宿泊先の部屋に戻った黒江を待っていたのは、湯上がりのご隠居爺様。
黒江を見て、次にその背後に居る風魔を見てから声を掛けてきた。
「町見物は楽しかったようぢゃな」
「はい。あの、お金ありがとうございました」
「そうかそうか。風魔とも仲良くなれたようで、なによりぢゃ」
「……え?」
きょとりとする黒江に、老爺が「それぢゃよ」と何かを指差す。
疑問符を浮かべつつ、黒江は老爺が示した先──腰辺り? ──に視線を落として……。
「わぁっ!?」
いつの間にか風魔の手を握っていた事に気づき、飛び上がらんばかりに驚いた。
町見物の最後に見つけてしまった、怪しい行商人。相手にも気取られているようだったので、黒江は慌ててその場から離れようと考えて、隣にいた風魔の腕を掴むなり小走りに駆けだした。
掴んでいたのは二の腕辺りだった――筈なのに、いつの間に手を繋いでいたのだろう?
「わっ、す、すみません……っ!」
「(……)」
黒江は慌てて手を離し、横へ飛びのいた。
風魔が『気にしていない』と首を横に振っても、それには目もくれない。ひたすら謝罪の言葉を繰り返して、ペコペコと頭を下げ続ける。
どうして手を繋いでいた?
しかも、しかもだ。
指をきっちり絡めた「恋人繋ぎ」というこの不可解さ!
よりにもよって、この繋ぎ方はないだろう! と黒江は頭を抱えたくなる。
あの場所から逃げ出すときは、確かに腕を──。
(……いや、待てよ?)
腕を掴んだ時、確か風魔がその場に踏み止まろうとしたような。
それで、風魔を引っ張る為に──風魔は自分よりも背が高く、体格がいいから──黒江のほうから強く手を握ったような?
(あの時かー! あの時だー!)
うわあああ、と黒江は内心で騒ぐ。心境はまさに、嵐の夜の海だ。
(ふうまさんも言ってよ! 律儀にそのままにしてくれなくてもいいのに!)
「(……)」
両手で顔を覆い悶えている黒江を眺めつつ、風魔は振り払われた手へと視線を落とす。
離れた熱。そよ風が通り抜けたような空虚感。急に冷える手の平の物侘しさ。常に血を浴び、鋼を握りしめてきたその掌に、唯一残されたのは柔らかな皮膚の余熱。
心地いい温もりを、理不尽に取り上げられた気がした。
「(……物足りない?)」
己の胸中に生じた不可思議な感情に、風魔は二、三度瞬きをする。
指を絡めてきたのは、心を預けてくれたからではなかったのか。
「(……馬鹿馬鹿しい勘違いをした)」
童のように手を引かれるのは悪くはなかったのだが。風魔は息を吐くと、ゆるりと頭を振った。
そして顔を上げると、老爺に目を向ける。話せぬ風魔の視線を受けた老爺は苦笑し、助け舟を出す。
「黒江、そう小さなことで謝らんでもええ。風魔は気にしておらん」
「いやっ、でも、護衛であるふうまさんの手を無駄に拘束してたのは悪かったと思いまして!」
「片手が封じられようと、風魔にとっては些末なことよ。……のう、風魔?」
「(……)」
己の主人に短く頷き、風魔は頭を下げる黒江の肩に手を置いた。
そこでやっと、黒江が顔を上げる。
「……そうなんですか?」
もう一度こくりと頷いた風魔を見つめながら、黒江は素朴な疑問を口にした。
「ふうまさんって、かなりお強い方だったりします?」
「(……)」
唐突に問われたのは己の素性に絡むもの。
故に、風魔はそれには応えない。
代わりに答えたのは、苦笑を浮かべた彼の老爺。
「そりゃあもう、強いぞい! なにせ風魔は我が北じょ……」
「幇助?」
うん、助ける人なのは分かる。
「……いや。儂が知る限りでは最高のしのっ……」
「しの?」
ふうまさんの名前か? それとも役職か?
「……し……死をも恐れぬ、忠義の……あー……、護衛、ぢゃ」
「護衛さん」
「う、うむ」
老爺が、ところどころ言葉を飲み込んだり言い直したのが気になったが、敢えて知らぬふりをした。
好奇心は猫を殺す。比喩ではなく、選択を誤れば死に直結しかねないのがこの時代の恐ろしいところだ。
お互いに素性を碌に語ってもいないのに助けてくれた、優しい人たち。
たとえ疑う要素があっても、多分、些細なことだ。
それに、特有の気配や感覚は、この面を付けている時ならばある程度を察知できる。
事実、天井裏にいた手練れらしい風魔の気配をあっさり見つけたくらいだ。この面の効果はかなり強い──というか、かくれんぼだと絶対的勝者になれそうなほどの能力がある。
とはいえ、過信はすまい。
面の能力に対して、当の主の身体能力がどうにも見合っていないからだ。
ともかく一般人は一般人らしく。雑草のように慎ましく、ひっそりと。
(でもふうまさんの挙動が、護衛というには常人離れしている感があるんだよなあ……)
彼らの素性を聞いてみたい。知りたい。
けれど、詮索はすまいと決めている。
仮面の縁にそっと触れつつ溢れる好奇心をどうにか抑えた黒江は、側に立つ風魔を見上げて一言だけ述べた。
「ふうまさんって、本当に凄い方なんですね」
声がしみじみとしてしまったのは、風魔の料理の腕を思い出したせいだ。
きちんとした家事が出来る上、役に立たない男を嫌な顔一つせずに軽々運ぶその力強さ、頼もしさ。(しかしお姫様抱っこは勘弁してほしい)
勝手に繋いだ無遠慮な手を、振り払いもせずにそのままでいてくれた、優しいところもいい。
物言わぬ美丈夫。
これは惚れるなというほうが無理だろう。
ああ、いやいや、女ではなく男として……いや、人として、だ!
「はー……カッコいいよなあ……」
思わず零したのは小さな独り言。だが、隣に居た風魔の耳はそれを拾い上げる。
「(……)」
黒江の反応に、風魔は長い前髪の奥で目を瞬かせていた。
何をそう感心されたのか解らないが、悪い気分ではない。
この妙な男は、子供のように素直に感情を零してくれるから面白く……どうにも目が離せない。
風魔は知らず己の口元に小さな笑みを刻み、手を伸ばして黒江の頭を軽く撫でた。撫でたくなった。
「わっ……ふ、ふうまさん? え、私なにかしました?」
突然頭を撫でられた黒江は、あわあわと戸惑い、驚く。
その様子を老爺は微笑ましく眺めていたが、声を掛けたのは風魔が黒江の頭を何度か撫でた後に満足そうに頷き、手を止めてからだった。
「そろそろ夕食の支度が整っておる頃ぢゃな。隣に移動するかの、風魔、黒江」
※ ※ ※
一日三食が普通になったのは、いつ頃だったか。技術の発展、生活様式などなど。
この時代──戦国か江戸だろうか──についての知識を思い出しながら、黒江は教えてもらった湯殿へ続く廊下をのんびりと歩いていた。
「あー……」
その途中で黒江はふと立ち止まり、ちらりと背後を振り返る。
無人の廊下。他の宿泊客の声らしきものが聞こえてくるほかは、誰も居ない。
(ふうまさんも居ない、と。……よし。大丈夫だな)
背後を確認して小さく頷いた黒江は、部屋を出ようとする前にあった出来事を思い出す。
※ ※ ※
ひとしきり落ち着いた頃に、老爺に風呂に入ってくるよう勧められた。
着替えらしきものを渡されたが、黒江はもうそれを拒否したりはしなかった。厚意は素直に受け取っておくべきぢゃよ、と老爺にやんわり窘められてしまったからである。それと、黒江は謝りすぎぢゃ、とも。
そう言われては、もう断れまい。黒江はくすぐったそうに微笑むと、老爺の言葉に従って着替えを手に、部屋を出ようとした。
けれど、黒江の足は廊下を一歩踏んだところで止まる。
何故ならば、黒江の腕を掴んで引き止めるものがあったからだ。
「……ふうまさん?」
どうしました? と黒江が見上げれば、風魔がふるふると首を振った。
これは「行くな」ということだろうか。
「お風呂から上がったら、ちゃんと戻ってきます……けど?」
逃亡するとでも思われているのか。
眉を下げて答える黒江に、風魔がまた首を横に振る──『違う』と。
(違うんだったら、なんで引き止めるかな)
黒江が首を傾げていれば、風魔が口をパクパクと動かした。
あ、ぶ、な、い。
「え。あ……」
子供に文字を教えるような丁寧さ。前髪の隙間から覗く双眸が射抜くように黒江を見つめ、無言の唇がゆっくりと形を変える。
そのお陰か、黒江にもおおまかに読むことが出来た。
「──危ない!?」
風魔の言葉をなぞった黒江はぎょっとし、背後を振り返って老爺に尋ねる。
「ここのお風呂って、普通ですよね?」
そんなことを口にした黒江に返されたのは、老爺の苦笑。
「風魔はお主が心配なのぢゃよ」
「……流石に、溺れたりはしませんよ? 子供じゃあるまいし」
今更こういうのもあれではあるが、黒江はれっきとした成人男性だ。
此処に来てから彼らには情けない姿しか見られていないが、それらは全てタイミングが悪いだけ。
食事と呼べるかどうかの料理しか作れなかったり、二時間ほど歩いただけですっかり足が上がらなくなったので結局おぶってもらったりしたが、それもこれも、不運が重なっただけ。
とにかく、たまたまなのだ。
これでも普通に生活できるだけの知恵と手段は持ち合わせている……筈なのだが、どうも彼らと出会ってからいまいちだ。甘えが出ているのかもしれない。
だから、爺様はともかくとして、風魔にまで子供扱いされると微妙な気分になってくる。
大人としても、男としても。手を繋いで往来を走っていたことを考えると、余計に恥ずかしい。
(ふうまさんがいないとダメっ子だとでも思われてたら切ないぞ、これは)
なにせ恋人繋ぎだ。元々は初対面の、しかもそこまで親しくない他人に対してすることではない。
(ふうまさんが優しいのが救いだな……私が女だったらまだ──いや、同じだな。他人からの手繋ぎはダメだろう)
自身の行動を悩んでいたが、このまま考え込むと泥沼になりそうだった。
よし、ここはお風呂に入ってさっぱり流してこよう!
黒江は風魔に掴まれた手を一瞥すると、息を吸い込んで言った。
「とにかく、あの、すぐに入ってすぐに戻ってくるんで大丈夫です! あと、逃げませんから! それから、ふうまさんは今度こそ爺様の側に居ないと駄目ですよね!?」
そう一気に捲し立てると、呆気にとられた風魔の手をどうにか外し、急いで部屋を後にした。
「付いてきちゃダメですからねー!」
「(……)」
廊下の向こうに消える黒江を、無言で見つめる風魔。
伸ばした手は虚空に留まり、握りしめられることもなく、緩やかに下ろされる。
その背後から、老爺が声を掛けた。
「本人の言う通り、どうやら黒江も子供ではないようぢゃし、一人にさせても問題あるまい」
それとも、別に気になることがあるのかの、風魔?
問われた風魔は静かに頷いて口元を引き結ぶと、黒江の消えた廊下の向こう、宿を包む夜の帳へと目を向ける。
宿の軒先、揺れる灯火の影に、不自然な「無」があった。
伝説の忍と謳われ、数多の命を刈り取ってきたその双眸は、闇に溶け込んだ異物の殺気を、決して見逃さない。
黒江には見せず、主君にも悟らせぬ。風魔の瞳に、絶対的な死を宣告する無機質な冷徹さが宿った。
***
恋人繋ぎの状態だと走りづらくなかった? という話。
まあ相手は伝説の忍だから、その程度は問題にもならないという補助で。