ダンジョンにいる白蛇 作:天上の羽衣
ヘスティア・ファミリアに身を置いて数週間
僕の日常は、期待していた「未知への愉悦」とは程遠い、酷く退屈で歪な停滞の中にあった
迷宮都市オラリオ
神々が下界に降り、子供たちに「恩恵(ファルナ)」という名の力を授けて英雄譚を紡ぐ場所
けれど、この教会の地下室に満ちているのは、英雄譚の輝きなどではない。それは、過保護な母性と執着が混ざり合った、逃げ場のない「檻」の匂いだ
「おかえりベル君! 今日は怪我をしていないかい? ほら、神様特製のジャガ丸くんスープだよ!」
地上で一日中ベル君の帰りを待ちわびていた女神ヘスティアが、弾けるような笑顔で少年に飛びつく
ダンジョンから戻ったばかりのベル君は、彼女の熱量にたじろぎながらも、その献身に申し訳なさそうな、けれど嬉しそうな顔をして笑う
その光景の片隅
僕は、冷え切った石畳に腰を下ろし、一人で神鎗の鞘を磨いていた
「……あ、シロウ君も……おかえり」
ヘスティアがついでに放った言葉には、体温が一切通っていない
ベル君に向ける「慈愛」とは明らかに異なる、ただの同居人への義務的な挨拶
彼女にとって、僕はベル君が拾ってきた「おまけ」であり、ベル君という唯一無二の宝石を引き立てるための「背景」に過ぎなかった
「……神様。そろそろ僕のステータスも更新してくれませんかね。今日は中層近くまで足を伸ばして、結構な数の魔石を稼いできたんやけど」
僕が努めて飄々と、提案する
だが、ヘスティアはベル君の装備を脱がせる手を止めようともせず、面倒そうに鼻を鳴らした
「そんなの、後でいいだろう? 今はベル君の成長を確かめるのが先なんだ。君は強いんだから、一日くらい更新しなくても死なないじゃないか。それよりも、君がベル君を放っておいて中層に行ったせいで、ベル君が危ない目に遭ったらどうするつもりなんだい!」
「……あはは。そら、すんませんでした」
僕は薄笑いを浮かべて目を細める
彼女は気づいていない
ベル君を守るために、僕がどれだけ「影」で動いているか
彼が自分の力以上のモンスターに囲まれそうになった瞬間、死角から『神鎗』を伸ばして核を貫き、彼が「今の、僕が倒したのかな?」と首を傾げる隙に、すべての脅威を消し去っている
恩恵を授かったはずの僕の背中
そこに刻まれた数値は、入団したあの日からほとんど変わっていない
彼女が僕の背中を視ることを拒んでいるからだ
更新の際、彼女は僕の魂に潜む「死神」の禍々しさに怯え、数値を読み上げることすら不快そうに切り上げる
(……救いようがないなぁ、この神様は)
自分の愛する子だけが特別。自分の箱庭の中だけで、自分の思い通りに育ってほしい
その独占欲と、自分に従順でないものへの冷遇
それは、僕が前世の病室で味わった「何もできない自分」を強制する世界の縮図そのものだった
その晩
ベル君が泥のように眠りについた後
ロウソクの火が揺れる地下室で、僕はヘスティアに向き合った
「神様。ちょっと、ええかな」
「なんだい、藪から棒に……明日のベル君の冒険プランを考えているんだ、手短に頼むよ」
地図を広げるヘスティアの瞳には、やはり僕の姿は映っていない
僕は懐から手を出し、腰の脇差の柄をゆっくりと撫でた
「僕、このファミリア辞めるわ」
一瞬、部屋の空気が凝固した
ヘスティアがゆっくりと顔を上げ、理解できないという表情で僕を凝視する
「……今、なんて言ったんだい?」
「辞めるって言うたんや。君の目は、ベル君という光に灼かれて、僕のような影が見えんようになってる……ここに居ても、僕はただの『ベル君の護衛』という名前の部品で終わってまう それは僕にとって、死ぬよりも退屈なんや」
「なんて勝手な……! 行く宛てのない君を、拾ってあげたというのに! 君は恩知らずなのかい!?」
ヘスティアの叫びには、失うことへの悲しみではなく、自分の管理下から外れる異分子への不快感だけが満ちていた
僕は三日月のような笑みを深め、彼女に一歩近づく
「恩、ねぇ……君が僕のステータスを更新する時、いつも震えてるん、知ってるで。僕の力が怖くて、見んようにして……君が求めてるんは『子供』やなくて、自分の言うことを聞く『人形』なんやろ?」
「ひっ……!」
ヘスティアが後退りする
彼女の脳裏に、恩恵を刻む際に見えた「神すらも殺しうる、細胞を溶かす猛毒」の幻影が走ったのだろう
「……ええよ。僕みたいな可愛げのない『蛇』、君の綺麗な箱庭には似合わんわ。神の紐、解いてくれるかな」
ヘスティアは震える指先で、僕の背中に刻まれたファルナを解除した。
背中を走る熱が消える。
それは、僕とこの無能な女神との、唯一の繋がりが絶たれた瞬間だった
「……さっさと、出ていくがいいさ。君みたいな不気味な子は、最初からいなかった方が良かったんだ」
吐き捨てられた言葉に、僕は満足げに頷く
「あはは、正解や……さよなら、神様。せいぜい、君の宝物がいつまでも無垢なままでおれるよう、お祈りしとくわ」
荷物も持たず、僕は教会の地下を後にした
夜のオラリオ。冷たい月光が、石畳を銀色に染めている
「……さて」
僕は懐に手を入れ、行き先を考える
この街には、もう一柱、狐のような目をした「飽き性」の女神がいるはずだ
彼女なら、僕という猛毒を、少しは面白がってくれるかもしれない
「待っててや、ロキ……最高にキレる『神鎗』、持ってきたで」
蛇は脱皮を終え、さらなる快楽を求めて、夜の闇へと滑り出した