「……あ」
食事の途中、あることを思い出して黒江は箸を止めた。
対面に居た男が、それを見て声を掛ける。
「どうした。食事に毒でも入っていたかね」
「や、毒だったらこんな反応になりませんよ」
やや呆れた声で言い返し、止めていた箸を動かして食事を再開させるも、男──松永が見逃してくれるわけも無く。
「では卿が気になったのは何だ、黒江」
「あー、いや……爺様──氏政様のお土産は何にしようかなあ、と」
「──ふむ。卿はどうにも暴かれるのが好きなようだな」
意味ありげな笑みを浮かべて箸を置いた松永に、黒江も同じく箸を置いた。何でもありません、という流れには出来ないようだ。
「あああ、待って、言います! 言いますから、こっち来ないで下さい!」
黒江は、このドエスめ、と呻いて腰を上げかけた松永を制すると、小太郎が淹れてくれた茶を飲み、はあと溜め息を吐いた。松永の隣に座る天帝サマが、その流れを見て優雅に笑う。
「其の方はよく焦らす話し方をするが、癖なのか、朋よ?」
「癖じゃないです。むしろ私的には聞き流されるだろう発言を追及してくる人間が多くてビックリです」
ことりと湯呑みを置いて、黒江は仕方なしに白状する。
「さっき声を出したのは、ちょっと思い出したことがありまして」
「ほう。それは何かね?」
「はあ……松永さんの期待から大きく外れる内容ですけどね」湯飲みへ視線を落としつつ、黒江は語る。
「箱根に出掛けることを爺さ……氏政様に告げたら、じゃあ温泉に入って来いと言われまして」
「この辺りの温泉、か……ふむ。そういえば、北条氏が管理する湯が箱根にあると聞いたことがあるな」
顎を擦り、松永が口角を上げる。
「成程。卿は、そこへ立ち入る許可を承った……と。そういうことかね」
「ええ。箱根って温泉の名所でしょう? もうその気遣いが嬉しくて、だから今日は楽しく過ごそうって……予定だったんですけどね、途中までは」
わざとらしく残念そうな笑みを浮かべて、黒江は湯呑を置いた。それから箸を取ると、膳の上の焼味噌と飯を口中に放り込み、もくもくと咀嚼する。
梟雄だけとの面会が、何をどうして天帝までに行きついたのか。出逢い自体は悪くはないのだが、それも相手の性格次第だということを、黒江はここに来て学習する。
箸を進めつつ、取り止めになった温泉旅行を心中でひっそりと嘆いていれば、ぱしりと笏を打ち鳴らす音がした。
「よし。ならば、予が其の方の願いに付き合おうではないか!」
「んぐっ!?」
「(……!)」
義輝の提案に、黒江は思わず吹き出しそうになり慌てて口を押さえる。
「ん……んぐ」
どうにか噴飯を堪えて、ひとまず畳を汚すという惨事を免れた。小太郎がその背を軽く叩いて「大丈夫か」と湯呑みを差し出してきたので黒江は涙目でそれを受け取る。口の中のものをすっかり飲み込んでから、疲れた顔で義輝を見た。
「いやもうほんと、民草に合わせて下さらなくても結構ですから、くぼーさま!」
「ははは。遠慮するな、朋よ。予も温泉は嫌いでは無い」
「遠慮じゃないです、面倒なことになりそうだから辞退申し上げておるのです!」
「曲者の心配なら不要だぞ、朋よ。予にも松永にも、優秀な護衛がそれなりにいる。安心しろ」
「それをいうなら私にも伝説の忍が居ますし、むしろ最少人数二人でそちらと合同するよりずっと安全なんですけど!?」
「そうか。では、その忍も同行させよう。──よし。夕餉後、湯殿へ案内するとしよう。楽しみにしていろ、久秀、朋よ!」
見事なまでに、話が噛み合わない。
ここまでくると、流石は殿上人、天晴れというべきか。
「ねえなんでこの人さらっと人の話を聞かないの、そしてさらっと勝手に話を進めちゃうの。くぼーさまだから? しょーぐんさまだから!?」
「卿に拒否権は無いということだよ、黒江」
「そして横からさり気なく止めを刺すドエスとかもうヤダこの組み合わせ!」
「(……)」
小太郎が湯呑みに新しく茶を淹れ、それを黒江に差し出して背中をさすさすと撫でる。
黒江は湯呑みを受け取り、零れる溜め息を茶と共に飲み干して心中で呟いた。
──もうどうにでもなあれ、と。
※
「はー……」
大広間、とまではいかないものの、それでもそこは大浴場と言う名に相応しいくらいの広さがあった。
北条ゆかりの温泉を愉しむのは次回に持ち越す羽目になったが、これだけ広いと不満も消える。黒江はすっかり温泉気分に浸っていた。
「寝そべってもお釣りがくる広さだなー……まあ、寝そべらないけど」
この世界ではとにかく浸かれる湯殿が貴重だと、黒江は思い知っていた。黒江は、木と湯の香りがする室内に目を凝らす。
「しかしこれ、何畳くらいあるんだろう」
百八十かける九十基準で一畳として、ええと──などと雑学を考えていれば、浴室の奥から呆れた声が飛んできた。
「卿は、いつまでそこに佇立しているつもりかね。とっとと入ってきたらどうだ」
声がしたそこには、敢えて見ない振りをしていた光景があった。
湯けむりの向こう、湯船にゆったりと浸かる男が二人。明らかにそこだけ雰囲気が違う。主に優美さが。
黒江は付けたままにしている仮面越しに額を押え、はあと息を吐く。
「梟雄と天帝と合同入浴とか恐れ多くて、民草は是非とも遠慮したいんですけど」
手拭いを巻き付けた腰に片手を当ててそんなことを述べてみるも、返されたのは雅な笑み。
「ははは。なに、今この場に於いては無礼講を許す。気兼ねせず入って来い、朋よ」
「──と、公方殿は仰せだ。……ああ、それとも卿は手を引く相手が居ないと不安なのかな」
そう語りながら松永が腰を上げようとしたので、黒江は慌てて浴室内へ足を踏み入れることになった。
※
仮面が濡れないよう注意しつつ掛かり湯をし、彼らから距離を置こうと浴槽の隅から片足をいれたところで声がした。
「何をしているのかね、黒江」
「……いやあ。目障りにならぬよう、民草は、こう、隅の方で?」
「此方へ来たまえ。其処に居られては、話がしにくいだろう」
「や、ほら、でも」
「久秀、やはり手を引いてやったほうが良さそうだぞ」
「そのようで」
ざばり、と松永が湯の中から立ち上がったので、黒江はヒイと悲鳴に似た声を上げ、「ごめんなさいすみません行きますから」と早足でそちらに近づいて行った。
それでもやはり人ひとり分の間を開けて彼らの前に腰を下ろした黒江に、義輝が苦笑する。
「其の方は意外と強情だな、朋よ」
「……民草なりの自己防衛です」
手拭いを頭に乗せて、黒江が遠い目をする。
いま、黒江の側に小太郎は居ない。結局、一緒に入るのは固辞されたのだ。
彼の忍曰く──『俺は貴方の警護に回る』とのこと。
そう筆談された時は少し慌てた。小太郎が一緒にいてくれるものだとばかり思っていたからこそ松永や義輝の誘いに仕方なく乗ったというのに、肝心の守護がつかないというこの事態。
「じゃあ、私も小太郎の手伝いを」と逃げる口実を口にすれば、小太郎が首を横に振った。そんなことをしてもあれらは貴方を捕まえる、と黒江の手に書いて。それで黒江が観念したように力無く項垂れれば、小太郎がその背を撫でてきて告げた。
『何かあれば、俺は貴方の元へ直ぐに参じる。だから、どうか安心して欲しい』
「うん……小太郎の事は常に信じてるけども」
そう返せば小太郎に頭を撫でられ、きゅっと優しく抱擁された。
「こ、小太郎?」
「(……)」
気配の色から、どうも今返した発言の何かが小太郎の琴線に触れたらしい。
だが、黒江は自分の言葉の何が小太郎を嬉しがらせたのか分からない。戸惑いつつも軽く抱きしめ返してから身を離し、それから入浴の際の注意事項について互いに話し合い、何かあれば小太郎の名前を呼ぶこと、と決めて浴槽に続く廊下のところで別れた。
ともあれ、伝説の忍に影ながら守ってもらえるのだから安心だなあ、と。
そう思い込んで観念することがそろそろ恒例になりつつあるのだが、正直定例化しないで欲しいと切に願いながら、黒江は単独で厄介な相手の相手をするという現状に至る。
「しかし、やはりというか其の方は結局、その面は外さぬのだな」
「……え。あー……」
ここに来るまでの一連の流れを思い出していた黒江は、そこで義輝に話しかけられて意識を戻した。
自分も同性になっているとはいえ、直視できないので視線を外して言い返す。
「ご容赦を。今は平にご容赦を賜りたく」
「今は、ということは、いつかはその下に隠された花を照覧することが出来る、と期待しても?」
「花はともかく、もう少し学べば意固地も柔らかくなると思われます」
「学べば即ち固為らず──孔子の言葉で返すか。思った以上に卿はかなり学があるようだな」
「……や、思いつくままに口走った言葉なんで、深読みされると困ります」
「はは、まだ己を隠すかね。……本当に卿は飽きさせない」
「飽きて。そこは是非とも飽きて……!」
更に心もち距離を開け、黒江は小声で呻く。本当は悠々と足を伸ばして寛ぎたいのだが、全裸の状態に置かれた現状では、そこまで無防備にはなれず。
いつでも動けるようにと、とりあえず膝を曲げて三角座りの姿勢でいるせいで、ちっとも気が休まらない。
(小太郎は……居ないか。屋敷の周辺でも見回ってるのかな)
近くに居ない忍を早々に懐かしみつつ、湯に浸かってぼうっとしていれば──側で、ぱしゃりと湯の跳ねる音がした。
音のした方を見れば、松永と目が合い──こちらの気を引く為にわざと音を立てたのだ──ニヤリ、と笑いかけられる。
「卿は、湯では無く一人風呂を好むのだな」
「……? 何です、唐突に」
「なに……拙い所作を見る限り、大衆銭湯に足を運んでいるようには見えないのでね」
「鈍臭い田舎者ですみませんね。爺さ──氏政様に、温泉付きの住居を有難くも借り受けているので、そちらで済ませてるんですよ」
そう答え、考え込むように天井を仰ぐ。
「銭湯は見学がてら、足を運んだことはあるんですけど……混浴だったので、ちょっと苦手で」
「何を言っているのかね。銭湯とは、そういうものだろう」
「え。あー……」
松永に言われ、黒江は不思議そうな声を出し──思い出す。この時代の銭湯は男女共同が当たり前で、仕切りのない大部屋のような浴場に入る仕様なのが常なのだということを。
「そう──でした、よね。うん、そうでした」
仮面の奥でそろりと視線を逸らしつつ、咄嗟に言葉を続ける。
「世俗に疎い生活をしていたので、知りませんでした」
「……。卿は確か、元々は小田原の人間では無いのだったな。以前は何処に居たのかね」
「……小田原から三日分くらい離れた山奥に居ました」
「一人、では当然ないね」
「……言いきりましたね?」
「なに……卿は単身で生活できるよう人間には見えないのでね。違うなら、謝罪するが?」
「松永さん、小憎たらしいです」
「そうかね。──それで?」
「……ご明察、です。面打ちの師匠が居ました。今は消息不明です。そのうち探しに行きたいなとは思ってます」
頭に乗せていた手拭いで軽く顔を拭いて、黒江が立ち上がった。
ぱしゃりと波打つ水面。湯けむり越しに松永を見下ろし、疲れた声で言う。
「尋問にのぼせそうだから、上がりますよ?」
「おや、それは困るな」不敵な笑みを浮かべた松永の左手が、黒江の右手を掴む。
睥睨するような眼差しでそれを見つめ、黒江が言い返す。
「私はちっとも困らないんですけど」
「久秀、そこまでにしておけ」
鶴の一声。
黒い渦が湯の中へ沈むのを、黒江は仮面越しに視る。
「やれやれ。公方殿の命では仕方がないね」
「ははは。白々しいです松永さん」
わざとらしく残念がる梟雄に黒江は悪態を飲み込み、義輝の眼差しを受けてながら再び湯船に戻ることになった。
※
(あー……変に緊張する。のぼせる前に、頃合いを見計らって上がるかー……。……ん?)
ややささくれた気分で浴槽の縁に凭れていれば、驚いたように目を丸くしてこちらを見ている義輝にふと気づく。
「どうしました、義輝さん。何か驚いているように見えますけど」
「いや……」
問えば、相手が顎に手を当てて口を開いた。
「その背中の大傷はどうした?」
「背中のおおきず? って──」何のことですか、と返そうとした次の瞬間、さっと青褪める。
ざばっと湯の中で反転して背中側を隠し、引き攣った笑みを浮かべる。
「や、これは……何でもない、ん、です」
「そうか? 見たところ古いものだったが、そのように跡が残るくらいだ。大きな怪我だったのだろう?」
「……いや、ほんと……この傷のことはちょっと記憶が曖昧なんで、詰められても答えかねます」
「ふむ……では、後ほど風魔に訊いてみるか」
「……小太郎も知らないことなんで意味ないですよ」
真実を口にして、黒江は妙な寒気がする両肩を擦りながら少しだけ湯に身を沈めた。
※
それからしばらくして。
梟雄と天帝に挟まれて入浴。という状況にようやく慣れた黒江が、足を伸ばしてまったりしていた時だった。
「ふむ、頃合いだな」そう義輝が呟いたのを、黒江は湯気の向こうでぼんやりと聞く。
「そろそろ体を洗うとするか、久秀、黒江」
「え? はあ、どうぞ?」
何でいちいち宣言するんだろう、と黒江が内心でツッコミを入れたその時、笏でそうするように義輝が両手を打ち鳴らした。
「者ども、入って来い」
「者ども!? って、な──に……」
ぎょっとして入口を振り返った黒江は、そこからやって来た人間を見て固まった。
綺麗に着飾った女性が数人。
「湯女!?」
湯の中でざぶりと身を引いて、黒江が声を上げる。
「って言うか──いやいや、何で呼んだ義輝さん!?」
「うん? 背中を流す人間は必要だろう」
あっさり答えられ、黒江は相手の身分を思い出す。
「あ、そうか。義輝さんの身分ならおかしくもない……んだろうけど、それにしては人数が多すぎやしませんか!」
「それは、公方殿が我々の為にも用意して下さったからだよ、黒江」
「我々って言った!?」
補足した松永の言葉に、黒江がギョッとする。
「いやいやいや、そこは松永さんまでで良いでしょうよ! 私は自分で洗うから結構です!」
ざばざばと後退り、黒江は浴槽の縁まで避難する。
噴き出る嫌な汗。異性に裸を見られるのは流石に気恥ずかしい。相手が元の自分の性別と同じであっても、だ。
(女の人も、何で恥ずかしく──ないのか、職業上)
腰に手拭いを巻き付けて無防備な下肢を隠したが、それでもこの光景には狼狽する。
面で覆う視界が濁り、手の甲で目元を拭っていれば近づいてくる人の気配を感じたのと同時に声を掛けられた。
「さあ、貴方様も」
「えっ」
涼やかで艶のある声が側でして、ぎくりとする。
顔を上げれば、そこには顔立ちの整った女性が──湯女がいて、黒江に手を差し出して微笑んでいた。
「──っ、いやややや、わ、私は……っ!」
ぴゃっと悲鳴を上げて、黒江は更に後ろへ下がる。波打つ湯。小太郎のようにふるふると首を横に振り、結構ですと断ろうとしたそこで──ふと、動きを止めた。
黒江は不意に口を噤み、浴槽の外側に膝をついて微笑んでいる湯女を見つめる。
「んー……この場合は女性だから──」
上から下へと視線を動かし、しげしげと眺め……次の瞬間、つい声を上げてしまった。
「貴女、くのいちさんか!」
「──ッ!」
今度は、その湯女がぎょっとする番だった。黒江から身を引き、立ち上がろうとした──その刹那、音もなく間合いを詰めた気配が背後に立つ。
首筋に刀を突き付けられて、湯女は動きを止めた。
黒江は「あ」と言う顔をすると、ざばっと前に足を踏み出して、彼女の背後にいる刀の主に向かって叫んだ。
「待った小太郎、その人を殺めるのちょっと待ってー!」
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性別反転しても、動揺するものはする。