建物の古びた木肌、軒先に下がる色とりどりの暖簾。三島宿の活気は、異邦人である黒江の目に鮮やかに映っていた。
「わ。──凄い!」
足が止まったのは、一軒の飴細工屋の前だ。
天へ昇らんとする昇竜、雪から転がり出たような白兎。その中でも、黒江の心を射抜いたのは、透き通った紅い金魚だった。まるで今しがた水から引き揚げられたような瑞々しさに、黒江は思わず仮面の下で瞳を輝かせる。
「あんた、飴を見るのは初めてかい?」
練りかけの飴を手に、主がくっくと笑った。
黒江は慌てて顔を上げ、熱の籠もった感想を零す。
「いえ、初めてでは……。でも──こんなに綺麗なのは初めてです。まるで、生きてるみたいで!」
その無邪気な感嘆に、飴売りは相好を崩した。
「ははっ、そいつは職人冥利に尽きるねえ。よし! 持ってけ!」
「え、あ……ありがとうございます」
差し出された金魚飴に黒江は気後れしつつも、老爺から預かった巾着をまさぐる。
ひい、ふう、みい……。慣れぬ通貨を数える彼の手を遮るように、店主は飴を押し付けた。
「金は要らねえ。それだけ見惚れてくれりゃ、十分だ」
「……っ、ありがとうございます! 頂きます!」
素直に受け取り、微笑む。
仮面に隠れぬ頬が、歓喜で薄紅に染まった。
はしゃぐ黒江は、無意識に傍らの漆黒の袖をギュッと握りしめていた。
「凄い、ふうまさん! 見て、凄い、宝石みたいだ! 美味しそう!」
一心不乱に感嘆を並べる黒江。その頭に、ポン、と大きな掌が置かれるまで、彼は自分が「伝説の忍」の袖を子供のように掴んでいることに気づかなかった。
「あ、……わ、ぁああああ」
一気に血の気が引く。此処は屋外。店主の微笑ましい視線、そして、口元に微かな──あまりに微かな──愉悦を滲ませて立つ風魔。
「わあ、ああああ!」
顔を真っ赤にした黒江は、這々の体でその場を逃げ出した。……風魔の袖を、掴んだままであることにも気づかずに。
※
宿への帰り道。
気まずさを誤魔化そうと、黒江は小袋の飴を勧めてみたが、風魔は静かに首を振るだけだった。
「んー……毒見とか、忍の作法的にダメなのかな。じゃあ、独り占めしちゃおう」
独り言のつもりで呟きながら、黒江は棒飴を口に放り込み、カリコリと噛み砕く。
ふと、指先がべたついていることに気づいた。人差し指と中指、二本だけ。
(手拭いを出すほどじゃないし……)
黒江は、ごく自然に指を口元へ運んだ。
「ん……っふ。あま」
熱を含んだ呼気と共に、指を吸う。
乾いた手拭いで拭うより、その方が合理的だと思ったからだ。
唾液には殺菌効果が云々というし、少々の行儀の悪さは構うまい。
(まあ、大人がすることじゃないかもだけど、濡れたおしぼりとかないからなあ)
無作法な行為を風魔の巨躯で隠すように、無意識に彼へと寄り添いながら、丁寧に舌先で蜜を舐めとっていく。
「(……)」
だが、黒江は知る由もない。自分より遥かに背の高い風魔からは、その伏せられた睫毛の震えも、蜜を絡める舌の動きも、その全てが酷く艶めいた毒として丸見えであることを。
吸い上げられる吐息、甘い蜜を絡めとる舌の湿った音までが、忍の鋭敏な耳には酷く鮮明に響いていたのだ。
(意外と甘いな……砂糖って貴重じゃなかったっけ?)
そんなことをぼんやりと考えながら、指についた飴を舌先で舐め続ける。
(麦芽糖かな……甘いものは久しぶりだなあ……泣けてくる)
考えに集中するあまり、黒江の注意力が下がる。
やがて、思考に没頭した黒江は、ふらふらと風魔の側を離れ、賑わう人ごみの方へと迷い込んでいく。
風魔が引き留めようと手を伸ばしかけた、その時だった。
(……?)
風魔は伸ばした手を止めた。
黒江の歩行は相変わらずぎこちなく、足の擦り傷も痛むはずだ。それなのに彼は、対面から来る荷持ちの男も、走り回る子供も、まるで最初からそこに道があるかのように、寸前でひらりと避けていく。
余所見をし、指を舐め、注意力が散漫に見えていながら、その実、周囲の「気配」を完璧に捉えていた。
無意識に繰り出されるその流麗な回避に、風魔は「ほう」と感嘆の息を吐く。
男……であるのは分かっているのだが──どうにも女のような艶を感じるのは気のせいか?
指に付いた飴を舐めていた、あの仕草。
伏せ目がちになった目元に、ほんの少し色気のようなものが見えたのは錯覚か。
その危うい色気と、忍にも通ずる異能の片鱗。風魔の胸中に、ドロリとした邪な影が差す。
(……らしくない)
風魔は己の雑念を振り払うように目を細めた。その時、鋭敏な聴覚が遠雷のような音を捉える。
「ん? 雷? ……じゃないな。何だろう?」
「(……!)」
思考を破ったのは、坂道を暴走し、土煙を上げて迫る大八車だった。
左右に分かれる人波を余所に、「時代劇みたいだ!」と何に感動しているのか、立ち尽くす黒江。
「(……何を悠長に!)」
風魔は迷わず、黒江の腰を片腕で抱き上げた。
景色が飛ぶ。
突風に仮面の紐が揺れた瞬間には、二人は道の端へと着地していた。
「え、わ」
目を丸くしている黒江の前を、がらがらと大きな音を立てて荷車が通り過ぎていった。
間一髪。
「うわー、人力であの速度か!? 凄いな人体の神秘!」
「(……神秘なのはお前の思考だ)」
危うく命を落としかけたというのに、黒江の瞳は輝いている。
「(……あんなものよりも、俺のほうが速かっただろうに)」
土煙しか残っていない方角を尚も見つめている黒江に、風魔は知らず眉を寄せる。注意を引く為、黒江の二の腕辺りを軽く叩いた。すると黒江が首を動かして、風魔に視線を戻す。
「ん……呼びました?」
「(……)」
頷いて、黒江が見ていた通りとは反対側を指差せば、返されたのは困惑。
「え、ええと……?」
「(……)」──はくはくと唇を動かしてみるも、相手は戸惑った表情で風魔を見つめるばかり。
読唇術など出来ようはずもない。──黒江は忍でも何でもないのだから。
風魔は今更に思い出す。
そうだ、この男は此方の言葉が読めないのだ。変なところで勘がいいのでうっかりしていた。風魔は苦笑めいたものを口元に滲ませると、『会話』を止めた。
その代わり、黒江の背を軽く叩いて歩き出す。
「あれ。どこ行くんですか……って、この道は確か宿があるほうの……あ、もう戻る感じです?」
「(……)」
風魔は頷き、空を指差す。
つられるように見上げた黒江は、遠くの空が微かに黄昏に染まりつつあるのに気づいた。
「わ、もう夕方か! じゃあ爺様を待たせるのも悪いから、この辺で戻りましょうか」
「(……)」
風魔が相槌を打つように頷けば、黒江が微笑する。
そして歩いて少しした頃に、黒江からこう切り出されるのだ。
「ところで──助けてもらったのにこういうのもアレなんですけど、男がお姫様抱っこで運ばれるのは、非常に居た堪れないものでして」
「(……)」
風魔が立ち止まり、僅かに首を傾げる──『それで?』
「はい。ですので、下ろしてもらえませんか。歩けないわけではないんですし」
「(……)」
今度は無反応だ。
黒江に向けていた目を前に戻すと、風魔はすたすたと歩き出す。
「あれ。今、やれやれって感じ出しませんでした? あの、ふうまさん? えっと、何か怒ってます? あ、もしかしてさっきの大八車でぼけっとしてたのを怒って──」
その後、黒江は反応を返してくれなくなった風魔に必死に謝罪と弁解をして、どうにか地面に下ろしてもらうのだった。
※ ※ ※
(……町は賑やかなのに隣が静かなのって、なんか不思議だなあ)
黒江は町と風魔とを交互に見やりながら歩いている。土と砂利が混ざる道は黒江が歩くたびにざりざりと小さな音を立てるが、隣を歩く風魔からは何の音もしない。
よくもまあここまで綺麗に足音を殺せるものだ、と感心するほどに音が無い。
どこかの家から、子供を呼ぶ母親の声が聞こえた。
出汁と味噌の匂いが鼻先を掠める。
前方から、両天秤の両端に籠と桶を下げた行商人が歩いてきた。籠と桶の中身は空っぽなのに、その足取りは軽く、薄っすらと笑みを浮かべている。あれは商品がすべて売れたので空っぽなのであって、笑っているのは懐が潤ったからか。仮面越しに視えるのは、ほんわかしたピンク色。
(あはは。良かったなーおにーさん)
他人の幸せに、つられて微笑む黒江。
宿の近く、茶店の前を通りかかった時のことだ。
黒江の足が、再び止まった。
視線の先には、編笠を被り、団子を食す行商人の男。
(……おおお、役者っぽい行商人さん発見!)
黒江が興味津々で見つめると、男は不審げに睨み返してくる。
(めちゃくちゃ警戒されてる上に、怪しまれてる! 見つめすぎちゃったか……って、あれ?)
黒江が眉を顰める。
仮面を通して視える男の気配──それが、以前小屋の天井で感じた「不自然な虚無」と酷似していたのだ。
(あの人……ふうまさんと『同じ』だ)
外見は普通に見えるのに『仮面越しに映る気配の色』が酷似している。
周囲の喧騒を掻き消す静寂の気配――。
刹那、黒江の背筋を冷たいものが走る。
風魔のような「特別な個体」が、そこら中に転がっているはずがない。
つまり、あれは。
そこまで考えたところで、黒江はハッと風魔を見上げた。
「(……?)」
急に見つめられて首を傾げる風魔のその腕を、がしりと掴んで黒江は口を開いた。
「いやあ、立ち止まっちゃって、すみません! さ、帰りましょうか!」
「(……)」
風魔が一瞬、足を止めるような素振りを見せたので、その手をぎゅっと掴む。
(わ。やっぱり大きいな──じゃなくて!)
風魔に負けぬよう、黒江はグイッと引っ張る。
「ほらほら、行きましょう。あー、お腹空いたなー」
わざとらしい口調になってしまったが、気にしている場合ではない。尚も問いたげにしている風魔の視線をさっくり無視し、繋いだ手を離さぬまま黒江は足早にその場を立ち去った。
「(……)」
背中に突き刺さる行商人の視線を、風魔が背後から割り込むようにして遮断した。漆黒の外套が、黒江を射抜こうとする殺気から彼を隠す壁となる。風魔もまた、その男が放つ「毒」のような同類の気配に気づいていたのだ。
だが、必死に自分の手を引く黒江の背中を見つめ、今はその献身に甘んじることにした。童のように手を引かれるのも悪くはないと考えて。
──あの行商人は、風魔と同じ類の人間だ。
いつしか走りながら、黒江は考える。
触らぬ神に祟りなし、二回目。
……既に手遅れ感が強いのは、気のせいだろうか。
***
飴自体がとても貴重なものなのに、無料で提供した飴屋の店主は太っ腹なので良いことがあるといい。
ウエットティッシュはあると便利だよねという話。