九条零の不本意なる呪術回想録   作:あいあい

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冷めた湯豆腐、開闢〜裏〜

 四条河原町の喧騒から逃れ、俺、九条零は、迷路のような路地裏を潜り抜けた先にある一軒の店に辿り着いていた。そこは、観光ガイドにも載っていないような、知る人ぞ知る静謐を湛えたおばんざい屋だった。

 

 古びた木造の引き戸を開けると、出汁の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。店内にはカウンターが数席あるのみで、先客はいない。俺は隅の席に深く腰を下ろし、ようやく安堵の吐息を漏らした。

 

(……これだ。これこそが俺の求めていた安息。直哉もいない、バケモノもいない、ただ美味しい飯と静寂がある空間。神様、最後の最後でまともな慈悲をくれたんだな)

 

 注文したのは、この店の名物だという湯豆腐だ。運ばれてきた土鍋の中では、真っ白で柔らかな豆腐が、澄んだ出汁の海で静かに揺れている。立ち上る湯気が、俺の強張った外面を優しく解きほぐしていくようだった。

 

 俺は震える手で箸を取り、まずは一口、その熱を喉に流し込もうとした。

 

(さあ、食べよう。一口食べれば、きっとこの悪夢みたいな一日の記憶も、出汁と一緒に胃に流れて──)

 

 そう、確信した瞬間だった。

 

 俺の脳内に常駐する 感情知覚 が、突如として視界を焼き切るような極彩色の爆発を捉えた。

 

(──ッ!? な、何だこれ、視界が……焼ける!!)

 

 これまで出会ったどんな人間とも、どんな呪霊とも違う。それは色という概念を超えた、純粋で暴力的なエネルギーの奔流だった。傲慢なまでの蒼、どこまでも透き通った無限の白。周囲の空間すべてを支配し、塗り潰してしまう圧倒的な最強の輝き。

 

 直哉の悪意が鋭利な剃刀だとするなら、これは超新星爆発そのものだ。避けることも、抗うこともできない。ただそこに存在するだけで、世界の理を書き換えてしまうような絶対的な光。

 

 ガラリ、と店の引き戸が開く。

 

 逆光の中に立っていたのは、夜だというのに真っ黒なサングラスをかけ、雪のように白い髪を短く切り揃えた少年だった。高専の制服をラフに着崩し、ポケットに手を突っ込んで歩くその姿は、どこからどう見ても手に負えない問題児。だが、彼が纏う空気は、この世の誰よりも神に近かった。

 

(五条、悟……。嘘だろ、なんでここにいるんだよ。お前、今頃は東京で夏油と一緒に『僕たち最強』ってイキってる時期だろ!? なんで京都の、こんなマニアックな店にピンポイントで現れるんだよ!!)

 

 九条の内心は、もはや絶叫を通り越して、宇宙の塵のように霧散していた。心臓の鼓動が耳の奥で鐘のように鳴り響く。しかし、神様の特典は、そんな極限状態の俺にさえ最強のポーカーフェイスを強いた。俺は箸を持ったまま、微動だにせず、ただ無機質な三白眼を五条へと向けた。

 

 五条は店に入るなり、迷うことなく俺の隣の席へと歩み寄ってきた。彼が歩くたびに、床から伝わる微かな振動さえもが、俺の生存本能を激しく揺さぶる。五条は、俺の返事も、店主の言葉も待たずに、どっかと隣の椅子に腰を下ろした。

 

「へぇ、君か。京都の『窓』が、腰を抜かしながら本部に上げてきた報告。──『通りすがりの男が、不気味な気配を纏ったまま、低級の特殊個体を指先一つで塵に変えた』」

 

 サングラスの奥にある 六眼 が、俺の全身を、細胞の一つ一つに至るまで解析するように見つめているのがわかる。

 

 五条の放つ感情の色は、虹を煮詰めたような複雑な輝きを放っていた。それは純粋な好奇心であり、同時に、自分と同等の高みに立つ者を探し当てたという、残酷なまでの期待感。

 

「君、面白いね。呪力そのものはそこそこなのに、情報が全然読めない。透かそうとしても、なんか変な……そう、モザイクがかかってる感じ。ねえ、それどうなってんの?」

 

(それは神様の特典だよ! 余計なお世話だよ! お願いだから、そんなに身を乗り出してこないで! サングラスの隙間から見えるその目が綺麗すぎて、逆に怖いんだよ!!)

 

 俺は、胃が裏返るような不快感を堪え、震えそうな指先で豆腐を掬い上げた。味など、もう一ミリも分からない。それでも、この場を凌ぐためには余裕を見せなければならない。

 

 俺の口が、歴史上最強の怪物に対して、最悪の先制攻撃を仕掛けた。

 

「……騒がしいな。せっかくの出汁が、お前の安っぽい呪力で濁る。消えろ」

 

(ぎゃあああああああああ! 言った! 禁句中の禁句を言ったよ俺! 五条悟の呪力を『安っぽい』なんて形容した奴、人類史上お前だけだよ九条零!! 今すぐ消滅させられても文句言えないよ!!)

 

 一瞬、店の空気が物理的な重さを伴って凍りついた。カウンターの向こうで店主が息を呑む。五条の眉がピクリと動き、彼は無言でサングラスを少しだけずらした。その奥から覗く、吸い込まれるような蒼い瞳── 六眼 が、俺の魂を直接掴み上げる。

 

 だが、五条は激昂するどころか、低く、愉悦に満ちた声を漏らして笑い出した。

 

「あはは……あはははは! 最高! 僕の呪力を『安っぽい』なんて言った奴、初めてだよ。まさか京都で、こんな面白いものに出会えるなんてね。気に入ったなぁ、君。名前は?」

 

「……九条零。名乗るまでもない、ただの塵芥だ」

 

(塵芥は俺のことです! ゴミです! 掃き溜めに捨てられた、ただの豆腐好きの一般人なんです! だから、そんなに楽しそうに笑わないで。お前の好奇心、死ぬほど重いんだよ!!)

 

 五条はカウンターに肘をつき、俺の顔を覗き込むようにして距離を詰めてきた。彼の放つ青い感情が、物理的な圧力となって俺の肌をチクチクと刺す。

 

「ふーん九条、ね。いい名前じゃん。あんまり聞いたことのない名前だな」

 

 五条の感情が、一瞬にして子供のような純粋な残酷さに染まった。彼は楽しげに、自分の手を俺の目の前に差し出してきた。

 

「で、試してみたくなったわけ。君のその力をね。ねえ、今ここで僕に触ってみてよ。触った瞬間に僕の『無下限』が破られるのか、それとも僕が君を消し飛ばすのが先か。──試してみようよ」

 

(無理無理無理無理! 触ったら俺の手が粉砕されるだけだよ! そもそもそんな術式持ってないってば! 全部パニックから出た口の暴走なんだよ!!)

 

 俺は絶望のどん底にいたが、外面は依然として、最強の男を鼻で笑う「不遜な術師」のままである。俺は箸を置き、五条の手を一切見ることなく、静かに、そして冷酷に言い放った。

 

「……断る。今の俺には、この湯豆腐を味わう権利がある。お前の、その安っぽい玩具に付き合う暇はない」

 

(豆腐! 俺、今この状況で、人類最強の手を玩具呼ばわりして、豆腐を優先した!? バカなの!? 神様、俺の口を今すぐ縫い合わせて、二度と開かないようにして!!)

 

 五条は一瞬だけ、本当に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。六眼を持ち、生まれながらに世界の中心にいた彼にとって、自分の挑発を豆腐に劣るものとして切り捨てられた経験など、一度もなかったのだろう。だが、その沈黙はすぐに、さらに深く、粘着質な興味へと変わっていった。

 

「……豆腐の権利かぁ。いいよ、じゃあそれが終わるまで待っててあげる。その代わり、食べ終わったら僕と一緒に高専まで来てもらうよ」

 

(…………はい、詰んだ。人生終了のお知らせです。高専なんて行ったら、一秒でハッタリがバレて、処刑されるか、人体実験の標本にされるに決まってる!!)

 

 九条は、内心で滝のような涙を流しながら、冷え切って、もう何の味もしなくなった湯豆腐を、死ぬような思いで咀嚼した。

 

 カウンターに置かれた、九条の手。それは恐怖で石のように固まっているだけなのだが、五条の目には、いつどこからでも、あらゆる因果を断ち切る準備が整った強者の手に映っていた。

 

 

 

 

 

 京都、禪院家。

 

 歴史の重みに塗り潰されたその広大な屋敷の一角で、十六歳の禪院直哉は、自身の指先を凝視したまま静止していた。

 

(……なんやったんや、あの男は)

 

 脳裏に焼き付いて離れないのは、路地裏で出会った「九条零」と名乗った男の、あの冷徹な三白眼だ。禪院家の嫡男として生まれ、幼い頃から周囲を無能と見下し、己の速さこそが真理だと信じて疑わなかった直哉にとって、あの日起きた出来事は理解の範疇を超えていた。

 

 自分の投射呪法を、あの大真面目な顔で「紙居」と切り捨てた傲慢さ。そして、何よりも直哉を苛立たせているのは、その攻撃をあろうことか、最小限の動きで全て回避されたという事実だ。

 

(僕の速度に、呼吸するように合わせてきおった。……いや、違う。あいつは僕が動く前から、どこを狙うか知っとったような動きやった)

 

 直哉の心臓が、屈辱と、それ以上に形容しがたい高揚感で速く脈打つ。

 

(ハッ、出鱈目や。あんなん、ただの脅しに決まっとる。せやけど……)

 

 直哉の指先が、微かに震える。

 

 もし、あの言葉が真実だとしたら。もし、あの男の術式が、触れたものの定義を書き換えるような不可侵の領域にあるのだとしたら。直哉にとって、速さを奪われることは、自身の存在価値を根底から否定されることと同義だ。その恐怖を、あの男は寸分の狂いもなく言い当てた。

 

 まるで直哉の心臓を直接掴み、その中身を検分しているかのような、無機質な告白。

 

「……直哉。何を呆けておる」

 

 重厚な声が、静寂を破った。廊下を歩いてきたのは、現当主であり、実父である禪院直毘人だった。

 

「……別に、何もありませんわ」

 

 直哉は即座に表情を取り繕い、不遜な笑みを浮かべて見せた。だが、直毘人は鼻で笑い、息子の動揺を見逃さなかった。

 

「他の連中からも報告が上がっておるぞ。路地裏で呪霊を一撃で消し飛ばした謎の術師。……ほう、あの五条家の小僧も動いたようだな」

 

 その言葉に、直哉の顔から笑みが消えた。

 

「……五条悟が? あんな性格の悪いサングラス予備軍が、零に手を出した言うんですか」

 

「京都に面白いのが居ると聞いて、東京から飛んできたらしい。今頃、茶でもしばいておるのではないか?」

 

 直毘人が愉快そうに笑いながら去っていく背中を、直哉は憎々しげに睨みつけた。胸の奥で、ドス黒い独占欲が鎌首をもたげる。

 

(あかん。あいつは、僕が見つけた男や。僕の術式を『止まっとる』言うた、僕だけの獲物や……。それを、あんな六眼の化け物に横取りされてたまるか)

 

 直哉は、自身の腰に差した得物を握りしめた。十六歳の彼にとって、九条零は単なる敵ではない。自分の速さというアイデンティティを唯一揺るがし、かつ心を暴いた特別な存在になりつつあった。

 

(零。……君は僕が壊すんや。泣いて、縋って、その死んだような面が絶望で歪むまで、僕がずっと見ててやるさかい……)

 

 直哉は荒々しく部屋を飛び出した。行き先は、躯倶留隊から報告があった。

 

 奴の力をもう一度、自分の目で確かめるために。

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