アスファルトがパキパキと小気味よい音を立てて砕けていく。
三月の観布子市。春を呼ぶ風はまだ刺すように冷たいが、銀髪の少女、マリア・クェストラにとっては、世界はいつだって春の陽だまりの中にあった。
「わあ、見て見て青いお姉さん! 街路樹に綿菓子がなってるわ!」
マリアが指差した先にあるのは、立ち枯れた冬の木々だ。
しかし、彼女の燃えるような赤色の瞳には、それらはピンク色のふわふわしたお菓子として映っている。
彼女の背後では、引きずられた超重量の質量兵器――『マジカルステッキ・リリアス』が、重力法則をあざ笑うように地面を抉っていた。
「…マリア。あれはただの枯れ木。アンタが勝手にテクスチャを書き換える前に、さっさと歩きなさい」
蒼崎青子は深いため息をつき、一歩ごとに「現実」から「メルヘン」へと変質しようとする世界のツケを、第五魔法の片鱗で強引に踏み倒しながら歩いていた。
二人が辿り着いたのは、建設途中で放棄された不気味な廃ビル――『伽藍の堂』だった。
ビルの三階、事務所を改装した工房には、紫煙がくゆっていた。
ソファに深く腰掛け、眼鏡の奥で冷徹な光を湛えた女――蒼崎橙子が、闖入者たちを値踏みするように見やる。
「…珍しいわね。魔法使い様が、わざわざ私の工房にまで死神を連れてくるとは」
橙子の視線は、マリアではなく、彼女が持つ『リリアス』に向けられていた。
29代もの間、一族の妄執を詰め込み続けたそのタングステンの塊は、マリアの主観では「星とリボンのステッキ」に変換されているが、魔術師である橙子の目には、概念を押し潰す「呪いの柱」にしか見えなかった。
「皮肉はいいわよ。こいつ、マリアをアンタに預けに来たの」
青子はマリアの背中をポンと叩く。
マリアは屈託のない笑顔で、初対面の魔術師に挨拶した。
「はじめまして、オレンジ色のお姉さん! 私、マリア。お姉さんの眼鏡、とっても美味しそうなキャラメル色ね!」
「…クェストラの娘か。29代目の継承儀式で、自らの手で父親を『お空の星』にしたと聞いたけれど」
「うん! お父様なら、あそこで光ってるわ」
マリアは窓の外、昼間の空を指差した。
1000回もの臨死体験。死という絶対的な境界を、父親の手によって1000回跨がされた少女。
その苦痛の果てに、彼女の精神は世界を「ファンシー」という強固なフィルターで塗り潰した。
彼女にとって、殺意は歌声であり、返り血は舞い散る花びらだ。
橙子はタバコを灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がった。
「痛みも、恐怖も、現実さえも感じない。…108本の魔術回路をすべて、その『奇跡』という名の固定に使っているわけだ。青子、よくこれだけ壊れたものを拾ってきたわね」
「放っておけば、この子、無自覚に世界をパステルカラーの地獄に変えちゃうもの。私の『青』でも、この子の根源的な壊れ方までは巻き戻せなかったわ」
青子はそう言うと、持っていた大きな鞄を床に置いた。旅支度の音だった。
「じゃあね、橙子。あとはよろしく。私はもう行くわ」
「…相変わらずのろくでなしね。預かり賃はどうするつもり?」
「こいつが街の執行者や代行者を『星』にするたびに、私が事象の隠蔽に走り回った労働力と相殺してよ。…マリア、いい? 橙子の言うことをよく聞くこと。あと、リリアスを振り回すのは、どうしても『お星様』にしたい敵がいる時だけよ」
マリアは首を傾げた。
「ええー、青いお姉さん、もう行っちゃうの? つまらないわ」
「つまらなくて結構。アンタの相手は、そこに転がってる偏屈な人形師に任せるわ。…ああ、それから」
青子はドアに手をかけ、最後に一度だけマリアを振り返った。
「観布子市立病院に、一人、眠り続けている女の子がいる。…マリア。もしアンタがその子に出会ったら、リリアスは使わないで。…それは、アンタが初めて見る『本当の塗り絵』になるはずだから」
魔法使いは、嵐のように去っていった。
静まり返った工房で、マリアは『リリアス』を抱きしめたまま、新しく「家族」になったオレンジ色の魔術師を見つめる。
「ねえ、お姉さん。お見舞いって、何をすればいいの? 病院を全部、キャンディに変えちゃえばいいかな?」
「…勘弁して。この街には、まだ君よりずっと質の悪い『現実』を抱えた連中が揃っているんだから」
橙子は頭を抱え、冷えたコーヒーを一口啜った。
1998年、春。
観布子市に、死を視る少女が目覚めるまで、あと一ヶ月。
パステルカラーの死神――マリア・クェストラの、痛みを知らない日常が幕を開けた。
「伽藍の堂」での生活が始まって数日。
マリアにとって、橙子の工房は「不思議な仕掛けがいっぱいの、ちょっと埃っぽいおもちゃ箱」だった。
そんなある日の午後、その男は現れた。
「こんにちは。蒼崎さん、いらっしゃいますか?」
柔らかな、けれど凛とした声。
マリアが振り返ると、そこには黒い髪に眼鏡をかけた、あまりにも「普通」な青年が立っていた。
黒桐幹也。魔術師でも、執行者でも、ましてや彼女を殺そうとする刺客でもない。
ただの、どこにでもいるはずの大学生。
マリアの瞳が、パチパチと瞬く。
1000回の死の果てに固定された彼女の視界において、他者は皆「記号」だった。
自分を壊す「嵐」か、自分が作り変える「素材」か。
だが、目の前の男は違った。
「…あ、新しく入った子かな? 初めまして。僕は黒桐幹也。蒼崎さんの手伝いをしてるんだ」
幹也は、マリアの足元に転がる「鉄塊(リリアス)」にも、彼女が放つ「奇跡」の余波にも気づかないふりをして――あるいは本当に気づかずに、ただ穏やかに微笑んだ。
マリアの視界が、揺れる。
彼女の実年齢は、クェストラ家で過ごした空白の時間を合わせれば、すでに二十歳をいくつか越えている。
けれど、度重なる臨死体験と魔術的処置により、その肉体と精神は十四歳の少女のまま「固定」されていた。
「…お兄さん?」
マリアの口から、無意識にその言葉が零れた。
彼女にとって「お父様」は、自分を殺し続ける存在だった。
「青いお姉さん」は、自分を叱り飛ばす存在だった。
けれど、この男から漂う空気は、彼女が1000回夢見た「暖かい陽だまり」の匂いがした。
「えっ? お兄さん…ああ、そうだね。君くらいの年齢なら、そう呼んでもらえた方が嬉しいかな。…マリアちゃん、って呼んでもいい?」
「うん! お兄さん、いいよ! お兄さん、お兄さん!」
マリアは『リリアス』を放り出し(床が激しく鳴ったが、彼女は気にしなかった)、幹也の裾を掴んだ。
彼女の特性である『奇跡』が、幹也の輪郭を縁取っていく。
マリアの視界で、幹也は「優しそうな、甘い香りのするジンジャーマンクッキー」へと書き換えられていく。
けれど、その奥にある「温かさ」だけは、テクスチャを上書きしてもなお、消えずに残っていた。
「ねえ、お兄さん。私、お腹が空いちゃった。キャンディ、持ってる?」
「あはは、キャンディか。ごめんね、今は持ってないんだ。でも、帰りに何か買ってこようか? 蒼崎さんにお願いされた資料を届けたらね」
幹也はそう言って、マリアの銀色の髪を、子供をあやすように優しく撫でた。
「…っ」
痛みを知らないはずのマリアの胸の奥が、ちくりと跳ねた。
それは橙子が行うどんな術式よりも、青子が放つどんな魔法よりも鋭く、マリアの「固定された世界」に亀裂を入れる。
「お兄さん、好き。リリアスでお星様にしちゃいたいくらい、お兄さんのこと、好きになっちゃった!」
「それは…あはは、光栄だけど、お手柔らかにお願いするよ」
幹也は困ったように笑い、彼女が口にした「殺意(お星様)」を、ただの「子供の冗談」として受け流した。
マリアにとって、初めての敗北。
自分の「奇跡」が、相手を恐怖させない。
自分の「狂気」が、相手を遠ざけない。
奥の部屋からそれを見ていた橙子が、眼鏡を指で押し上げながら、深いため息をついた。
「…やれやれ。29代の呪いも、あの男の『普通』には敵わないというわけか。…黒桐くん、悪いけれどその子の『お守り』も、君の業務内容に追加しておこうかしら」
こうして、十四歳の心を持つ銀髪の死神は、観布子市の片隅で「お兄さん」という名の、あまりにも脆くて強固な現実を見つけたのである。
「伽藍の堂」の日常は、端的に言って地獄のパッチワークだった。
魔術師としての矜持を重んじ、静謐と秩序を好む蒼崎橙子にとって、マリア・クェストラという存在は、歩く「物理法則のバグ」に他ならない。
「マリア。三度目よ。そのリリアスを今すぐ『ステッキ』と認識するのをやめなさい。床が抜けると言っているでしょう」
橙子が書類から目を上げずに冷たく言い放つ。
その足元、本来はコンクリートの打ちっぱなしであったはずの床は、マリアが歩いた軌跡に沿って、色鮮やかなストロベリー・ゼリーへと変質していた。
タングステンの超質量を支えきれるはずもなく、ビルの構造材が悲鳴を上げている。
「ええー。だって橙子お姉さん、この床、冷たくて可愛くないんだもん。ぷるぷるしてる方が、足の裏が喜ぶわ!」
銀髪を揺らし、十四歳の無邪気さで笑うマリア。
彼女にとって、この廃ビルは「お菓子の城」の修復作業中であり、橙子は「気難しいけれど、時々魔法で美味しいお茶(マリア視点では虹色の液体)を淹れてくれる魔法使い」だった。
橙子はこめかみを押さえ、卓上の眼鏡をかけ直す。
彼女がマリアに課した「修行」は、魔術の研鑽ではない。むしろその逆。「世界を正しく、退屈に、醜く認識すること」――すなわち、現実復帰のリハビリだ。
「マリア、今日の課題よ。これを持ってきて」
橙子が指し示したのは、実験用の古びた鉄製のフラスコだった。
マリアが近寄り、小さな指でそれに触れる。
「わあ、冷たい…。これ、大きな銀色のドロップね!」
「…いいえ、それは鉄よ。錆びていて、不衛生で、重くて、何の味もしないただの無機物。マリア、その特性(奇跡)を止めて、ありのままの鉄として持ち上げなさい」
マリアは頬を膨らませた。
彼女の108本の魔術回路が、無意識に「世界」へ干渉する。彼女にとって、鉄が鉄であることは「死」という冷酷な現実に繋がっている。だから、彼女の魂はそれを拒絶し、ドロップに変え、リボンをかけ、塗りつぶす。
「むー…。えいっ!」
マリアが力を込める。
瞬間、フラスコは虹色に発光し、硬質な金属音を捨てて、柔らかなグミのような質感へと固定された。
それはもう、二度と元の鉄には戻らない。世界の一部が、永遠にマリアの「ファンシー」に奪われた瞬間だった。
「…失敗ね。また世界の寿命を数秒削ったわよ、君は」
橙子はため息をつきながら、手元の手帳に『無機物の永続的変質:238件目』と書き加えた。
この少女は、29代分の妄執を背負いながら、その中身は空っぽだ。
1000回の臨死体験が、彼女から「痛み」と「現実」という重石をすべて奪い去ってしまった。
その時、階段を上がってくる足音が響いた。
マリアの耳が、ぴょこんと跳ねる。
「あ、お兄さんだ! ジンジャーマンの匂いがする!」
「…救いなのは、あの男が来るときだけ、君のテクスチャの侵食が止まることね。全く、根源への到達よりも、一人の青年の『普通』の方が強いとは、魔術師も廃業したくなるわ」
ドアが開き、黒桐幹也が顔を出した。
彼は部屋の惨状――ゼリー状の床や、カラフルに変貌した実験器具――を見ても、ただ「おや、今日も賑やかだね」と困ったように笑うだけだった。
「マリアちゃん、こんにちは。今日は君が好きそうな、イチゴのショートケーキを買ってきたよ。本物の、食べられるやつ」
「お兄さん! 大好き!」
マリアがリリアスを放り投げ、幹也に飛びつく。
放り出された数トンの鉄塊が、ゼリーの床に深く沈み込み、ビル全体を激しく揺らした。
「…黒桐くん。君への給料に『命の保証』という項目を追加しておくわ。…さあマリア、ケーキを食べる前に、その床を『硬いコンクリート』だと三千回唱えなさい。できないなら、イチゴは私が没収する」
橙子の冷徹な声と、幹也の穏やかな笑い声、そしてマリアの不満げな「ぶー!」という声。
「伽藍の堂」の奇妙な生活は、歪なテクスチャを重ねながら、刻一刻と、病院で眠る「死」の少女の目覚めへと近づいていく。
「お兄さん、見て! あの信号機、大きな三色のドロップみたい!」
春の陽射しが降り注ぐ歩行者天国。
マリアは銀髪をなびかせ、幹也の腕に抱きつくようにして歩いていた。
彼女の右手には、リボンと星でデコレーションされた(マリア主観で)漆黒のタングステン塊――『マジカルステッキ・リリアス』が握られている。
「はは、確かに美味しそうだね。でも、マリアちゃん、あのアスファルトは食べられないよ。…それに、そのステッキ、今日は一段と重そうだ。僕が持とうか?」
幹也が何気なく手を差し伸べる。
マリアは一瞬、目を丸くして、それから悪戯っぽく笑った。
「だーめ。リリアスはね、お兄さんにはまだ早いんだから。これ、とっても『想い』が詰まってるのよ?」
二十歳を過ぎた実年齢を隠し、十四歳の少女として振る舞うマリア。
彼女にとって、幹也のその「無自覚な優しさ」こそが、29代分の呪いよりも重く、温かい。
マリアが歩くたび、彼女の足元のアスファルトがわずかに虹色に変色し、綿菓子のような質感に書き換えられそうになる。
だが、幹也が「おっと、足元に気をつけて」と彼女の肩を支えるたびに、その変質はピタリと止まり、硬い現実に引き戻されるのだった。
喫茶店・アーネンエルベにて二人は、街外れの静かな喫茶店に腰を下ろした。
「はい、お待たせ。イチゴのパフェだよ」
幹也が差し出したのは、溢れんばかりの生クリームと真っ赤なイチゴが載ったグラス。
マリアはそれを見て、うっとりと頬を染めた。
「わあ…本物の、塗り絵じゃないイチゴだわ。お兄さん、あーんして?」
「えっ? …あ、ああ、うん。はい、あーん」
幹也が少し照れながらスプーンを運ぶ。
マリアがそれを口に含んだ瞬間、彼女の脳内に走ったのは、魔術回路の熱ではなく、「甘い」という純粋な味覚だった。
1000回の臨死体験。
彼女の父親は、彼女に「奇跡」を定着させるため、味覚も、痛覚も、すべてを魔術的な記号へと置き換えた。
彼女にとって食事とは、欠落した魔力を補給するための儀式に過ぎなかったはずだ。
けれど、幹也の隣で食べるパフェは、彼女の壊れた神経系を飛び越えて、直接「心」に染み渡っていく。
「…おいしい。お兄さん、これ、とっても『生きてる』味がするわ」
「そうかな? 喜んでもらえてよかった。…マリアちゃんは、時々、すごく遠くを見るような目をするね。何か、困っていることがあるなら相談に乗るよ?」
幹也の透き通った瞳がマリアを見つめる。
マリアは、自分の右手に触れた。
108本の魔術回路。
その一本一本が、もしこの男を「永久固定」してしまえば、永遠に自分のものにできると囁いている。
けれど。
「ううん。お兄さんといるとね、リリアスが怒るの。…『今は暴れちゃダメだよ』って」
マリアは幸せそうに笑い、パフェのイチゴを頬張った。
彼女の視界の中で、幹也だけはテクスチャの上書きを受けない。
彼は「ジンジャーマン」ではなく、ただの「黒桐幹也」として、そこにある。
それは、魔法使いさえも成し得なかった、マリアの『奇跡』に対する唯一の勝利だった。
その帰り道
夕暮れ時。影が長く伸びる路地裏。
マリアは幹也の服の裾をぎゅっと掴んで歩いていた。
「ねえ、お兄さん。明日も、明後日も、私と一緒に歩いてくれる?」
「もちろん。僕でよければ、いつでも」
幹也の言葉に、マリアは満足げに頷く。
だが、その時。
マリアの鼻腔を、パステルカラーの甘い香りとは正反対の、**「鉄と、無機質な静寂」**の匂いがかすめた。
観布子市立病院の方角。
そこでは、もう一人の「欠落した少女」――両儀式が、死の淵から目覚めようとしていた。
「…お兄さん、あっちに、とっても『真っ白な塗り絵』があるわ。…私、お見舞いに行かなきゃ。あの子に、私の色を分けてあげなきゃいけない気がするの」
「お見舞い? …ああ、式のところだね。そうだね、今度一緒に行こう」
幹也は微笑むが、マリアの瞳は、すでに戦士の、あるいは魔術師のそれに変わっていた。
彼女の『奇跡』が、リリアスの芯部で熱を帯びる。
「…ふふ。お兄さんの大事なお友達なら、なおさら。私の最高にファンシーな『お星様(死)』を見せてあげなくちゃ」
幸福なデートの終わり。
それは、観布子市を揺るがす「奇跡」と「虚無」の激突の幕開けでした。