この話をこれ以上続けるならば、俺はこの人を連れ出す──小太郎が黒江を抱き締めてそのように牽制したので、松永と義輝がそれぞれに独特の笑みを浮かべ、意外と素直に引き下がった。
彼らは黒江に新たな『愉しみ』を見出したようだ。
ああ、あのような顔を見せられては一層興味も沸いただろう。
「(……)」
小太郎は胸中で溜め息を吐き、無自覚に彼らの興味を引いて──惹きつけてしまった存在に目を落とす。
見つめられていることに気づいた渦中の人が目線を上げ、小太郎に「どうした?」などと、他人事のように問いかけてくる。それがまたどうしようもなく無防備で、放っておけない。
小太郎はその頭を軽く叩いて笑みを返し、再び前を見て狡猾な男たちに身構えた。さながら、雛を守る親鳥のように。
(……何だろうな、この状況)
子供のように背中から抱きしめられた格好から、黒江は目の前で繰り広げられているらしい無言の応酬を前に、手持ち無沙汰感を持て余していた。
面越しに視える、その気配。鍔迫り合いのように飛び交う色彩が凄まじく、迂闊に動けない。口を挟める雰囲気もない。
それ以前に、いつこのような事態になったのか。
(仮面を外すか外さないか、っていうやりとりをしたところまではまだ普通だったよなあ……こたに団子を口に突っ込まれた辺りから、私の記憶が怪しい……気がしないでもない)
仕方ないので、状況が収まるまでそれを眺めながら大人しくすることにした。
伝説の忍に凭れかかりながら、今日はもしかしてここに泊まることになってしまうのだろうか、とそんなことを考える。
逃避行動かもしれない。けれど深く考えたくはなかった。
この無言の会話が終わり次第、小田原の城主宛に連絡をしてもらおう──そう決めて、黒江は口の中に残る風味と、布越しに伝わる小太郎の体温の心地よさだけを感じていた。
※
「あー疲れた」
どういうふうに話が纏まったのかは知らないが、結局は小太郎と共に一泊することになった。
案内されたのは城ではなく、ここに来た時に見たあの武家屋敷めいた建物のほう。そこに用意された一室に入るなり黒江は大の字に寝転び、猫のように伸びをした。
ミシミシと体の各所が鳴る。なんだか今日は妙に疲れた、とそのまま目を閉じていれば、頭上にふっと影が差した。
薄く目を開ければ、傍らに膝をついてしゃがみ込んだ小太郎。こちらの顔色でも窺っているのか。息を潜めて待つ肉食獣のようだな、と黒江はまた目を閉じ、少し間を置いてから目を開けてみた。すると、その光景が変わらずそこにあったので、軽く噴き出してしまう。その反応に小太郎が不思議そうに首を傾げたので、黒江は肩を竦めつつ上体を起こした。
「あはは、いや、小太郎って忍者だよなあって思ってさ」
「(……?)」
「いや、うん。なんとなく再確認をな」
黒江は曖昧に笑い、傍らに跪いたままの小太郎に手を伸ばす。
黒鉄の兜を深く被り、眉庇で目元を覆った伝説の忍。その頬に何気なく触れようとして──手を止めた。
「……、やっぱりフェアじゃないよな」
「(……?)」
小さく呟いた黒江に小太郎が首を傾げた。下ろされた黒江の手を取り、言葉を綴る。
『先程のことを気にしているのか』
「はは。やっぱり分かっちゃうか……さすが伝説の忍」
軽くおどけた口調で言うも、その表情はどことなく元気がない。
「……本当はさ、吹っ切れてるつもりだったんだ」
掴まれた手に視線を落とし、黒江は続ける。
「でも、さっき松永さんたちの前で話してみて分かったんだ。私はまだかなり無様にそれを引き摺ってるって」
黒江は目を逸らしたままで話していたが、不意に眉根を寄せると座り直し、小太郎の手を掴み返した。
「そうかといって、こうやっていつまでも顔を隠しっぱなしでいるのは何か逃げ回ってるみたいで不愉快なのですよ小太郎くん」
「(……?)」
妙に畏まった物言いをして目を合わせてきた黒江に、小太郎がまた首を傾げる。
黒江は、ふっと肩の力を抜くように小さく笑った。重苦しい空気を自分から振り払うように。
「さっきは駄目だったけど、今は人数も減って小太郎と二人きりだからさ、大丈夫かな、と!」
そう言って小太郎から手を離すと、己の後頭部に腕を回して紐に手を掛ける。
そして黒江は小太郎を真っ直ぐ見たまま──どことなく鬼気迫る顔で──言った。
「──というわけでちょっと実験に付き合ってくれ小太郎!」
「(……!?)」
え、というように口を開いた小太郎の目の前で、唐突に面の紐は解かれた。
目元を覆っていたものが外れ、相貌が露わになる感覚に黒江は顔を顰める。
しかし、そのまま動かなかった。強く目を閉じると、震えたまま外した面を手に、息を詰める。
小太郎にはどう見えるだろうか。
この、顔。
つまらなくて、なんでもないこの──。
醜い、顔。
ああ、期待外れだったとか。
大したものじゃなかった、とか。
がっかりして、小太郎も──。
黒江は相手の反応を待つ。依然として震えながら。
※ ※ ※
それは二度目の素顔だった。
一度目は先程の広間。偶発的な事故では、一瞬だけだった。
いつかの夜の小田原を思い出す。僅かに開かれた襖の隙間から、畳に寝転んで歌を歌っていた黒江。旋律を紡いでいたあの時の唇が、今ここに曝け出されている。
(……目を閉じているのが勿体ないな)
男にしては白すぎる肌に長い睫毛が影を落としているのはどこか煽情的で、小太郎の興味を一層強く惹きつける。
このまま顎を掴んで上向かせ、そこへ己のものを合わせれば──この人はどういう反応をするだろうか。
黒江は目を閉じている。何かの沙汰を待つように。
何と無防備な雛鳥か。
このまま忍の房中術でその口を、その身を、開いて暴けば全て預けてもらえるだろうか。
過ぎったのは邪心。けれどそっと身の内に押し込めると、小太郎は黒江の強張った手に視線を向けた。
※ ※ ※
目を閉じていた黒江は、外れた仮面の後に何かが触れるのを感じた。
大きなものが目元を覆う。温かいそれはどうも人の手の形をしていて。
「こた、ろう? なにを──」
「(……)」
閉ざされた視界の向こうで、動く気配があった。大きな手が一瞬離れ、次に黒江の目元に触れたのは無機質で馴染みのある細工物。
外した面を再び被せられたのだと理解した黒江は目を開け、呆然と相手を見つめた。後頭部で紐も結ばれ、元通りになっている。
「なん、で、こた」
視界に入るのも悍ましいから、仮面を戻した?
小太郎は、そんなことを考えて青褪めていた黒江の頬を軽く撫でると、手を取って言葉を綴った。
『貴方の気持ちは受け止めた。今は、これだけでいい』
「いや、でも」
『俺だけに明かそうとしてくれた。それで充分だ』
そうして言葉を書き落とした黒江の手を取り、その手の平に顔を寄せた。
風が通り過ぎるように。
そこへ行われたのは接吻。
手の平を撫でるようにして、小太郎の唇が離れていった。
一連の行動を理解した黒江の震えは一瞬で止まり、直後、一気に顏が赤くなる。
「な、ぁ……んなっ、なにを、こたっ、いま何っ」
動揺して意味のない言葉を吐く黒江を見て小太郎は微笑み、その手の平につっと指を滑らせて告げる。
『貴方が何者でも、俺は気にしない』
「いや、今の……あ、えっと、だ、駄目だろ。こたは忍者なんだから、こういう不審なものは気にしないと──っ」
そこで黒江は抱き寄せられ、相手の腕の中に閉じ込められる。
口づけの次は抱擁。包み込まれるように抱きしめられた薄闇の中では、面で隠さずとも顔は見られない。強張っていた身体から力が抜けるのを感じて、黒江は息を吐く。
「あー……そうか。自棄になっていたのか、私は」
独り言めいた呟きを零せば、小太郎に背中を軽く叩かれたので黒江は自嘲する。
「ははは……悪い、小太郎。やっぱりまだ自信が無いから、顔を晒すのは無しにする」
「(……)」
分かった、というように、小太郎が背を叩く。
黒江は大きく深呼吸をすると、抱きしめられた格好から面の結び目に触れた。しっかり結び直されている。対面の姿勢からよくもまあ綺麗に結んだものだ、と黒江は感心する。
顔の半分を覆い直した面打ち師は、深く息を吐くと忍の胸に凭れかかった。
「駄目だ。君が優しいから、ついつい甘えちゃうな。いい大人なのに、恥ずかしい」
いい加減にこの性根をどうにかしないといけないよな、と黒江は呟いて……やがて、ゆっくりと離れた。ふと出入り口である襖のほうに顔を向けて、小太郎に話しかける。
「夕餉の支度、出来たみたいだな?」
「(……)」
近づいてくる気配はするものの、その足音は遠い。
なのに、黒江は気づいた。常人ならばそう簡単には分からないものを、実に自然に。
……潜む忍の気配すらをも拾い上げる慧眼は、既に自らが称する「いっぱんじん」のそれではありえない能力なのだということを、この人は自覚していない。しかも、自覚が無い故に無防備でいるものだからいつも目が離せない。
「(……)」
小太郎は苦笑に似た吐息を吐くと、立ち上がって黒江に手を差し出した。
黒江がそれを見て、目を細める。
「ん、行こうか」
黒江は疑問も抱かずに、差し伸べられた手を取る。忍の手に、躊躇いも無く──触れてくれる。
手を引かれた黒江が腰を上げたところで、襖の向こうから声が掛かった。
「黒江様。夕餉の支度が整いましたので、御案内致します」
「あ、はい。分かりました」と黒江が答え、小太郎を見上げて小声で言う。
「食事する場所が義輝さんたちと一緒な気がしますが気のせいでしょうか小太郎くん」
「(……)」
小太郎は気のせいじゃないと首を振り、黒江の肩をポンと叩いてそっと労っておいた。
***
色んな意味であわやなところだった主人公。