極彩の奇跡   作:柚葉

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螺旋供奉(矛盾螺旋)

一九九八年、十一月七日。

 

 

 

観布子の街に冷たい秋風が吹き込み、冬の気配が「伽藍の堂」の窓を叩き始めていた午後。

 

黒桐幹也は、橙子から頼まれていた資料の整理を終え、淹れたてのコーヒーをテーブルに置いた。

その横では、マリアがリリアスを椅子に立てかけ、橙子が引き出しの奥から取り出した古いアルバムを、興味津々で覗き込んでいる。

 

「…へえ、これが橙子さんの学生時代の写真ですか」

 

幹也が目を細めて指差した写真は、ロンドンの時計塔、その重厚な石造りの学舎を背景に撮られたものだった。

 

「ええ。あまり見られたものじゃないけれど、仕事の整理をしていたら出てきてね。…まだ、私が『自分を偽る必要』がなかった頃の記録よ」

 

橙子が紫煙を吐き出しながら、どこか遠い目をする。

アルバムのページの中央、若かりし頃の橙子の両脇には、二人の男が写っていた。

 

一人は、黒い法衣のような服を纏い、岩のように頑強な体躯を持つ男。

その眼光は写真越しでも凍てつくほどに鋭く、何か巨大な苦悩を背負っているかのように見える。

もう一人は、金髪を整え、自信に満ちた――あるいは傲慢な笑みを浮かべた男。

 

「…わあ、こっちの怖いおじさんは、不味そうなガムみたいな顔をしてるわね。…あ、でもこっちの派手なおじさんは、すごく脆そうな金平糖みたい!」

 

マリアが赤色の瞳を輝かせて、荒耶宗蓮とコルネリウス・アルバを指差した。

彼女の「奇跡」の視界では、二人の魔術師の本質が、その外見以上に奇妙なテクスチャとして映し出されている。

 

「マリア、指差しちゃだめだよ。…橙子さん、このお二人は?」

 

「…左の男は荒耶宗蓮。私の学友であり、ある意味では最も理解しがたい怪物。そして右の男はコルネリウス・アルバ…名門の出だが、プライドだけが肥大化した道化よ。三人で同じ師の下で学んでいたけれど、目指す場所が違いすぎた」

 

橙子の声には、懐かしさよりも、断ち切られた因縁への冷ややかな響きがあった。

 

「…荒耶、さん」

 

幹也はその名を聞いた瞬間、背筋に微かな悪寒を感じた。

それは、数日前から街に漂い始めた、あの小川ハイムから滲み出す「静止」の気配と重なるものだった。

 

「ねえ、お兄さん。この『ガムのおじさん』、今どこにいるの? 街の匂いが、少しずつこのおじさんの不味そうな匂いに変わってる気がするわ」

 

マリアが幹也の袖をぎゅっと掴む。

彼女の108本の魔術回路が、無意識に「静止」と「固定」という似て非なる法則の衝突を感知し、パチパチとノイズを上げていた。

 

「…大丈夫だよ、マリアちゃん。何があっても、僕が君を守るから」

 

幹也はマリアの銀髪を優しく撫で、安心させるように微笑んだ。

その幹也の「普通」の暖かさが、マリアの荒ぶりかけた魔術回路を穏やかに鎮めていく。

 

「…黒桐くん。その甘さは、時に毒になるわよ。特に、荒耶のような男を相手にする時はね」

 

橙子はそう釘を刺しながらも、アルバムをパタンと閉じた。

写真の中の三人の関係は、もはや過去のものではない。

小川ハイムという巨大な螺旋が、十一月の冷気を吸い込んで、着実に完成へと近づいている。

 

「さあ、お茶の時間は終わりよ。黒桐くん、式の様子を見てきてくれないかしら。彼女の『境界』が、少しずつ荒れ始めているわ」

 

「わかりました。…行こう、マリアちゃん」

 

「うん、お兄さん!」

 

マリアはリリアスを掴み直し、幹也の隣を歩き出す。

アルバムの中に閉じ込められていた因縁が、ついに「現実」へと溢れ出そうとしていた。

十一月七日、観布子の街は、最も長く、最も残酷な螺旋の入り口に立っていた。

 

 

 

一九九八年、十一月八日。

 

 

 

昨日までの静けさが嘘のように、「伽藍の堂」の玄関が勢いよく開け放たれました。

 

「お兄様! ――って、何ですかこの事務所。相変わらず蜘蛛の巣が似合いそうな陰気臭さですね!」

 

凛とした、けれどどこか棘のある声。

そこに立っていたのは、礼園女学院の制服を端正に着こなした少女――黒桐幹也の妹、黒桐鮮花でした。

 

「あ、鮮花。…連絡もなしに、どうしたんだい?」

 

困ったように笑う幹也の背後から、ひょこりと銀色の髪が覗きます。

マリアは、初めて見る「お兄さんの身内」に興味津々で、赤色の瞳をキラキラと輝かせていました。

 

「…あら。お兄様、その子は? 蒼崎先生の新しい『在庫』かしら」

 

鮮花が眉をひそめてマリアを見つめます。

魔術師の見習いである鮮花には、マリアの周囲で物理法則がわずかに「甘く」歪んでいるのが直感的に理解できました。

 

マリアはトコトコと鮮花の前に歩み寄ると、スカートの裾をちょこんと掴んで、満面の笑みを浮かべました。

 

「はじめまして、鮮花お姉ちゃん! お兄さんから聞いてた通り、とっても綺麗なバラの花みたいな匂いがするわ!」

 

「お、おねえ…っ!?」

 

鮮花は一瞬にして顔を真っ赤にしました。

「お兄様」を唯一無二に慕う彼女にとって、初対面の年下の(実際には年上)美少女から屈託なく「お姉ちゃん」と呼ばれたことは、予想外の直撃弾でした。

 

「ちょっと、気安く呼ばないでくださる? 私は別に、あなたの姉になった覚えは…」

 

「ええー、ダメ? 鮮花お姉ちゃん。私、マリア。お兄さんのことが大好きなの! お姉ちゃんもお兄さんのことが大好きなら、私とお揃いね!」

 

「お、お揃い…!? この子、なんて恐ろしいことを平然と…」

 

鮮花が戦慄している横で、ソファに寝そべってハーゲンダッツを食べていた式が、くすりと皮肉げな笑い声を漏らしました。

 

「くく…。鮮花、あんたの天敵が現れたな。その銀髪、お兄ちゃんっ子の適性に関しては、あんたより上だぞ」

 

鮮花は即座に表情を険しくして、ソファの主を睨みつけます。

 

「式さん! 笑いごとじゃありませんわ! そもそも、あなたまで一緒になって私を揶揄うなんて!」

 

「…ふん。私はただの事実を言ったまでだ」

 

式は不敵に笑い、再びスプーンを口に運びました。

そんな二人のやり取りを見ていたマリアが、ぱっと式の方を振り返ります。

 

「あ! そうだわ。式さんのことも、これからは式お姉さんって呼ぶことに決めたの!」

 

「…は?」

 

式のスプーンが止まります。

「式」でも「あんた」でもなく、「お姉さん」。

マリアの瞳の中では、式の持つ『死』という絶対の虚無さえも、幹也と同じ「家族」の色で塗りつぶされようとしていました。

 

「…勝手にしろ。ただし、その呼び方をするなら、私のストロベリー味のアイスを一口寄越しな。それが駄賃だ」

 

「うん、いいよ! 式お姉さん!」

 

マリアは嬉しそうに笑い、リリアスを杖にして跳ね回ります。

幹也は、妹と、式と、そしてマリアという三人の少女に囲まれ、いよいよ「伽藍の堂」が戦場のように賑やかになっていくのを予感して、そっと溜息をつきました。

 

「…やれやれ。マリアちゃん、鮮花、仲良くしてくれると嬉しいんだけど」

 

「お兄様がそう仰るなら…少しだけ、このマリアとかいう子の面倒を見てあげなくもありませんわ。…いい、マリア? 『お姉ちゃん』と呼ぶからには、礼儀作法から叩き込んであげますからね!」

 

「わーい! 鮮花お姉ちゃん、大好き!」

 

小川ハイムの闇が深まる一方で、「伽藍の堂」の家族の絆は、奇妙な呼び名と共に、より一層カラフルに、そして複雑に絡み合っていくのでした。

 

 

 

 

一九九八年、十一月十日。

 

 

 

「伽藍の堂」の静寂は、無作法に蹴破られたドアの音と、場違いなほど高慢な笑い声によって打ち砕かれました。

 

そこに立っていたのは、真紅の外套を羽織り、自尊心を煮詰めたような笑みを浮かべた男――コルネリウス・アルバ。

 

「――久しいな、橙子! 忌々しいルーンの使い手よ!」

 

「…アルバ。相変わらず、耳障りな声ね」

 

橙子が冷徹に、けれど僅かな嫌悪を込めて応じます。

その傍らで、幹也は突然の来訪者に困惑し、マリアはリリアスを抱えたまま、この「赤いおじさん」をじっと見つめていました。

 

「ふん、相変わらず陰気な工房だ。だがそれも今日までだ。…橙子、お前に一つ、愉快な報告を持ってきてやったのだよ。お前が執着していた『太極(両儀式)』は、今、我らの手の中にある!」

 

アルバが誇らしげに胸を張ります。

その言葉に、幹也の顔から血の気が引き、橙子の眼鏡の奥の瞳が鋭く細まりました。

 

「式を…捕らえた、だと?」

 

「左様! 荒耶の用意した小川ハイムの螺旋は、もはや完成した。あの女は、その中心で永遠に死を反復する標本となったのだ。…どうだ、お前の敗北だ、橙子!」

 

高笑いするアルバ。

しかし、その耳障りな声を遮るように、マリアがトコトコと一歩前へ出ました。

 

「…ねえ、お兄さん。この赤いおじさん、すごく変よ」

 

マリアの言葉に、アルバの笑いが止まります。

 

「何だ、その小娘は。…封印指定のクェストラか? ほう、橙子の下で飼い殺しにされているという噂は本当だったか」

 

マリアはアルバを無視して、幹也の袖をぎゅっと掴みました。

 

「お兄さん、見て。このおじさんの周り、すごく『安っぽい金平糖』の匂いがするわ。中身が空っぽなのに、お砂糖の飾りだけを塗りたくって、無理やり形を保ってる…ひどく不味そうな、壊れたお菓子みたい」

 

「な…貴様、何を…ッ!」

 

「式お姉さんを捕まえたなんて嘘よ。…だって、こんなに不味そうな色をしてる人が、あんなに綺麗な『死』を持ってるお姉さんに勝てるわけないもの。…おじさん、自分でお星様になりに来たの?」

 

マリアの瞳が、パチリと不気味な極彩色に明滅しました。

彼女の108本の魔術回路が、アルバの「虚栄」を剥ぎ取るために唸りを上げ始めます。

 

「貴様…! この私を、名門アルバの当主を侮辱するか!」

 

「アルバ、やめなさい。その子を怒らせると、あんたの誇り高い血筋ごと『パステルカラーのゴミ箱』に放り込まれるわよ」

 

橙子が冷ややかに警告しますが、功名心に駆られたアルバには届きません。

 

「…フン、もういい! 橙子、小川ハイムで待っているぞ。お前が大切にしているこの凡骨(幹也)と化け物(マリア)を連れて、這いつくばって来るがいい!」

 

アルバはそう言い残し、派手な魔術の残光と共に姿を消しました。

 

「…橙子さん。行きましょう。式が…式が待っています」

 

幹也の切実な声に、マリアが力強く頷きました。

 

「うん。行きましょう、お兄さん! あの赤いおじさん、私がリリアスで粉々に砕いて、本物のゴミにしてあげる!」

 

十一月十日。

極彩色の死神と魔術師、そしてただの青年を乗せた車が、死の螺旋が渦巻く小川ハイムへと走り出しました。

 

 

「あははは! 見ろ、橙子! これが、これがお前の最期だ!」

 

コルネリウス・アルバの絶叫と共に、猛火の魔術が放たれる。

そこにあるのは、もはや高潔な魔術師の姿ではない。嫉妬と劣等感に焼き尽くされた、ただの矮小な怪物の姿。

 

「…っ、マリア、黒桐くんを!」

 

橙子の叫びが響く。

だが、その声はアルバの放った不可視の拳によって断ち切られた。

橙子の首が、あまりにもあっけなく――原作の無慈悲さそのままに、床へと転がる。

 

「橙子さん!!」

 

幹也の悲鳴が、無機質なコンクリートに虚しく反響した。

魔術師・蒼崎橙子の沈黙。それは、この場における最大の守り手が失われたことを意味していた。

 

「ひ、ひひ…! 次はお前たちだ! 特にその封印指定の小娘、お前の肉体を切り刻んで、私のコレクションに加えてやろう!」

 

アルバが狂乱の笑みを浮かべ、幹也へと魔術の照準を向ける。

 

「…お兄さん、下がって」

 

低く、けれど大気を震わせるような声。

マリア・クェストラが一歩、幹也の前に踏み出した。

彼女の背後では、漆黒の鉄塊『リリアス』が、重力無視の挙動で浮き上がっている。

 

「…おじさん。今、お姉さんのことを、すごく不味そうな色で壊したわね」

 

マリアの瞳から、光が消える。

代わりに溢れ出したのは、底知れない、そして色彩を失った虚無の黒。

 

「お兄さんに、その不味い手を向けないで。…汚れるから」

 

アルバが放った数千度の火球が、マリアに触れた瞬間に冷たい綿菓子へと書き換えられ、霧散した。

だが、マリアの表情に余裕はない。

橙子という柱を失った今、この巨大な螺旋結界そのものが、マリアと幹也を押し潰そうと襲いかかってくる。

 

「死ね! 死ね死ね死ね!!」

 

アルバが繰り出す無数の魔弾。

マリアはリリアスを振り回し、迫り来る魔術の意味を片端からお菓子やリボンへと強引に置換していく。

だが、ここは荒耶宗蓮が築き上げた、死の不変を司る奉納殿。

書き換えても、書き換えても、螺旋は即座に元の死の風景へと自己修復を繰り返す。

 

「…くっ、あああああ!」

 

マリアの肩に、魔弾の余波が掠める。

鮮血が舞う。

だが、その血さえも、マリアの制御を離れてパステルピンクの滴へと変わり、足元のアスファルトを泥濘へと変質させていく。

 

「マリアちゃん! もういい、逃げるんだ!」

 

「だめ! 私が…私がお兄さんを守るって、決めたんだから!」

 

防戦一方。

マリアの108本の魔術回路は、橙子の死による衝撃と、荒耶の結界による圧迫で、限界を超えて加熱していた。

彼女の視界が、次第に真っ赤に染まっていく。

橙子の生首を弄ぶアルバの嘲笑。

動けない幹也の絶望。

 

マリアは、震える足でリリアスを支え、牙を剥いた。

奇跡と現実の境界が、悲鳴を上げながら崩れていく。

地獄のような螺旋のただ中で、銀髪の死神は、ただ一人の青年を守るためだけに、己の魂を削りながら「幸福な夢(テクスチャ)」を紡ぎ続けていた。

 

螺旋の底、血と硝煙の匂いが立ち込める奉納殿六蔵。

マリアが幹也を庇い、その小さな体で幾千の魔弾を受け止め続けてから、どれほどの時間が経っただろうか。

 

マリアの意識は混濁し、108本の魔術回路は焼き切れんばかりに軋んでいた。

リリアスの重みが、今は絶望的なほどにのしかかる。目の前では、勝ち誇ったアルバが、自らの勝利を確信して無慈悲な一撃を放とうとしていた。

 

 

「――おしまいよ、アルバ。品性の欠片もない道化は、自分の見栄に焼かれて消えなさい」

 

 

唐突に、静寂を切り裂く冷徹な声が響いた。

その瞬間、アルバの足元から、悍ましいまでの魔力の奔流が吹き上がる。

 

「な…ッ!? 橙子、だと…! 死んだはずだ、この手で首を撥ねたはずだッ!!」

 

狂乱するアルバの視線の先。影の中から、死の淵から舞い戻った蒼崎橙子が、悠然と、そして殺意を込めて歩み寄ってきた。

彼女の手には、古びた幻燈機が握られている。

 

「君の見ていたものは、ただの『偽物の死』。…本物の『怪物』を、今から見せてあげるわ」

 

橙子が幻燈機を起動させる。

放たれた光は、空間そのものを食い破る巨大な影の使い魔となって具現化した。

それは物理法則を無視してアルバへと襲いかかり、彼の肉体を、誇り高いはずの魔術刻印ごと、無慈悲に、あっけなく噛み砕いていく。

 

「ぎ、あああああ! 嫌だ、私は、私はアルバの…ッ!!」

 

断末魔の叫びと共に、赤い魔術師は影の深淵へと消えていった。

螺旋を覆っていた不快な熱が引き、後には重い静寂だけが残る。

 

橙子は静かに幻燈機を閉じると、肩で息をしながら座り込んでいたマリアの元へ歩み寄った。

マリアの銀髪は汚れ、その瞳からはかつての狂信的な色彩が消え、激痛と疲労に潤んでいる。

 

「…マリア。よく、ここまで耐えたわね」

 

橙子が、マリアの泥に汚れた頭をそっと撫でた。

魔術師としての冷徹な手ではなく、一人の保護者としての、温かい手。

 

「お、お姉さん…。本当にお姉さんなの…? 夢じゃない…?」

 

「ええ。君が黒桐くんを必死に守り抜いて、時間を稼いでくれたおかげよ。…マリア、君は立派に、自分の『現実』を繋ぎ止めたわ」

 

「…う、うう…うああああああんっ!」

 

褒められた瞬間、マリアの緊張の糸がぷつりと切れた。

彼女は子供のように声を上げて泣き出し、橙子のコートに顔を埋める。

 

1000回の死でも、九十九里大橋の激痛でも流さなかった涙。

 

それは、大切な人を守り抜いた一人の少女としての、安堵の涙だった。

 

「…よしよし。後は、式に任せなさい。…黒桐くん、彼女を頼むわよ」

 

橙子に促され、幹也が震える手でマリアを抱きしめる。

螺旋の主、荒耶宗蓮との決戦を前に。

「伽藍の堂」の家族たちは、崩壊する地獄の中で、再び固い絆を取り戻していた。

 

 

螺旋の最上層。太極の座。

 

そこには、世界の理から切り離されたような、圧倒的な静寂がありました。

荒耶宗蓮は、金剛杵を手に不動の姿勢で立ち尽くし、その足元には虚空へと意識を溶け込ませた両儀式が横たわっています。

 

しかし、その静寂は、橙子に抱えられ、幹也に支えられたマリアが踏み込んだ瞬間に、不協和音となって弾け飛びました。

 

「…式、お姉さん…っ!」

 

マリアの悲痛な叫びが、無機質なコンクリートの壁に反響します。

その声に呼応するように。あるいは、螺旋が限界に達したことを告げるかのように、式の瞼がゆっくりと、けれど鋭利に開かれました。

 

式の手には、いつものナイフではなく、一振りの日本刀――『九字兼定』が握られていました。

 

「…あ」

 

マリアは息を呑みました。

式の瞳には、もはやマリアの描くパステルカラーの幻想も、荒耶が積み上げた数千年の静止も映っていません。

そこにあるのは、万物の終焉を司る「死の線」と、それを断つための冷徹な鋼の輝きだけ。

 

「――荒耶。お前の望みは、ここで終わる」

 

式が立ち上がります。

刀を正眼に構えるその姿は、一人の少女から、この世のあらゆる因縁を断ち切る「概念」へと変貌していました。

 

荒耶が放つ「六道境界」。

空間を遮断し、存在を拒絶する絶対の壁。

本来ならマリアの「奇跡」でさえ、数秒間こじ開けるのが精一杯の鉄壁。

 

「…邪魔だ。消えな」

 

式の刀が、円月を描くように虚空を裂きました。

マリアの目には、刀身が空間そのものの「急所」を撫でたように見えました。

 

パリン、と。

 

飴細工が砕けるような音と共に、荒耶の絶対防御が文字通り「死んで」霧散します。

 

螺旋を断つ一閃

 

「馬鹿な…。概念を、理を、斬ったというのか…!」

 

荒耶の驚愕を余所に、式は地を蹴りました。

マリアは、幹也の腕の中でその光景を焼き付けます。

ナイフよりも遥かに長く、鋭い刀身が閃くたび、螺旋の回廊に刻まれた「矛盾」が次々と断ち切られていく。

マリアがどれほど魔力を注いでも変えられなかった灰色のコンクリートが、式の刀が通るたびに、ただの「死骸」となって崩れ落ちます。

 

「…すごい。式お姉さん、全部…全部『なかったこと』にしてる」

 

マリアの108本の魔術回路が、初めて沈黙しました。

上書きする必要などない。

この女性が振るう白刃こそが、不純物のない、剥き出しの「真実」なのだと理解したからです。

 

 

「――直死」

 

 

最後の一撃。

式の長刀が、荒耶宗蓮の胸の中心――彼の「静止」という呪いの核を深々と貫きました。

数千年の渇望、数万の死。

そのすべてが、一振りの刀によって、あるべき虚無へと還っていきます。

 

螺旋が崩壊し、朝の光が差し込む中、式は刀を鞘に収めることもせず、ゆっくりと幹也とマリアの方を振り返りました。

 

「…おい、銀髪。いつまで寝ぼけてる。…帰るぞ、幹也」

 

いつもの、ぶっきらぼうで、けれど確かな体温を感じさせる声。

マリアは、堪えきれずに幹也の腕をすり抜け、式へと駆け寄りました。

 

「式お姉さん…! 大好き! 良かった、本当にお星様にならなくて良かった…っ!」

 

「…よせ、暑苦しい。服が汚れるだろ」

 

式は嫌そうな顔をしてみせますが、マリアがその腰にしがみついても、彼女を突き放すことはしませんでした。

橙子がタバコに火を点け、紫煙を朝焼けに溶かします。

 

 

一九九八年、冬。

 

 

痛みを知った少女と、刀を振るう死神。

二人の「お姉さん」に囲まれた、銀髪の死神の最も長い夜が、今、ようやく明けました。

 

 

 

一九九九年、十二月。

 

 

 

二十世紀がその幕を閉じようとする喧騒の中、観布子市の空気は刃物のように冷たく澄み切っていました。

「伽藍の堂」の暖炉には薪がくべられ、パチパチとはぜる音が、迫りくるミレニアムの足音を穏やかに打ち消しています。

 

「…お兄さん、見て。雪が、とっても美味しそうな粉砂糖みたい」

 

窓の外を見つめるマリア・クェストラの瞳には、かつてのような壊れた色彩の奔流はありません。

そこにあるのは、季節の移ろいを慈しむ、落ち着いた赤色の光。

彼女の背後では、漆黒の鉄塊『リリアス』が、今は静かに壁に立てかけられています。

 

「あ、藤乃お姉さん! 鮮花お姉ちゃんも! いらっしゃい!」

 

ドアが開くと同時に、マリアが弾かれたように駆け寄りました。

浅上藤乃と黒桐鮮花。

かつては敵対し、あるいは反目し合った少女たちも、今ではこの事務所に集う「家族」の一部となっていました。

 

「こんにちは、マリアさん。今日は特別に、冬限定のチョコレートを買ってきたんですよ」

 

藤乃が穏やかに微笑みます。彼女が差し出した箱を、マリアは嬉しそうに受け取り、すぐにその表面のテクスチャを「溶けない魔法」でコーティングしました。

 

「ちょっと、マリア! 私を差し置いてお兄様に抱きつかないでくださる!? 礼儀作法、まだ教育が足りないようですね!」

 

鮮花がいつものように小言を言いますが、その手にはマリアへのクリスマスプレゼントが隠されています。

マリアは「えへへ、鮮花お姉ちゃん、大好き!」と、その怒りさえも温かい色として受け止めていました。

 

ソファでは、両儀式がいつもと変わらず気怠げに横たわっていました。

マリアはトコトコと歩み寄ると、式の冷たい指先を自分の温かい両手で包み込みます。

 

「…式お姉さん、手、冷たくなってる。私の『温かい色』、少し分けてあげるね」

 

「…ふん。余計なお世話だ、銀髪。だが…まあ、悪くはない」

 

式は目を閉じたまま、マリアの体温を受け入れます。

一年前、小川ハイムの螺旋を共に戦い抜いた二人。死を視る式と、生を固定するマリア。

相反する性質を持つ彼女たちは、今、この狭い事務所の中で、お互いの存在を唯一無二の「隣人」として認めていました。

 

「さあ、みんな。二十世紀最後の冬を祝って、今夜は盛大にやるわよ。黒桐くん、シャンパンの用意はできているかしら?」

 

橙子が事務所の奥から顔を出し、いたずらっぽく笑いました。

幹也は「はい、準備万端ですよ」と答え、マリアの頭を優しく撫でます。

 

「…ねえ、お兄さん」

 

マリアが、幹也の手をぎゅっと握りしめました。

 

「私、来年になったら…もっと遠くの世界を見てみたい。この街で教えてもらった『本物の色』を持って、もっとたくさんの人を幸せにできるような、そんな旅をしてみたいの」

 

それは、かつて「封印指定」という檻に閉じ込められていた少女が、初めて自らの意志で描いた未来の設計図でした。

幹也は、マリアの成長を少しだけ寂しく、けれど心から誇らしく感じながら頷きました。

 

「うん。マリアちゃんなら、きっとどこへ行っても大丈夫。君が描く世界は、誰よりも温かいから」

 

一九九九年、十二月。

空の境界の物語は、ひとつの終わりを迎えようとしていました。

けれど、マリア・クェストラという少女の物語は、ここから新しい「色」を帯びて、輝かしい未来へと続いていくのです。

 

外では、二十世紀最後の雪が、静かに世界を白く、美しく塗り替えていきました。

 





あとがき

構成上式ルートはばっさりカットとなってしまいました。
「彼」は出したかったのですが原作通りの内容を書くことになってしまうためです。

また、「俯瞰風景」は原作通り進むと思うので構成上カットです。
「忘却録音」もマリアを行かせるとは思えないのでカットになってしまうため次回はおそらくオリジナル展開のお話となります。
よろしくお願いいたします。
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