二人分の金闇がぞわりと蠢き、幾つもの謎をその身に潜めている男の頬に掛かろうとした、その刹那。
細い指先が仮面から離れ、顔の少し横の空中でひたり、と止まった。
触れようとした『何か』を制するように面の隙間から覗く黒瞳がソレを一瞥し、睨み付ける。
「勝手に期待して予想と違ったら興味無くしそうなやつなんかに誰が応えてやるか」
「(……)」
低い声の悪態。しかしそれは松永たちに向かってのものではないように、小太郎は感じた。
初めて見る黒江の敵意に、小太郎が動く。
己の前に置かれていた皿の上の茶菓子を摘み上げると、背後から黒江を引き寄せた。
「どうせ──っ!?」
話している途中だった黒江は、小太郎の胸の中に背を預けるような形で倒れ込んだ。しかも、その状態から唐突に口中に物を押し込まれたものだから目を白黒させる羽目になる。
「ん、っぐ……!?」
黒江は目を瞬かせながら小太郎を見上げつつ、一先ず口の中のものを咀嚼する。
やがて、それをどうにか飲み込んでから口を開いた。
「ん、む……っは。はあ、はあ……、……今の、こたの分だよな? 何で急に」
「(……)」
黒江が何か言うのを片手で遮り、小太郎は相手の手に言葉を書いた。
『疲れている時は甘いものがいい、と貴方がよく言っていたことだ』
「え? あ、ああ……うん。そう、だけど……」
『俺には必要ない。だが貴方には必要だと思った』
「え、いや、別に私は疲れてなんか」
『美味しかったか』
「あ、ああ。くぼーさまの御用達? っぽかったから、うん。美味しかったです、よ?」
『良かった』
「えーと……はい。……ありがとうございます小太郎くん?」
瞬きを繰り返して躊躇いがちに答える黒江の顔に、もう先程の妙な気配は無い。
小太郎がその頭を撫でて口端を持ち上げれば、誰かがくすりと笑った。
「おやおや。もう少しで面白いものが見られただろうに、勿体無いことをする」
「(……)」
「え、何、わ──っ」
小太郎は瞬時に黒江の両耳を手で押さえ、その呟きから遠ざけた。
そして、何だどうしたと驚いている黒江を見下ろして、「なんでもない」と音のない言葉を吐いて微笑む。
当然ながら黒江にはうまく伝わらなかったが、そこはもう一度茶菓子を与えて曖昧にさせておいた。
悪態を吐いた時に見た、あの昏い瞳。暗い声。
憎々しげに何かを睨んでいたあの眼が捉えていたものは、一体なんだというのか。
「(……)」
小太郎は、思案気な顔をして菓子を頬張っている男を見下ろし、その面を見つめ、音のない溜め息を吐いた。
***
大したことがないと思っていた心理的外傷。