観布子市立病院の夜は、死の匂いさえも消毒液で塗りつぶしたような、無機質な静寂に包まれていた。
その静寂を、マリア・クェストラは「暴力的な色」で踏み荒らしていく。
「お兄さんの大事な塗り絵さん、どこかしら? 四階かな、五階かな?」
マリアの視界では、白い廊下は「バニラ味のウェハース」でできた迷宮だ。
彼女が弾むように歩くたび、その足音に合わせて周囲の壁がパステルピンクの壁紙へと書き換えられ、無骨な防火扉が巨大な板チョコへと変質していく。
彼女の右手には、愛杖『マジカルステッキ・リリアス』。
マリアが「お見舞いのノック」としてその先端で壁を小突くと、鉄筋コンクリートの壁は瞬時にキャンディ細工のように脆くなり、数トンの慣性質量に耐えきれず粉々に砕け散った。
「見ーつけた。真っ白で、空っぽの、可愛そうな女の子」
粉塵の向こう。
特別病室のベッドの上で、その少女――両儀式は、二年の眠りから解き放たれたばかりの瞳を見開いていた。
両儀式の視界に最初に映ったのは、色という色が飽和した、壊れた万華鏡のような光景だった。
そして、その中心に立つ、銀髪赤目の少女。
「…あ?」
式の声は掠れていた。だが、その瞳――『直死の魔眼』は、目覚めた瞬間の混乱の中でも、獲物を逃さない。
世界に走る黒い死の線。
あらゆる存在の「終着点」が見えるはずの式の視界において、目の前の少女は異様だった。
マリアの全身は、まるで厚塗りの油絵のように、何重もの「奇跡」という名の色彩で塗りつぶされている。
死の線が見えない。
一本も、どこにも、彼女を「終わらせる」ための亀裂が存在しないのだ。
「はじめまして、塗り絵のお姉さん。私はマリア! お兄さんの隣にいたいなら、私と同じくらい『可愛く』ならなくちゃダメだよ?」
マリアがリリアスを軽々と振り上げる。
その動作は十四歳の少女そのものの無邪気さだが、叩きつけられるのは二十九代の呪いとタングステンの狂気だ。
「…五月蝿い。死に損ないの、化け物が」
式がベッドサイドのメスを掴み、飛び起きた。
目覚めたばかりの身体とは思えない鋭い踏み込み。
式の放つ一閃は、マリアの喉元にあるはずの「線」を正確に捉える。
――だが、手応えがない。
メスがマリアの肌に触れる寸前、その金属はマリアの『奇跡』に侵食され、ふにゃふにゃの「グミ」へと書き換えられていた。
「いたくないよ? だってこれ、とっても甘いんだもん!」
「…っ、こいつ!」
式は直感する。
この少女に「常識」は通じない。
物理法則さえも、彼女の「主観」という名のテクスチャに屈服している。
振り下ろされたリリアスが床を叩き、衝撃波が病室の窓ガラスをすべて「シュガーガラス」に変えながら粉砕した。
「ほらほら、踊ろうよ! お兄さんが来る前に、お姉さんをお星様にしてあげなきゃ!」
「…寝起きの挨拶にしちゃあ、上等すぎるな。…いいぜ、そのふざけた塗り絵、全部剥いでやる」
虚無を抱えた『死』の瞳と、過剰を押し付ける『奇跡』の瞳が、至近距離で火花を散らす。
一方は万物の死を視、一方は万物の生を固定する。
矛盾した二人の少女の激突は、病院の壁を次々とマシュマロの瓦礫に変えながら、夜の観布子市へと溢れ出そうとしていた。
二人の少女が交錯するたび、病院の廊下は現実の物理法則を捨てていく。
式の振るうメスが空を裂き、マリアの放つリリアスが衝撃を撒き散らす。
そのたびに、コンクリートは色鮮やかなお菓子に変わり、砕けた破片は金平糖となって宙を舞う。
「あはは! もっと、もっと綺麗になーれ!」
マリアがリリアスを上段に構える。
108本の魔術回路が唸りを上げ、病室全体を永遠の「メルヘン」へと固定しようとしたその瞬間。
「二人とも、やめるんだ!」
場違いなほど穏やかで、けれど必死な声が響いた。
マリアの視界の端に、ゼリー状に波打つ廊下を、足をもつれさせながら走ってくる人影が映る。
「…お兄さん?」
マリアの動きが止まる。
一方、式もまた、その声を聞いた瞬間にナイフを止めた。
だが、慣性は殺せない。
式のナイフが、そしてマリアから放たれようとした『奇跡』の余波が、無防備に割り込んできた黒桐幹也へと向かう。
「危ない…っ!」
式が叫ぶ。
だが、それよりも早く、幹也はマリアの腕を、そしてリリアスの冷たい柄を、その両手で包み込むように掴んでいた。
「…っあ」
マリアの喉から、声にならない吐息が漏れた。
幹也の肌が触れた瞬間。
マリアの全身に張り巡らされていた108本の魔術回路が、まるでお湯をかけられた雪のように、急速に熱を失い、静まり返っていく。
彼女の視界を覆っていたパステルカラーの極彩色が、潮が引くように退いていく。
ピンク色の雲に見えていた粉塵は、ただの汚れたコンクリートの塵に。
お菓子の城に見えていた廊下は、無機質で、血の匂いが混じった病院の惨状に。
「…あ、あ…」
マリアの手から力が抜けた。
数トンの質量を持つはずのリリアスが、幹也の手の中で、ただの「重くて冷たい鉄の塊」へと戻っていく。
幹也はそのまま、震えるマリアを優しく抱きしめた。
「大丈夫だよ、マリアちゃん。もう、何もしなくていいんだ。…式も、ごめん。驚かせちゃったね」
「…黒桐。あんた、本当にバカじゃないの」
式は毒気を抜かれたようにメスを投げ捨てた。
幹也という男が持つ、異常なまでの「普通」。
それは、世界を書き換える『奇跡』さえも、ただの「女の子の我儘」へと変質させてしまう、ある種の魔法だった。
マリアは、幹也の胸に顔を埋めながら、初めて恐怖を感じていた。
フィルターの消えた世界は、暗くて、寒くて、恐ろしい。
けれど、自分を抱きしめる幹也の腕だけが、確かな「現実」の暖かさを持ってそこにあった。
「…お兄さん。こわいよ。世界が、こんなに真っ暗だなんて、知らなかった」
「大丈夫。暗いなら、僕が一緒に歩くよ。…だから、もう塗り絵はしなくていいんだ」
マリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは彼女が「奇跡の継承者」としてではなく、一人の「マリア」として流した、初めての温かい涙だった。
その様子を、物陰から見ていた橙子が、小さく溜息をついてタバコに火を点ける。
「…やれやれ。私の魔術調整よりも、一回の抱擁か。…これじゃ、魔術師なんてやってられないわね」
観布子市の夜は、再び静寂を取り戻しつつあった。
痛みを知らない少女が、初めて「心の痛み」と「世界の温度」を知った、春の嵐の夜だった。
「伽藍の堂」の主が、野暮な用事で数日ほど工房を空けていた時のこと。
観布子市の冬を、さらに凍てつかせるような鮮烈な風を連れて、その女は現れた。
「…あら。あいつ、意外と真面目に面倒見てるじゃない」
施錠されていたはずの重い鉄扉を、まるで自分の家のドアのように軽々とこじ開けて入ってきたのは、蒼崎青子だった。
久しぶりに見るその姿は、相変わらず奔放で、世界そのものと喧嘩でもしているかのような、圧倒的な存在感を放っている。
「――青い、お姉さん?」
ソファで『リリアス』を抱えながら、幹也の買ってきた絵本を眺めていたマリアが、弾かれたように顔を上げた。
彼女の視界の中で、青子の周囲だけが「青い燐光」に縁取られ、テクスチャの書き換えを拒絶している。
マリアにとって、青子は世界で唯一、自分の「ファンシー」が一切通用しない、絶対的な「現実」の象徴だった。
「ひさしぶりね、マリア。橙子の毒に当てられて、中身まで人形になってないでしょうね?」
青子はドカッとマリアの隣に座ると、テーブルに置かれていた幹也の食べかけのドーナツを勝手に一口齧った。
「お姉さん! どこに行ってたの? 私ね、いま、お兄さんっていうジンジャーマンのお友達ができたんだよ!」
「ジンジャーマン? …ああ、あの眼鏡の彼ね。橙子の手紙に書いてあったわ。魔術師でもないのに、あんたの狂気を『普通』で押し流しちゃうっていう、とんでもないお人好し」
青子はマリアの銀髪を、少しだけ手荒に、けれどどこか懐かしそうにかき回した。
彼女の指先が、マリアの108本の魔術回路に触れる。
青子の『魔法』の残滓が、マリアの体内で暴走しかけている「奇跡」の種を、一時的に鎮めていく。
「マリア。あんた、最近『痛み』を感じるようになった?」
「…ううん。まだ、お姉さんに叱られた時みたいに、胸がちょっとチクッてするだけ」
マリアは首を振った。
青子の瞳が、一瞬だけ鋭くなる。
彼女には見えていた。マリアの周囲に漂う空気が、かつての無邪気な狂気から、少しずつ「湿り気」を帯び始めていることを。
この街に満ち始めている、歪んだ殺意の予感を。
「そう。…いい、マリア。これから、あんたは嫌でも『本当の痛み』を知ることになるわ」
青子は立ち上がり、窓の外を見据えた。
そこには、重苦しい雨雲が立ち込め始めている。
「それはね、あんたが持ってる『塗り絵』を全部、真っ黒に塗りつぶすようなひどい感覚よ。でも、そこでまた目を閉じちゃダメ。…あんたをこの街に置いていったのは、橙子に預けたのは、あんたが『人間』として壊れるためなんだから」
青子はマリアの『リリアス』を指先で弾いた。
タングステンの塊が、澄んだ音を立てる。
「…あんたが本当に泣いた時、私が飛んできて助けてあげたいけど。あいにく、私はこれから世界の裏側まで行かなきゃならないの。…代わりに、あのアパートに住んでる不器用な『死神』に、ちょっかいを出しておいたわよ」
「死神さん? …塗り絵のお姉さんのこと?」
「ええ。あの子は冷たいけど、あんたが自分の血で世界を描き始める時、隣にいてくれるはずよ」
青子はそれだけ言うと、まだ半分残っていたドーナツを口に放り込み、風のように出口へ向かった。
「じゃあね、マリア。次、会う時は…あんたの瞳に、本物の虹が映っていることを期待してるわ」
「待って、お姉さん! 私、まだお土産話…!」
マリアの言葉を待たず、青子は消えた。
あとに残されたのは、わずかな青い残り香と、それまで感じたことのない「微かな寒さ」だった。
マリアは、自分の左腕をそっとさすった。
まだ痛みはない。けれど、青子が去った後の部屋は、いつもより少しだけ、冷たく、静かになっていた。
――この数日後。
九十九里大橋で、マリアは青子の予言通り、本当の「痛み」と出会うことになる。