九条零の不本意なる呪術回想録 作:あいあい
直哉という名の歩く天災から逃げ出し、俺、九条零は、四条河原町の喧騒に紛れ込んでいた。
(……死ぬ。心臓が止まる。神様、お詫びって言ったよね? これ、嫌がらせの間違いじゃないかな!?)
内心では涙を流し、膝をガクガクと震わせている俺だが、鏡を見るまでもなく、今の俺の表情は静寂そのものだろう。すれ違う通行人が、俺の刺すような三白眼と冷徹なオーラに気圧され、モーゼの十戒のように道が割れていく。
(みんな避けないで! 俺、ただの一般人だから! 今すぐこの場にしゃがみ込んでワンワン泣きたいだけだから!!)
俺は震える手で、神様から与えられた当時の二つ折り携帯を開いた。まだスマホなんて影も形もなく、パカパカと開閉するボタンの感触だけが、かろうじて俺を現実へと繋ぎ止めている。地図機能なんておまけ程度の性能で、現在地を示す矢印もどこか頼りない。
(とにかく安全で、人気が多くて、美味しいものが食べられる店。……あった、あのおばんざい屋に行こう。落ち着け、九条零。直哉はもういない。あんな性格地雷とはもう一生会わない。ここは平和な京都なんだ……)
そう自分に言い聞かせ、震える指で携帯を閉じた瞬間、脳内に 嫌な色 が混じった。
感情知覚。 それは、他者の感情を色や波として受け取る能力。
平和な観光客が放つ楽しいという桃色の波の中に、どろりとした粘着質な 「飢餓感」 が混ざり込んでいる。それは黄色と黒を混ぜ合わせたような、生理的な嫌悪感を催させる色だった。
(……うわ、出た。絶対にあれ、呪霊だ。見ちゃダメだ。関わっちゃダメだ。俺はただ、美味しい豆腐を食べて、布団に入って、今日という悪夢をリセットしたいだけなんだ……!)
俺は目的地とは真逆の方向へ、逃げるように足早に歩き出した。しかし、運命という名の神様は、どこまでも俺を弄びたいらしい。
路地裏の悲鳴。
「……ひっ、や、やめろ……こっちに来るな……!」
細い路地の奥から、若い男の悲鳴が聞こえてきた。普通なら警察を呼ぶ場面だが、感情知覚が伝えてくるのは、人間のものではない、もっとどろりとした純粋な悪意だ。
(嫌だ。行きたくない。俺に何ができるってんだ。でも、あの男の絶望が、頭の奥に響いて痛いんだよ!)
九条は、自分の意思とは裏腹に、勝手に動く脚を呪った。
角を曲がった先では、簡素なスーツを着た、恐らく呪術界の末端に連なるであろう若い男が、ゴミ捨て場の影に追い詰められていた。
その目の前には、不格好に膨れ上がった、いくつもの目を持つ泥のようなバケモノ。呪霊の口からは粘り気のある唾液が滴り、周囲には吐き気を催すような腐敗臭が漂っている。
(ヒッ、出たああああ! 気持ち悪い! 怖い! 無理!!)
俺は内心で絶叫し、踵を返して全力疾走で逃げようとした。
しかし、神様の特典である 表情筋の壊死 が、俺を逃がしてくれない。恐怖で全身が硬直したせいで、俺は逃げ出すどころか、その場に 仁王立ち する形になった。
腰を抜かした男が、俺を見て希望の光を宿す。
「た、助けてくれ……! あんた、術師か!?」
(違う、通りすがりのパニック野郎だ! 逃げさせてくれ!!)
だが、俺の口は、そんな俺の願いをこれっぽっちも聞き入れなかった。パニックが極限に達すると、人は逆に攻撃的になるというが、俺の場合は特典がそれを最悪な形でブーストさせる。
「……五月蝿いぞ、下等種。食事の邪魔をするな」
(ああああああ! 何言ってんの俺!? 食事って何!? 俺、これから豆腐食べに行く予定だっただけだよ!!)
俺の不遜極まりない煽りに、呪霊が反応した。バケモノの感情が、一瞬で捕食から怒りへと塗り替えられる。
たまたまの一撃
シュルッ、と呪霊の触手が鞭のようにしなって飛んでくる。
(うわあああ! 来る! 痛いのは嫌だ!!)
感情知覚が、触手の軌道を赤い線として脳内に投影する。俺は恐怖のあまり、全力でのけぞった。それが偶然にも、完璧なスウェーとなり、触手は俺の鼻先を一ミリの差で通り過ぎていく。風を切る音が耳元で鳴り、肌が粟立つ。
「……何をしている。お前の攻撃は、止まって見えると言ったはずだ」
(言ってない! 今初めて言ったよ! てか、止まって見えるけど、避けるので精一杯なんだよ!!)
呪霊がさらに激昂し、全身の目を血走らせて、肉の塊のような巨体で突っ込んできた。逃げ場はない。俺は半狂乱になり、なんとかあいつを遠ざけようと、右手をめちゃくちゃに振り回した。
(……あっち行けえええええ!!)
「……消えろ、塵芥」
その時、俺の足が濡れた落ち葉に滑った。
おっとっと!? とバランスを崩し、俺の体は大きく前にのめり込む。偶然にも、全力で振り回していた右拳が、突っ込んできた呪霊の核らしき部分に、吸い込まれるように たまたま 直撃した。
ドォォン!!
神様からもらった呪力が、俺の体重移動と、呪霊の猛烈な突進スピードと合わさり、爆発的な威力を生み出した。
「ギャアアア……ッ!?」
呪霊は断末魔すら上げられず、一撃で黒い霧となって霧散した。
(……え? 倒した? 俺、今、倒しちゃった?)
路地裏に静寂が戻る。俺は滑った足を隠すように、何事もなかったかのように立ち直り、ポケットに手を突っ込んだ。実際には、手が震えて止まらないのを隠すための動作である。
助けられた若い男は、腰を抜かしたまま、俺を神か何かのように見上げている。
「……す、凄い。低級とはいえ、あんな一撃で……。あんた、一体……」
俺は、胃がキリキリと痛むのを感じながら、精一杯の強者の背中を見せて歩き出した。早くここを離れないと、ボロが出る。一分一秒でも早くこの場から立ち去りたい。
「……名前を名乗るほどの価値はない。精々、命を大事にすることだな」
(ごめんなさい! 本当は大丈夫ですかって聞きたいんです! 腰抜かしてるの、俺も同じなんです!!)
俺は振り返らずに、早足で路地を抜けた。背後で男が「あ、あの! 私は京都の現場窓を担当している者で……!」とか言っていた気がするが、パニック状態の俺の耳には届かない。
(帰りたい。今すぐホテルに帰って、鍵を十重二十重にかけて寝たい……)
俺は、120点満点の孤高の天才の歩き方で、実際には泣きべそをかきながら、京都の夕暮れに消えていった。
だが、今の戦いを、電柱の上からじっと眺めていた眼があった。
真っ黒なサングラスの奥にある、蒼い輝き。
(……変なの)
白い髪の少年、五条悟は、スッと電柱から飛び降り、九条が歩いていった方を見つめた。
六眼は、九条の呪力を詳細に捉えていた。呪力量そのものは、一級や特級には遠く及ばない。だが、その出力の仕方が異常だった。
(あいつ、わざと滑ったな。滑って体の重心を預けることで、自分の呪力以上の威力を一点に集中させた。……いや、そもそも攻撃が当たる前から呪霊が消滅する未来を確信してたような動きだ)
五条の目には、九条のたまたまが、計算し尽くされた戦闘に見えていた。何より、九条の感情が六眼を通しても全く読めない。恐怖も怒りも喜びも、氷のような無機質な壁に遮られている。
「へぇ、京都に面白いのがいるって噂、本当だったんだ」
五条は、自分と同年代か少し上と思われるその背中に、かつてない興味を抱いた。
最強への階段を登り始めた少年にとって、九条零という存在は、あまりにも未知で、あまりに不気味な 壁のように映ったのだ。
「あーあ、傑に教えたら怒るかな。面白い玩具見つけたって」
五条はニヤリと不敵に笑うと、九条の足跡を辿るように、ゆっくりと歩き出した。
九条がようやく辿り着こうとしている「安息の地」に、さらなる天災が近づいていることを、当の本人はまだ知る由もなかった。