「ねえ、お父様。そんなに怖い顔をしないで? 今からとっても素敵なことを教えてあげるわ」
マリアは、銀髪を揺らしながら楽しそうに微笑んだ。
彼女の手の中にある『リリアス』が、彼女の興奮に呼応してパステルカラーの燐光を放つ。その周囲では、クェストラ家が積み上げてきた一〇八本の魔術回路が、世界を定義し直すために、不気味なまでに静謐な唸りを上げていた。
「私ね、わかっちゃったの。私の中には、一〇〇〇回分の『死』が詰まっているんでしょう? でも、それはお父様が言っていたような『呪い』なんかじゃないわ。それは、世界を私の一番好きな形に塗り替えるための、真っ白なキャンバスなのよ」
マリアはステップを踏むように、父親の周りを回った。
彼女が一歩踏み出すたびに、屋敷の床はタイルから「色とりどりのドロップ」へと姿を変えていく。
「見て、お父様。私のって、すごいのよ! 私が『こうだ』って決めたら、世界はそれを拒めないの。だって、私は一〇〇〇回も世界に拒絶されて、それでもここに『固定(フリーズ)』されている存在なんだもの。私の意志は、物理法則よりもずっと重くて、ずっと硬いのよ」
父親――クェストラ家の当代当主は、自らが作り上げた「最高傑作」の正気ならざる言葉に、ただ絶望して言葉を失っていた。
「…マリア、お前、何を…」
「お父様は、いつも『神秘の到達』だなんて難しいことばかり言っていたけれど。そんなの、とっても退屈だわ。もっと簡単で、もっと綺麗な解決法があるのよ」
マリアは父親の胸に、そっとリリアスの先端を触れさせた。
「お父様、あなたはもう十分頑張ったわ。だから、もう魔術師なんてやめて、私を照らす『お空の星』になってちょうだい」
「やめろ…マリア、やめなさいッ!」
父親の絶叫。
だが、マリアの瞳に宿る『奇跡』が、その叫びを「可愛らしい小鳥のさえずり」へと書き換えた。
「あはは、いい声! じゃあ、固定するわね」
マリアが魔力を込めると、父親の肉体が内側から淡いピンク色の光を放ち始めた。
細胞の一つ一つが、タンパク質の鎖を解かれ、事象としての密度を失っていく。
骨は砂糖細工に、血は甘いシロップに、そしてその魂は、概念としての「光の粒子」へと昇華されていく。
「ふふ、見て! お父様、とっても綺麗よ! ほら、だんだん空に昇っていくわ。これで、あなたは永遠に、私だけの『お星様』なの。もう私を痛くしたり、暗い地下室に閉じ込めたりしないで、ずっと上から私を見ていてね」
屋敷の天井を突き抜け、一条の極彩色の光が夜空へと駆け上がっていった。
クェストラ家の当主は、娘の「楽しそうな独り言」の供物として、この世から物理的な形を失い、マリアの空想を彩るただのデコレーションへと変質した。
「…あーあ、行っちゃった。でも、これで世界はもっと私に優しくなるわね」
マリアは独り、お菓子の床に座り込み、天井の穴から見える星空を眺めていた。
一〇八本の回路が満足げに脈動し、彼女の周囲には、幸せなバニラの香りが漂っていた。
数日後、クェストラ家跡地にて。
「…化け物め、何をしたッ! 私の魔術基盤が、溶けて――」
一人の執行者が絶叫する。
彼が放とうとした雷撃のルーンは、マリアの視線が触れた瞬間に「黄色いリボン」へと変質し、無害な布となって地面に落ちた。
彼の足元では、かつて同僚だった男たちが、物理法則を無視して「ジンジャーマン」や「等身大のキャンディ」に固定(フリーズ)され、物言わぬオブジェと化している。
その惨状の中心に、マリア・クェストラは立っていた。
彼女の手にある『リリアス』が振るわれるたび、空気は甘い香りに満ち、周囲の空間はパステルカラーの極彩色に塗り潰されていく。
「あはは! 綺麗、みんな綺麗なお星様になーれ!」
少女の無邪気な笑い声に合わせて、数十人の精鋭たちが次々と「装飾品」へと書き換えられていく。
そこには戦いも、魔術の攻防も存在しない。ただ、圧倒的な「空想」による現実の蹂躙があるだけだった。
地面に転がる色鮮やかな「何か」は、かつて人間だったものの成れの果てだ。
一〇〇〇回の死の苦痛を拒絶するために、マリアは周囲のすべてを「苦痛のないおもちゃ」に定義し直す。
それは、魔術師協会が長年恐れてきた、世界を永続的に上書きする『奇跡』の暴走だった。
死体の山――あるいは、お菓子の山が出来上がった頃。
屋敷の門を、一人の女が蹴り破った。
「…あーあ。聞いてた以上に最悪の現場ね。甘ったるくて吐き気がするわ」
蒼崎青子は、原色そのままの炎が燃え盛る中、平然と「お菓子の地獄」へと踏み込んだ。
彼女が歩くたび、マリアが展開していたパステルカラーの領域が、まるでガラスが砕けるような音を立てて瓦解していく。
「…だれ? 私のキャンディを壊しに来たの?」
マリアが振り返る。その瞳には、一〇八本の魔術回路から溢れ出した狂気が宿っていた。
彼女はリリアスを青子に向けた。
瞬間、青子の足元の地面が「苺のムース」へと書き換えられ、その存在そのものを甘い虚無へ飲み込もうとする。
「いいえ。あんたのその悪趣味な『固定』を、力ずくで現実に戻しに来たのよ」
青子の拳に青い燐光が宿る。
マリアが放つ『奇跡』の奔流に対し、青子は「第五魔法」の残滓をもって真っ向から突き破った。
書き換えようとする力と、それを「なかったこと」にする時間。
青子は、かつて魔術師だった「ジンジャーマン」たちを避け、マリアの目の前まで辿り着くと、その華奢な肩を掴んで、地面に押し倒した。
「…ッ、はなして! いたい、いたいのは嫌なの! 壊さないと、私が死んじゃう!」
「死なないわよ。あんたは、これから嫌っていうほど生きるんだから」
青子は、泣き喚くマリアの額に自分の額を押し当てた。
青い燐光がマリアの全身を包み込み、暴走していた一〇八本の魔術回路を、物理的な熱量ごと強引に冷却していく。
「…だ、れ…?」
「あんたの『名前』を拾いに来た女よ。…名乗りなさい。あんたをただの『封印指定対象』として時計塔に渡すつもりはないわ」
火の粉が舞う中、マリアは自分を抑えつける青子の瞳を見た。
それは、お菓子でもリボンでもない、あまりにも鮮烈で、残酷なほどに美しい「人間の瞳」だった。
「…マリア。マリア・クェストラよ」
「そう。いい名前ね。…来なさい、マリア。あんたが作ったこのお菓子の家は、もう全部焼けてなくなったわ。…これからは、不味くて、苦くて、最高にカラフルな『現実』を見せてあげる」
青子はマリアを抱き上げ、死体(お菓子)の山を背に、夜の闇へと歩き出した。
それが、マリア・クェストラが「奇跡」の加害者から、一人の「居候」へと変わった、最初の夜の終わりだった。
--封印指定執行者のレポートより。
我々が現場に到着した際、そこにあったのは「破壊」ではなく「変質」であった。
屋敷の広大な敷地は、物理的な火災による損壊を上書きするように、正体不明の「事象固定(テクスチャ・フリーズ)」に浸食されている。
石造りの外壁はピンク色のマカロン状の物質に置換され、庭園の樹木は色とりどりのハードキャンディへと変質している。
さらに不可解なのは、それらの物質が数日経過しても腐敗も風化もせず、極めて高い魔術的純度を保ったまま「そこに在る」という事実だ。
これは一時的な幻惑ではない。世界のテクスチャそのものが、少女の主観によって恒久的に上書きされた結果である。
クェストラ家当主、および残存していた魔術師たちの遺体は一点も回収されなかった。
だが、広間の中央、天井が物理的に消失した直下において、我々は「極めて高濃度の魔力残渣」を観測した。
「当主はマリアの手によって『お空の星(概念的発光体)』へと昇華された」という推測は、非科学的だが魔術的には最も合理的だ。
床面には、当主の魔術刻印が溶け出したと思われる銀色の液状物質が、ひどく甘い香りを放ちながら星の形に固着していた。
先行して突入した執行部隊の惨状は、調査員の精神に深刻な汚染をもたらした。
生存者はゼロ。
だが、遺体は「死」の状態にすらない。
彼らは鎧や衣類ごと、原色のプラスチック製玩具や菓子類へと変換され、配置されている。
ある者は「ジンジャーマン」の姿で恐怖に顔を歪めたまま硬化し、ある者は「砂糖細工の小鳥」に変えられ、折れた翼から金色の蜜を流していた。
一〇八本の魔術回路をフル稼働させたマリア・クェストラのスペックは、我々の予想を数世代分上回っている。
彼女にとって、時計塔の精鋭さえも「自分の箱庭を飾るためのデコレーション」に過ぎなかったのだ。
現場に残された魔力の波長から、第五魔法の残滓が確認された。
蒼崎青子が介入し、対象を連れ去ったことは明白である。
「マリア・クェストラ」は、もはや単なる魔術師ではない。
彼女は「歩く固有結界」であり、かつ「客観的現実を空想で食い破る特異点」である。
彼女がもし自らの力を「楽しそうに」語り続け、そのスペックを完全に掌握したならば、現代魔術の基盤そのものがパステルカラーの泥沼に沈み、崩壊するだろう。
彼女を早期に回収し、物理的に解体・凍結することを強く勧告する。
あれは「人」として扱ってはならない。あれは「最も無垢で、最も甘美な世界の終わりの種子」である。
あとがき
マリアは青子に調整(デチューン)される前は普通にもっと強かったわけです。
ここまでストック分になります。
続きは近日中に投稿できるかと思います。