九条零の不本意なる呪術回想録 作:あいあい
目が覚めた瞬間、鼻を突いたのは古い木造建築が放つ饐えた匂いと、雨上がりのアスファルトが放つ独特の湿気だった。
視界に飛び込んできたのは、京都の情緒ある景観──を、裏側から覗いたような薄暗い路地裏。
(……あれ、俺、死んだよな? 確か、トラックに撥ねられるっていうテンプレ通りの死に方したはずなんだけど)
九条零は、壁に背を預けたまま、混濁する意識を整理しようと試みた。
記憶の断片が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。真っ白な空間。自称・神様という、胡散臭い笑顔を浮かべた存在。
「手違いで君を死なせちゃったお詫びに、異世界転生させてあげるね! 特典もてんこ盛りだよ!」
そんな軽々しいノリで放り出された先が、まさかここだとは。
(呪力、感情知覚、表情筋の壊死、そして煽り性能MAXの口……。嫌な予感しかしない。ていうか、神様、ここ、もしかして……)
遠くから聞こえてくる、聞き覚えのある地名。通りを歩く人々の服装。そして、この世界に満ちている、どろりとした澱のような気配。
九条は前世で読み耽っていた漫画の知識を総動員し、冷や汗を流した。
(呪術廻戦。それも、この雰囲気……まだスマホが普及しきってない感じからして、本編よりかなり前か?)
最悪だ、と内心で絶叫する。
平和なスローライフを希望したはずなのに、生きているだけで死亡フラグが乱立するような魔境に放り込まれるとは。
逃げよう。そう決意して足を踏み出した瞬間、九条の『感情知覚』が、背後から迫る異様なエネルギーを感知した。
それは、鋭利な剃刀で肌を撫でられるような、純粋で傲慢な悪意。
(──ッ!? くる、右後ろ、近い!!)
生存本能が脳内で警報を鳴らし、九条の体は思考より先に動いた。
反射的に首をわずかに左へ傾ける。
直後、首筋を熱い風が通り抜けた。石壁に何かが激突し、乾いた破砕音が路地裏に木霊する。
「へぇ、今の避けるんや。野良の割にはええ反応するやないか」
聞こえてきたのは、ねっとりとした、それでいて自信に満ち溢れた京都弁。
九条がゆっくりと視線を向けると、そこには金髪を派手に流し、耳にいくつものピアスを光らせた男が立っていた。
まだ十六歳。若さゆえの残酷さと、溢れんばかりの自尊心を全身から放散させている。
(……は? 嘘だろ、一発目からこれかよ。禪院直哉。よりによって、一番関わりたくない性格地雷が目の前にいる……!)
九条の内面は、もはやパニックの許容量を超えていた。
逃げ出したい。土下座して命乞いをしたい。なんなら気絶して夢だと思い込みたい。
しかし、神様の与えた特典は、彼のそんな人間らしい反応を一切許可しなかった。
九条の顔面は、恐怖に歪むことも、冷や汗を流すこともなく、ただ深海のように静まり返っている。
鋭い三白眼は、まるで道端の石ころを見るような冷淡さで直哉を射抜き、その立ち姿は一切の隙を感じさせない。
さらに、九条の意思を無視して、彼の喉が、最高に相手を逆撫でする言葉を紡ぎ出した。
「……何だ、その不細工な投擲は。京都の鴉の方が、まだマシな狙いをつけるぞ」
(ぎゃあああああああああ! 俺の口、何言ってんの!? 相手、直哉だよ!? 殺される、秒で細切れにされる!!)
九条の内心の叫びは、誰にも届かない。
直哉の眉が、ピクリと跳ね上がった。
「鴉、やて? 僕を捕まえて、えらいデカい口叩くやんか。……君、名前は? 呪霊を払うだけやなくて、人間に喧嘩売る作法も習ってへんみたいやな」
直哉の足元で、呪力が爆ぜる。
『投射呪法』。
一秒を二十四分割する超高速の移動。
常人には、彼が消えたようにしか見えない。
だが、九条の『感情知覚』は、直哉の「次にどこを攻撃するか」という意思を、鮮明な色のグラデーションとして読み取っていた。
(左横……いや、回り込んで後ろから! 狙いは膝裏!)
九条は、無表情のまま、一歩だけ後ろに下がった。
空振りに終わった直哉の回し蹴りが、虚空を裂く。
着地した直哉の顔から、余裕が消えていた。
「……また避けおった。偶然やないな。君、僕の動き、見えとるんか?」
直哉の瞳に、獲物を見つけた猛禽類のようなギラついた光が宿る。
自分より速い者。自分の術式を理解し、あしらう者。
彼にとって、それは崇拝か徹底的な破壊の対象でしかない。
「……見える、だと? 買い被りだな。お前の動きはあまりに単調で、予測するまでもない。ただの紙芝居を見せられている気分だ」
(止めてえええええ! その煽り、本気で死ぬから止めてええええ!)
九条は内心でボロボロと涙を流しながら、ポケットに手を突っ込んだ。
実は恐怖で指先がガタガタと震えているのだが、その動作は直哉の目には武器すら使う必要がないという強者の余裕に映っていた。
「紙芝居……。ハッ、言うてくれるやんか! おもろい、おもろすぎるわ君!」
直哉が再び踏み込もうとした、その時。
九条は、最後の一線を越えるハッタリを、あえて静かな声で放った。
「……一つ、忠告だ。次に俺に触れようとしたら、お前のその自慢の脚は腐り落ちるぞ」
直哉の動きが、目に見えて凍りついた。
「……あ? 何を言うて──」
「俺の術式はな、触れた相手の脚を腐らせる。お前が俺に触れた瞬間、お前を形作る呪力回路は崩壊し、術式の発動条件は永久に失われる。……お前にとって、それは死よりも恐ろしい屈辱なんじゃないか?」
冷徹な、絶対的な確信を込めた声。
九条は『感情知覚』で、直哉が自身の術式とプライドにどれほど固執しているかを読み取っていた。
だからこそ、彼が最も恐れる無能への転落を、ピンポイントで突いたのだ。
路地裏の空気が、張り詰めた弦のように鳴動する。
九条の顔は相変わらず無表情だが、その瞳の奥には、触れるなら触れてみろ、ただし後悔するぞ、という不気味な静寂が宿っているように見えた。
(実際にはそんな術式、一ミリも持ってないんだけどね! ただの嘘なんだけどね!! 触られたら俺が普通に殴られて死ぬだけなんだけどね!!)
直哉の心の中で、傲慢さと慎重さがせめぎ合っているのを、九条は手に取るように感じていた。
こいつはハッタリを言っているという確信が持てないほど、九条の放つ『そこそこの呪力』と、その立ち振る舞いは異様だったのだ。
やがて、直哉は忌々しそうに顔を歪め、纏っていた呪力を霧散させた。
「……興が削げたわ。今日はその減らず口に免じて、貸しにしといたる」
直哉は懐から一枚の名刺を取り出し、二本の指で弾いた。九条の胸元に吸い込まれるように飛んできたそれを、九条は指先一つ動かさず、胸と腕の間で挟むようにして受け止めた。
「九条、言うたんか。……気に入ったわ。近いうちに、君がそのツラ崩して泣き叫ぶ姿、僕が直々に拝ませてもらうさかい。覚悟しときや」
風が吹いた。
次の瞬間、直哉の気配は路地裏から完全に消え去っていた。
(……消えた。本当に行ったのか……?)
さらに数分。
周囲の感情の気配が完全に消えたことを確認すると、九条の足は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
「……ひ、ひいいい……死ぬかと思った……。マジで、マジで死ぬかと思った……」
全身から噴き出した冷汗で、服がぐっしょりと張り付いている。
心臓の鼓動がうるさい。呼吸が上手くできない。
九条は、手に入れたばかりの直哉の名刺を、震える手で見つめた。そこには『禪院直哉』という、呪術界の闇を凝縮したような名前が記されていた。
(スローライフって言ったじゃん。神様、嘘つき。何が特典だよ、これ全部呪いじゃねーか……!)
九条は、路地裏の冷たい地面に突っ伏して、声にならない叫びを上げた。
こうして、九条零の「本心」と「外見(最強)」が乖離し続ける、地獄の勘違いファンタジーが幕を開けた。
彼が次に遭遇するのは、さらなる絶望か、あるいは運命を狂わせる新たな強者か。
少なくとも、彼が平穏な日々を手にすることだけは、当分なさそうであった。